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洋行は、漫然と秋絵を避けてしまっていた。
言い訳にもつかない言い訳を口にし、上ずったような思考で彼女にそれを伝える。会えば何かがわかってしまいそうな自分が嫌で、会わないことが最善だと自分に言い聞かせる。
それを受けた秋絵の態度がひどくおかしかったことにも気がつきもせず、電話を切り終えたときには深くため息をついていた。
偶然、とはもはや言えないほど、亜紀子との接触は頻度を増していた。物理的な距離に引きずられるように、精神的な距離も亜紀子の方へと近寄りつつある。甘ったれた話し方で、どこか猫を思わせるような容姿の女に、自分が惹かれていることを認めたくなくて、子どもが嫌々をするように頭を振った。
にもかかわらず、亜紀子の姿がみえなければ一抹の寂しさを覚え、亜紀子の姿が見えれば後ろめたさを感じる。感情の一部が彼女に支配されているようで、どうにも不快だと思う気持ちが浮かびすらする。
感情の乱れを振り払うようにしながら、秋絵と将来二人で暮らしている様子を想像する。必死になって自分自身の気持ちを落ち着かせ、念じるように自分が好きなのはまだ秋絵であることを確認しさえする。本来ならばそんな確認作業自体、おかしなことだ。
だけれども、混乱した洋行にとっては、そんな風にして培ってきた過去と、来るべき未来に縋る事でなんとか平静を保っていられるのだ。
――これ以上は無理だ。
そんなささやきが聞こえる。
――いっそ素直になればいい。
どこからか湧き出る声に蓋をする。
秋絵との付き合いは長い。
自然と寄り添い、口うるさいことをいわない彼女との生活はとても理想的だ。居心地がよく、自分という男をよく理解してくれている。馴染みの良さを手放したくなくて、一時の軽薄な思いだと捨て去ろうとする。
「亜紀子」の体を押し倒したいと思った衝動。
それは全て肉欲からくるものであり、それだけでしかありえない。肉体的に若いオスならばおこるべくただの欲求でしかないのだと、繰り返す。
不安定な心を持て余した中、とある計画が浮かび上がる。それをただ唯一の光のように感じ、素晴らしいものだと自己満足をする。
洋行にとっては、いや、秋絵にとってもこの上もなく幸せなその提案は、一時的に洋行の精神を安定させ、予定された未来に思いを馳せる事で彼は健やかな眠りにつくことができた。
来週は、秋絵に会わなくてはならない。
洋行は、久しぶりに夢を見ることなく朝まで眠る事ができた。
「どうした?」
「ん?ううん、なんでもない」
中二週を経たデートだというのに、あまり気乗りのしない秋絵は、明らかに生返事を繰り返していた。
原因は、今現在もかばんの中に転がっている携帯電話の中身にある。
あれ以来、仲とは頻繁に、というほどではないけれど、それなりにメールのやりとりを繰り返している。
ただ、今朝方届いたメールに、返事を返せないでいた。
洋行に会うことを思い出し、手にとっては置くことを繰り返す。そんなことをしていたら、あっという間に家を出る時間となり、返事には手付かずのままだ。
心ここにあらずの状態で恋人と対峙していることに、気がついてもいない。
いくら鈍い男だと言われようとも、そんな恋人の状態に気がつかないはずも無く、洋行は秋絵に対して戸惑いを覚えていた。
なにしろ長い付き合いだというのに、彼女がこのような態度を取ることがはじめてだったからだ。主張をしない控えめな秋絵との付き合いは、至極気楽なものだ。その居心地のよさが、どうやってもたらされていたのかを理解もできず、ただただ混乱をする。
おまけに、今の洋行は、秋絵に対して引け目を感じている。なおさら、正確な判断など出来るはずもない。
亜紀子との接触は回数を重ね、いつのまにかお昼ご飯を一緒に食べるところまでいきついていた。その先に何があるか、など、予想できないほど洋行は幼くもない。これ以上ずるずると長引けば、そちらの方向へと流されてしまう自分を自覚してもいる。
もちろん、洋行は秋絵のことを愛している。だが、この不可解な思いをどう呼べばいいのかはわからないのは本当のところで、それなのに、秋絵のことを手放すつもりも毛頭ない。
だけど、亜紀子のことが頭から離れないのも本当のことなのだ。
「あのさ」
「ん?」
「俺たち年も年だしさ」
「うん、そうね。もうすぐ三十」
「だからさ」
「なに?」
「結婚しないか?俺たち」
昼間のカフェで突然もたらされた洋行の言葉を、秋絵は直ぐには理解できないでいた。
徐々に頭が動いていくなか、ようやくその言葉の意味を理解する。
それは、ずっとずっと、待ち焦がれてきた彼からの言葉のはずだ。
切り出せなくて、だけれども切り捨てられるはずもなくて、燻っていた気持ちがうごめく。
ひどく神経を逆撫でされ、瞬間的に沸騰した気持ちが急速に冷やされる。
乱高下する気持ちと一緒に、目の前の恋人への気持ちがすっと冷えていくような気がした。
「年だから?私が三十路越えだから結婚するわけ?」
いつもは穏やかな秋絵の雰囲気が一変する。無理やり抑えたかのような声音は、まるで温度が感じられない。
それなりに緊張感をもって放った一言に対する答えが返されるどころか、ひどく機嫌を損ねたような態度に二の句がつげないでいる。
「それでなに?おたくのお嬢さんもいい年ですから僕が貰って差し上げますよって、うちの父親に挨拶するわけ?」
「いや、いくらなんでもそれは」
ようやく言い返せたものの、ペースは完全に秋絵のものとなっている。彼女がこんなにも激しくつっかかってきたことが初めてで、どうにも上手く対処ができないでいるのだ。そもそも、純粋な意味でプロポーズをしていたわけではないことを、自分自身が痛感している。秋絵の勢いに押されなくとも、簡単にボロを出していたかもしれない。
土井亜紀子の存在そのものを忘れるために洋行が考えて考えて、考え抜いた結論が秋絵と結婚すること、だったのだから。
もちろん、拒否されることなど頭の片隅にも浮かんではいなかった。
「じゃあなに?年も年だしって、なんなわけ?それだけの理由で結婚したいだなんて言ってるわけ?」
トーンアップした秋絵の声は、周囲の注目を浴び、内容が内容なだけに周りも声を立てずに、でも好奇心を隠せない様子でこちらの状況を窺っている。
目の前で感情的になる彼女も、周囲の視線にも耐えられない洋行は、咄嗟に伝票を掴み彼女を連れ出してその場から逃げ出そうとする。 そんな洋行の手を振り払い彼女は自分の分のお金をテーブルにのせる。
「悪いけど、帰る」
慌てて秋絵に追いつこうとするものの、清算が残っている洋行にはそれができるはずも無い。慌しく会計を済ませた後には、彼女の姿はどこにも発見することができなかった。
ただ一人取り残された洋行は、呆然と立ち竦み、しばらくしたのち自分の家へと足を向けた。
そのとき、秋絵の家へと行かなかったことを後になって後悔することなど知らずに。