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「お久しぶりでーす」
背後から掴まれた腕を反射的に振り払おうとする。念のために振り向けば、そこには彼をある意味煩わせていた良く知る顔があった。
「どうしたんですか?こんなに天気のいい日曜日に」
秋絵にプロポーズをし、唐突に逃げ帰られた洋行は、彼女に連絡することができないでいた。いつも受身だった彼女は、常に彼に合わせてくれていた。拒絶などされたことがない洋行は、プライドが邪魔をし、彼女にご機嫌伺い一つすることができていない。
少しだけ言葉尻が悪かっただけだ、頭を冷やせば秋絵は謝罪してくる。
そんな風に一連のやりとりを捕らえている。
自分は秋絵と結婚をしたくて、秋絵は自分と結婚したいのだから。
そんな中で、亜紀子と再び遭遇する。
精神状態は不安定で、いらいらは募る。控えていたタバコの本数は増加傾向にある。そんなあまりまともではない状態で、亜紀子を見下ろす。
どこか媚をうったような視線は相変わらずで、ここまでくれば、亜紀子がどういうつもりで彼にまとわりついているのかにも気がついてしまう。
偶然、などではないある程度仕組まれた出会い。
それならば、亜紀子を、と。
僅かな罪悪感と、もっと違う何がしかの感情を抱きながら、笑顔を返す。
「別に」
「別にって、あ、暇ならデートしません?デート」
あまりに軽くその言葉を吐く彼女に、洋行の中の理性が緩む。
仄かに感じていた亜紀子へ対する「好意」めいたものが霧散する。彼女は、洋行に恋人がいることを知っていながらこんなことを言える人間なのだと。普段の洋行なら思わないほど見下した醜い気持ちが浮かぶ。
彼女にとってそういうことは、ほんの軽い気持ちで行えてしまうことなのだろう。まるでゲーム感覚のように。
そうに、違いない。
今までの亜紀子に対して抱いてきたイメージと、瞬時に湧き上がった決めつけがかけ離れていたにもかかわらず、洋行はそう思う気持ちをとめる事ができなかった。
張り付けたような笑顔で承諾の返事をしたのち、積極的に腕を取り、家とは反対方向へと歩き出す。
これは、秋絵への罰だ。
自分に連絡も入れずに、彼の提案を却下した彼女に対する。
欲望でどす黒く染まる。
亜紀子への肉欲なのか、秋絵に対する復讐心なのか。
「まずは健全なデートでも」
「あ、不健全なやつもありですか?」
「望むなら、ね」
僅かに赤く染まった頬に、チクリと胸が痛んだものの、洋行はそれをどこかへと追いやる。亜紀子と手をつなぎ、秋絵とよく行った繁華街へと足を進めた。
「好き、なんです」
一糸纏わぬ姿でシーツだけでその身を隠しながら、座っている彼女がそんなことを口にした。
瞬時に頭に血がのぼる。
思い込んで、そうであった「女」でないと困る。
そんなことを思いながら。
昨日は随分とあちこち二人で駆け回り、久しぶりにデートらしいデートを満喫した。
洋行は当然のようにホテルに誘った。
秋絵の存在を一瞬だけ忘れ、亜紀子の目的は所詮それなのだと思い込む。愛情じゃない、ただの欲求だと。
始終俯き加減で、それでもしっかりと彼の腕を掴んだままの亜紀子を連れ、久しぶりにそういう目的のホテルに入りこむ。内装を堪能する間もなく、あっという間に彼女を組み敷く。正直言えば、よく覚えてはいない。
思えば、お酒も入っていないのに十分どうかしていたのだ、自分は。
そう後悔するものの、亜紀子もほんの軽い気持ちだろうというレッテルが、彼の罪悪感を随分と軽いものにしていた。
なのに、突然口走った言葉は、彼に思いを告げるもの。
内心の動揺を隠すように、ことさら辛らつな言葉を吐き出す。
「恋人がいるって知っているよね?」
「え?でも!」
仲間内では秋絵の存在は有名だ。
誰のおまけでたどり着いたのかは知らないが、亜紀子が知らないわけがない。決め付けて言葉を切りつける。
「知ってて、ついてきたんでしょ?こんなところにさ」
「違っ!だって、どうして?」
亜紀子は秋絵と洋行の状況を知るはずもない。そのことを薄々承知しながら、なおも畳み掛ける。
「悪いけど、迷惑なんだよね。」
「じゃ、じゃあ、どうして?」
どうして、自分の手を取ったのかと問いたい亜紀子の気持ちを遮断する。
「どうしてって、彼女がいるの知っててついてくるような子でしょ?君。遊びならいいけどさぁ」
「そんなっ……」
「悪いけど、俺結婚するし。今後周りをちょろちょろしないでくれるかな?」
いつもの洋行なら絶対に口にしないような言葉を吐き出し、ベッドから降りる。
素早く脱ぎ散らかされた衣類を身につけ、清算を済ませるとさっさと置き去りにする。
洋行の最後の言葉は明らかに強がりだった。
亜紀子の存在に、心がかき乱されていたことは事実だったのだから。
それが恋愛感情なのだと、今気がついたところで遅いのだと、洋行は悟る。
自分には秋絵しかいないのだから。
洋行が亜紀子とデートを楽しんでいる間、秋絵はどこかさっぱりした気分で休日を迎えていた。
あれ以来、洋行からの連絡がないにも関わらず、それがあたりまえのような状態となっている。そもそも、二人の関係は、秋絵が能動的に関わらなければ維持できないものだったのかもしれない。秋絵が連絡をし、洋行が受け入れ、休日に会う。恋人同士といえばあたりまえのプロセスも、この年数がたってしまえばどこかルーチンワークのようだ。
新鮮味がなくとも、二人の間に穏やかな空気さえながれていればいい。そう誤魔化してきた自分の気持ちすら、どこか遠くへ放り投げられたようだ。
自分が「結婚」の二文字を言えなくなってしまったのは、いつのころだったのか。
ぼんやりと覚えているのは、仲間内で最初に結婚するといった友人から招待状が届いたころだ。
そういった華やかな場に呼ばれることが嬉しくて、よく知る人物が次のステップに進むことに浮かれていた。浮ついた気分のまま、招待状を洋行に見せた。その頃はまだ、結婚にあせる年齢でもなかったため、他意はなかったはずだ。その友人は、洋行も良く知る人物だったため、お祝いの言葉でもくれるものだと単純に考えていた。
だが、洋行はその招待状を一瞥し、眉間に深い皺を寄せた。
そして、ただの一言もそのことに触れることはなかった。
それ以来だ。
秋絵が、この話題に消極的になっていったのは。
点数が悪くて隠してしまったテスト用紙のように、一度飲み込んでしまった思いを吐露し辛かった。
きっかけは、さまざまなところに落ちていたというのに、秋絵はただただ見ないふりをすることを選んでしまった。
洋行は、単純に慣れない社会人生活から私生活の変化を望まなかっただけだ。気まぐれに会っておいしいものを食べ、そしてそれぞれの居場所へと帰っていく程度の距離感が好ましい。ゆるゆると横たわる秋絵とのやりとりは居心地が良い。他人の人生になど責任を持ちたくない、明確に将来のビジョンを想像することができない。変わらなければいい、と願った思いは、彼が目を伏せることで成立した。
些細なボタンの掛け違いは、ここにきて取り返しがつかないほど大きなものとなってしまった。
ぬるま湯のような、暖かな年月を捨て去る決心をしてしまえるほどに。