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「はじめまして」

「はじめまして」


それほど形式ばらない料理屋の個室に、いきなり二人きりで取り残された。気詰まりになって、秋絵はありきたりな挨拶を口にする。

そういえば、先ほど簡単に自己紹介をしてもらったのだと思い出し、この挨拶は不自然だな、とそんなことを考える。

あまりこういう場面に慣れていない身としては、これ以上の言葉が出てきてくれない。

とりあえず運ばれてきた料理を眺めながら、目の前に座った相手の顔色を窺う。

――思ったよりもまともな人。

それが、秋絵の彼に対する第一印象である。

失礼だとは思いながらも、どこかお見合いの場に現れる男性像、というのに偏見があったのかもしれない。仲介人の紹介によるプロフィールを反芻し、現在の秋絵に対しては過ぎるほどの相手であることも理解できている。母親が過剰なまでに圧力をかけてきたわけだ、と、今更ながらに納得をする。

最後の抵抗、とばかりに遠慮会釈もなく母親から送られてくるお見合い相手の情報を悉く無視することにきめ、当日その場になるまで相手の顔すら知らない有様だったのだから。


「とりあえず、食べませんか?お腹すいちゃって」


相手の率直な口の聞き方に、どこか安心をする。

小さく頷きながら、秋絵も箸をとる。

食事をとりながらの会話は、相手が秋絵に質問をしながら、それに答える、といった形式で進んでいく。淡々と、時折饒舌になりながらも秋絵を置いてきぼりにしない話し方に、まともな人、以上の気持ちを抱くこととなる。


「えっと……。自分どこか変ですか?」

「え?いえ」


数秒黙り込んだのちに、訊ねられた言葉に瞠目する。

自分が相手に何か失礼な事をしてしまったのではないかと、少し前までの行動を頭の中で再現する。

いくら考えても答えがでない。困り果てた秋絵は、箸を置き、相手の言葉を待つ事にした。


「あの、なんか、じっと手元を見られているような気がして……、ってあの、すみません、自意識過剰で」


彼の告白で、ようやく合点がいった。ある一点の理由から、自分が彼の所作に注視してしまったということに気がついたのだ。


「すみません。あの、あまりに上手に箸を使ってらっしゃるから、つい見惚れてしまって。すみません、不躾ですね」


そう、相手の男性は、至極綺麗に箸を用いていたのだ。

最近は、めっきり箸すらもてない人間が多い中、まともに持てる上に、その動作が美しい人間などあまり遭遇することができず、知らず知らずのうちに凝視していたのだ。自分の失礼を詫び、再び箸を手にとる。


「私も普通に持てるほうですけど、本当に上手にお使いになっているので」


三度の謝罪に、相手は朱に染まった顔に安堵の表情を浮かべる。


「良かった、自分あんまりこういうところに慣れていないくて、変なことしてるんじゃないかって、思ってたんですよ。ああ、よかったぁ」


再び食べ始めた彼との会話は思った以上に弾み、名残惜しい雰囲気すら感じていた。おまけに、ここ何ヶ月間に感じていた鬱屈をまるで感じることなく、彼との食事は楽しいままに終了した。

もう少し、という気持ちのまま、いつのまにかあっけなく電話番号の交換なども行ない、秋絵は断りにきたことなどすっかり忘れ去っていた。 その気持ちが洋行に対する不満からくる相対的なものなのか、それともお見合い相手、仲亮太郎個人に対する絶対的な好意なのかはわからなかったけれど。

秋絵は久しぶりに感じた心の中の暖かい感情に戸惑いつつ、それをあっさりと受け入れていた。





  秋絵にすっぽかされた形の洋行は、仕方なく自室で大人しくしていることにした。秋絵の様子が電話越しでもわかるほど挙動不審だったにもかかわらず、洋行はそれに気がつく事ができないでいた。それは、再三にわたる土井亜紀子との出会いと無関係ではなく、今まさにそれについて悩んでいる最中なのだ。

正直なところ、部屋から出て彼女、土井さんに出くわすのが恐ろしいのだ。

会いたくないわけじゃない、だけど、今日ここで出会ってしまえば、自分がどこかとんでもない方向へと走り出していきそうで恐ろしいのだ。今ならまだ引き返せる、そんなことを思うことすら意識がそちらの方に引きずられている証拠だ。

にもかかわらず、いつのまにか昼食を共にするなど、一方的に亜紀子のペースに嵌りつつある洋行としては、まだ自主的に彼女に対して働きかけてはいない、ということが唯一の免罪符になっている。確かに携帯番号は知っているし、知られている。だけど、その番号を押した事も、彼女からこちらへ掛かってきた事もなく、今のところ偶然にまかせた出会いだけが二人の間の全てである。

だからこそ、何かが起こることを回避するために、こうやって新聞を隅々まで読み、音楽をかけ、そうして刻々と日が落ちる様を眺める、などという非生産的な一日をすごす事に決めたのだから。

今日ここで、亜紀子の姿を見たとき、自分が言い出しそうなことを想像し、そのろくでもない思いを振り払うべく熱いシャワーを浴びる。代わりに、秋絵と付き合ってきた長い年月を思いおこす。二人ともテンションが低いせいなのか、これといった諍いもなく、二人の付き合いは穏やかで順調なものな「はずだった」。少なくとも洋行にとってはその穏やかな生活そのものが重要なことであり、刺激だとか波乱だとかそういったもので現される雑音が入り込む事を嫌っているはずだ。なのに、洋行は心の中に、破綻を招きたがっている刹那的な何かが存在することを感じ取ってしまっている。そんなことをしでかしたら、どうなるのかがわかりきっているはずなのに、抑えがたい衝動が燻ったままだ。

秋絵に不満があるわけじゃない、秋絵以上に土井さんに惹かれているわけじゃない。

なのに、消しても消しても、彼女の存在が消えない。

悲鳴のような声が、頭の中で鳴り響いたような気がした。

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