終わりの日 ―森の中―
濃い朝靄に包まれた森を、私はひとり歩いていた。空はまだ薄暗い。異様なほどの静けさが辺りを包んでいる。
置いてきたみんなは、目を覚ましたら怒るだろうか。
ラストはきっと怒るだろう。気づかなかったことに自己嫌悪しながら、周りに当り散らしてしまうかもしれない。
イールはきっと、全て自分の中で完結して、小さく溜息をつくんだろう。いつもと変わらないあの無表情で。それがラストの気に障って、突っかかられるだろうと容易に予測できる。
ああ、でも願わくば。
誰一人、追いかけようとしないでいてくれればいい。
ここまで付き合ってくれただけでも感謝しているのだ。これ以上はもう、巻き込めない。
「長かった、なぁ……」
<智者>となった<彼>が消えて暫く経った時、唐突に世界は繋がった。
<彼>が『呼んでいる』のだとわかったから、迷いを振り切ってこの世界に来た。
あの頃の私はただの小娘で、平和な世界にいたから戦う術も持っていなくて。
<魔女>が幾度となく手を出してきたのを退けられたのは、運と<智者>の知識によるものだった。
<智者>の出現を人々は知らなかった。それが世界を渡ったときに<智者>が<魔女>に囚われた故のことだと知っていても、私には伝える術がなかった。
だから、力を欲した。王の眼前に行けるほどの力を。
時間をかけるわけにはいかなかった。<魔女>に囚われた<智者>がいつ堕とされるのか、わからなかったから。――…結局、間に合わなかったけれど。
力を得た。剣を得た。それが私の努力や知識のおかげなどではなく、<智者>の知識を分け与えてもらったからだったとしても、それでよかった。手段なんて選んでいられなかった。
だから<智者>のことを王に伝えて、<彼>を救うためのパーティが組まれたときも、それを利用することしか考えなかった。大分慣れたといっても異世界だ。一人よりも大勢の方が心強いのは当然のこと。
素性の知れない私が案内役であることを気に食わない人はもちろんいたし、あからさまに敵意を向けられたこともあったけれど、それは甘んじて受けるべきだと思った。殺されなければなんでもいい。<彼>の元へ行けるのならそれでよかった。
そうやってがむしゃらに目的へ向かってきて、――ようやくここまで来たのだ。
――…長かった。
もう一度、かみ締めるようにそう思った。
空間を渡る術を私は持っていない。<魔女>はいくつかの方法を持っているようだったけれど、私が分け与えられた<智者>の知識にそれはなかった。
だから今までの旅と同じように、ひたすらに自分の足で歩く。
万が一のために道々に足止め用の術式をかけておく。みんなは少なくとも日が高くなるまでは眠ったままだと思うけれど、念には念をだ。
「もうすぐだよ――」
届くはずがないと知っていて、<彼>に呼びかける。
もうすぐだ。もうすぐで全て終わる。
<魔女>はもういない。道行きを妨害するものは何もない。――<ラプンツェル>は塔から降りたがっているから。
少なくとも塔に着くまでは何事もなく済むはずだ。塔の内部は<魔女>の力に満ちているから、一筋縄ではいかないだろうが。
――――…ィン
鈴の音に似た音が、前触れなく頭に響く。けれどこれも慣れた現象だ。
「どうしたの、<レザルス・クルツ>」
問いかけると同時に目の前に漆黒の大剣が出現する。刀身から柄にいたるまで全てが黒。その全体に刻まれた銀の装飾が淡く発光する様は、幻想的ですらある。
手を伸ばしてその剣を手に取る。まるで身体の一部のように、手に馴染んだ。重さはほとんど感じない。これは『そういうもの』だから。
触れた先から伝わってくるのは警戒だ。この剣がその手のことを外したことはない。私は油断なく前方を見据えて、止まっていた足を前へと進める。
<レザルス・クルツ>は、大昔に<智者>が時の英雄のために鍛えたとされる剣だ。――否、実際に鍛えたのだと、<彼>に聞いた。
時の英雄の死後、それを扱える者はなく、分不相応なものが触れると気が狂うと言われ、<智者>によって何処かへと封じられた。
正確には扱える者がなかったのではない。ただ剣が認めなかったというだけだ。強大な力を秘めた剣ゆえに、誰にでも扱える代物にすることはできなかったのだと言っていた。
明確な自我があるわけではないが、意思らしきものは感じ取れるこの剣に、私は幾度となく助けられた。
恐らくこの剣を手にできなければ、私はとうの昔に死んでしまっていただろう。
――――…ィン
再び頭に音が響く。伝わる警戒の質が変わった。僅かに警戒が緩み、どこか戸惑うような感じが伝わってくる。
どうしたのだろうと思いながら歩を進める。ほどなくしてその理由がわかった。
「……ジン」
「久しぶりだな」
明るくなってきた森に相応しくない、全身黒尽くめの格好が周囲から浮いている。そんなことにはまるで頓着せずに、寄りかかっていた木から身体を離してこちらに向かって歩いてくるその人物を、私は知っていた。
「何の用かな。私は先を急いでいるんだけど」
「塔に行くつもりなんだろう」
「それが何か?」
「やめておけ。死にたいのなら別だが」
底の見えない闇色の目が、私を静かに見つめる。
「やめないよ。私はそのためにここへ来たんだ」
「知っている。だが、その上で止める。やめておけ。<魔女>のみの頃ならばともかく、<ラプンツェル>の力が加算された状態では、<レザルス・クルツ>があろうとも命の保障はない。――…塔はもう、人の立ち入れる場所ではない」
実感のこもった言葉だった。元使い魔だからこそわかるのだろうか。
だけど、そんなことはとうに予想していた。それこそ、最初から、――この世界に来た時から。
それでも私は、留まるわけにはいかないのだ。