プロローグ
西原弥生は一人で朝食をとっていた。これが去年までの話ならば、彼女の前には夫の恭司と、娘の彩乃が一緒にいたはずだった。
娘の綾野が突然行方不明になったのが一年と半年前のこと。それから夫婦の関係は悪化し、大体一年前に夫の浮気が発覚したことをきっかけに離婚、それからは一人暮らしを続けていた。
彩乃が行方不明になった理由が弥生にはわからなかった。我ながらいい娘を授かったと思うほどしっかりした娘だった。学業にも真剣に取り組み、容姿も整っていた。
それゆえ攫われてしまったのだろうか。
しかし、夫の恭司はそうは思わなかった。恭司はそれを知るなり、弥生を糾弾した。
「お前は何をしていたんだ」
弥生は箸を置いた。朝はどうも苦手で、食欲が出ないのだ。これは幼い頃からそうで、よく母にも怒られていた。
寝ぼけたまま、弥生はテレビのリモコンを散らかった床から拾い出して、テレビに電源をいれた。
時間はちょうど習慣的に見るそのニュースが始まる五時だった。それは、朝から調子の良い声で始まる。司会を務めるのは男性からの人気が熱い女性アナウンサーだった。弥生は清潔な身なりと品性ある雰囲気で司会をする彼女が嫌いではなかった。
だがまず最初に映されたのはその何時もの司会者の笑顔ではなく、『keep out』というテープが張り巡らされた民家の前に立つ、マイクを持った男性だった。
何かあったのか、弥生はそう思ったが特段関心を払うことはしなかった。娘が消えて以降、弥生はごく一部のことを除いて世間ごとに関心を払わなくなった。それなのに朝のニュース番組を見続けるのはただの惰性だった。
弥生は洗面台に足を踏み入れた。洗面器のまず、一番右下にある引き出しからドライヤーを取り出して、それからぞんざいにまとめられた化粧品を取り出した。鏡を見ると弥生の顔には隈ができていた。
弥生は娘が消えてからというもの、軽い不眠症のようなモノに陥っていた。娘が消えてからというもの、布団に入ってもそればかり考えてしまって眠りにつくことができないでいた。睡眠薬に頼るのはなんだか良い気がしなかった。
少しふらつきながら、リビングに戻っていった。もうすぐ夏なのに中央に置かれたこたつの上に鏡を立てて、弥生は化粧を始めた。
化粧を続けながら、弥生はテレビのボリュームを上げた。いつもの司会者がなにかいう声がしたが、その声は真剣なものだった。表情に笑顔はなく、緊張しているように見えた。しかし、当然のごとく、弥生はそんなことを微塵も気にしてはいなかった。ただただ、その声は弥生の脳を右から左へと通過していった。
「それではここで、もう一度現場の状況を聞いてみたいと思います。ヤマウチさん、聞こえますでしょうか。」
画面がスタジオから、先ほどの民家の前に切り替わった。マイクを持った男はイヤホンを耳に押し当てていた。
「はい、こちら現場です。警察によると、こちらの民家の中で1年半前から行方不明になっていた安藤悠斗くん十六歳が変死体となって発見されたそうです。第一発見者の安藤くんのお母さんは現在、警察の事情聴取を受けているそうです。これが一連の行方不明者変死事件に関係があるか、様々な方向で調査が行われています。」
ここで初めて弥生はニュースを聞く気になった。十六歳、一年半前という言葉が弥生の手を止めた。彩乃が行方不明になったのもちょうど1年半前で、年齢も同じぐらいだった。最近良く聞く、行方不明者変死事件というのも弥生はずっと気になっていた。
「ヤマウチさん。それで、発見された当時の状況についてわかっている事はありますか?」スタジオの女性アナウンサーが聞いた。
「そうですね。警察関係者によると、発見されたのは悠斗くんの部屋だったそうで、遺体に大きな損傷は無かったそうです。死因も特定されていません。これも一連の行方不明者変死事件と同様のことです。」
弥生はここで、テレビの電源を切った。ちょうど化粧が終わったからだ。このニュースを見ても彩乃は帰っては来ない。たとえ変死体として帰って来たとしても、弥生は嬉しいとは思わないし、悪い想像をしてしまうと思った。
弥生はただ期待していた。いつの日か、携帯を開けば彩乃から「そろそろ帰るね。心配させてごめんね。」とメールが来ていて、実際その翌日に彩乃は帰ってくるのだ。「ただいま」と彩乃は恥ずかしそうに言って、弥生は彩乃を抱きしめる。
その期待に水を差す報道、行方不明者変死事件...しかし、弥生は心の何処かで自分もその関係者になるんじゃないかと予感していた。それ故に、弥生はもうずっと触っていなかった彩乃の部屋にこの一連の事件を知ってから毎朝顔を出している。
そして今日も一通り出社の用意を終えて、弥生は二階にある彩乃の部屋の前に立っていた。
予感めいていた事が起こったと、部屋の前にいるだけで弥生は感じた。特に根拠はなかったが、母親の勘というものだろう。弥生は部屋の扉を開いた。それも暗闇の中で階段を下るように慎重に開いた。
まず弥生はは半分ほど開けた。勉強机とゴミ箱が見える。良かった、そう弥生は思った。そう、1年半前に消えた娘が何の気配もなく部屋に現れて死んでいるはずがない。弥生はそう思って残った半分を開けた。今度は何事も無いように、勢い良く開けた。
弥生の視界にはピンク色毛布が掛かったベッドがあった。いつもどおりのことだった。しかし、その毛布は縦長い山を作っていた。
弥生は恐る恐る近づいた。動悸は高まっていて、心臓はまるで小動物のもののように勢い良く動いていた。シベリアで水を被ったかのように弥生の顔は青白くなっていて、毛布を捲ろうとする手は震えていた。弥生は毛布の中に娘がいることを確信した。そしてすでに息をしていないことも。そして弥生は毛布を捲った。
白雪姫のように眠る娘の姿を、弥生は無表情で見ていた。頭では完璧に理解していたが、感情が追いついていなかった。十秒がたち、二十秒がたち、それでも弥生は無表情だった。五分ほど立ったあたりでようやく、弥生の頬に涙が伝った。それを合図にダムが決壊したように弥生は泣き続けた。




