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Chapter-2

 ピアノの音は相変わらず続いていた。

 待つだけですることがないので、僕は電柱に寄りかかり、スマホでネットを覗いたりしていた。

 人が近づいてきたので、もう磯崎が来たのだろうかと顔を上げる。

 違った。

 目の前に立っているのは、さきほど僕が尾行した、彼女だった。

「え?あ……」

 思わず動揺して、変な声をあげてしまう。

 僕が後をつけていたことに、彼女は気づいていたのだろうか。

 それとも、家の近くに不審者がいる、と思って注意しに出てきたのだろうか。

 制服を着たままの彼女は、むっとしたような顔をして僕の正面に立っていた。ピアノの音は途切れていないので、じゃあ弾いていたのは彼女ではなかったのか、と思う。いやともかく、それどころではない。

「あの……」

「磯崎くんは?どこへ行ったの?」

 彼女は言った。

「へ?」

 僕は目をぱちくりとさせた。彼女は物わかりの悪い子どもでも相手にしたみたいに、一音一音やけにはっきりと発音するように繰り返した。

「磯崎くんは、どこへ、行ったの?」

 僕はしばらくぽかんとし、それからようやく口を開いた。

「磯崎のこと、知ってるの?」

 僕の問いに、彼女は不機嫌そうに無言で返した。なんだろう、すごく苛々しているみたいだ。何か、そこまで彼女を怒らせるようなことを、僕がしたというのだろうか。

「あの……」

 彼女が黙りこくってしまったので、僕は何とかしたいと思ったけれど、何と言ったらいいのかわからない。ずっとさっきから同じ曲、グラなんとか博士の曲が、僕たちの間を流れ続けている。

「磯崎くんを、呼んでくれない?」

 張り詰めたような声で、彼女は言った。何かひどく切迫した問題でも抱えているのだろうか。

「あの、磯崎はもうすぐここに来るよ。でも、その……大丈夫?」

 彼女は元々ひどく色が白いけれど、もしかして、気分でも悪いのかもしれない。なんだかそれぐらい、彼女の様子はおかしい。

 けれども僕のそのことばに、なぜか彼女ははっと我に返るような反応を見せた。ほんの一瞬泣きそうな顔をして、それから、「なにが?何のこと?別に大丈夫……」としどろもどろ言った。でも、実際ちょっとしんどかったのかもしれない。すとん、とスカートの膝を下り、その場にしゃがみこんだ。僕も合わせて彼女の前にしゃがむ。

「あなたは磯崎くんの友だちよね?」

 しゃがみこんだ彼女は、先ほどよりも心もち柔らかな表情で訊ねた。

「うん」

「ねえ、磯崎くんって彼女はいるの?」

 さっきまでの切迫した様子が嘘みたいに、女の子らしい笑みを浮かべている。その変化に戸惑いつつ、僕は答える。「いないと思うけど」

「どんな子が好みなのかな」

「さあ……あんまりそういう話しないから」

 一体、なんで僕は今こんなところで、尾行対象だった女の子と道端にしゃがみこんで恋バナをしているのか。もしかしてこの子は磯崎のことが好きで、それで知り合いに頼んで磯崎に探偵の依頼をしたとか、そういうことなのだろうか。わざと自分を尾行させるように仕向けて、磯崎との接点を作ろうとしたとか、そういうことなのか?

「しないの?そういう話」

「しないなあ」

「どうして?女の子に興味ないの?」

「ある……僕はあるよ。でも磯崎はないのかも」

「もったいない。あんなにかっこいいのに」

「そうだよねえ」

 本当に何をやっているのだろうか。

 女子というのは、なぜかこういう話になると妙に生き生きとする。本当に、さっき立って磯崎のことを訊いてきた時とは別人かというぐらい、彼女はにこにこと話している。色白のうなじに長い黒髪が流れていて、綺麗な子だなあ、と改めて思う。

「磯崎くんはやっぱり音大を目指してるのかな?」

「音大?」

 そんなことは聞いたこともないし、たぶん違うと思う。

 そう口にすると彼女は驚いたようだった。

「そうなの?あんなに上手かったのに。ピアノは続けてるよね?」

「いや……やめてると思う」

「そっか。そうなんだ……」

 彼女は何か考え込んでいるようだった。すっとその表情に疲れみたいなものが差し込んで、僕は少し心配がよみがえる。

「それにしてもあなたたちの学校、変わってるね。探偵係があるなんて」

「探偵係?」

「係、とはちょっと違うんだっけ。委員会?学校の生徒以外のことでも活動できる、っていうのが不思議だったけど……」

「いや委員会っていうか、あれは磯崎が勝手に」

 僕が説明しかけた時、すっと人影が差した。

「こんなところでしゃがみこんで何を話してるんだ?」

 磯崎に呆れた顔をされるというのは、ちょっと心外なことだけれど。

 まあでも、そう言われても仕方ない状況ではあったかもしれない。

 さっきまでにこやかに話していた彼女は、なぜかまたキツイ表情に戻り、立ち上がる。

「久しぶり、磯崎くん」

 彼女は言った。

 磯崎は、にこりともしなかった。

「事情はわかった。山中先輩からすべて聞き出した」

 僕にちらりと目をやると、抑揚のない声で告げた。

「坂木えみの母親やクラスメイトから裏付もとれた。坂木えみが先週から自宅に帰っていないのは本当で、先週から学校を休んでいることも事実だ。けれども母親は彼女の所在を把握しているし、山中先輩も同様だから、彼女のことはまったく心配していない。山中先輩は、僕への依頼は橘綾香さん、君からの頼みだったと教えてくれた。宿題を手伝う条件で僕への依頼を引き受けたのだと」

 磯崎の表情は硬い。

 磯崎は男ばかりの三人兄弟の真ん中である。そして小学校は六年間普通の公立の共学だったものの、中学一年生の二学期には男子校に編入している。もちろん同じ環境でもそうでない人はたくさんいると思うが、僕が見る限り、磯崎はちょっと女子と接するのを苦手としている節がある。「誰かの願いを叶える」探偵を目指す磯崎は、普段であればたとえ嘘の依頼をされても、こんな風に怒ったようなそぶりは見せないのだけど……相手が苦手な女子だから、ぎこちなさできっとこんな風になってしまっているにちがいない。

「まあまあ」

 僕は場を和ませようと愛想笑いを浮かべながら割り込んだ。

「あのさ、もしかして、橘さん、だっけ。磯崎に会って伝えたいことがあるから、だからこんな手の込んだことをしたんじゃないのかな」

 男女のことに疎い磯崎は、まったく察していないかもしれない。それではあんまりにも、彼女がかわいそうだ。僕は助け舟を出したつもりだった。

 けれども橘さんは、しらけたような顔でスマホを操作して、それから顔を上げると僕に言った。

「私じゃないわ。冗談じゃない。用があるのは、えみだから」

 程なく、ピアノの音がやんだ。磯崎は、冷えたような目で橘さんを見ていた。失礼なくらい、上から下まで、凝視していると言ってよかった。

「けれども、悲鳴を上げているのは君だ」

 磯崎が言った。唐突というか、正直意味がわからない。

「何を言っているの?」

 それは橘さんにも同様だったらしい。呆れたように返した彼女に、しかし磯崎は表情を緩めることもなく、言った。

「グラドゥス・アド・パルナッスム博士。八年前に君たちの演奏を聴いた時、すごく引っかかったんだ。君はあの時ほぼ完ぺきな演奏をしていたけれど、一か所音を間違えていた。そしてその後で弾いた坂木えみの演奏。雑だったが怖ろしいほどの勢いのある速弾きで、会場中から熱のこもった拍手を浴びた。彼女はミスタッチが多かったが、しかしその中の一つは君と同じ個所、同じ音に間違っていた」

 僕は磯崎を見る。一体何の話が始まったのだろうか。

「その後君たちの様子を目にして、少しだけその会話も耳にした。彼女は凄いと褒めそやされていた。彼女は言った、『全然練習してない、あやかのおかげ』と」

 橘さんは顔を歪めて言う。「何が言いたいの」

「ピアノ教室の方針にもよるが、発表会では大抵曲がかぶるのは避ける。それは、同じ曲を弾けば巧拙があからさまになってしまい弾いた人間が傷ついたりするからだ。実際、僕たちが通っていたあの教室でも、通常は同じ曲を弾くことがないよう、先生が配慮していた。だが君たちは特例だった。違うか?先生は、才能がある坂木えみに何とか発表会で曲を弾かせたかった。坂木えみは、『君と同じ曲』であれば弾くとそう言ったのではないのか。音を耳で覚えてしまう子どもは譜読みを面倒臭がる傾向がある。あの時彼女は、君が弾いていた曲を耳でコピーして弾いたのではないか?」

「……そうだけど。でも、それは、私がそれでいいと言ったからで、だから」

「そして先ほど彼女が弾いていたグラドゥス・アド・パルナッスム博士。音大志望ならさすがに今でも譜読みをいやがっているなんてことはないと思うが、あの曲の正しい音を知る機会がなかったのか、知っているけれど馴染んだ音の方がいいのか、彼女は相変わらず君が間違えたとおりの音で弾いていた。君の間違いを、あげつらうかのように執拗に反復し続ける、僕はそこに彼女、坂木えみのこの上ない悪意と無神経さを感じたが」

 ちょうど橘さんの家から出てきた坂木えみが、近づいてきたところだった。彼女は道の真ん中で磯崎のことばを聞き……凍りついた。

「えみっ」

 踵を返して家に駆け戻った坂木さんを、橘さんが追いかけた。背中を向けていた磯崎は、振り返りもしなかった。

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