前夜 ―イール―
木々の向こうに消えゆく後ろ姿を見つめながら、ひとりごちる。
「予定外、だったな……」
「何が?」
ひょっこりと木の陰から出てきたのは、見慣れた無表情だった。
「イール。立ち聞きは感心しないな」
「見張りが出て行けば何事かと思うよ普通。しかも結界なんて張っちゃって」
「それに関しては謝るよ」
「謝るのはキミじゃなくてラストだと思うけど。ま、別にいいけどね」
夜の涼やかな風が頬を撫でる。つかの間の沈黙。
「術式、どれだけ広がった?」
「答える必要はあるのかな」
「今ここで全身剥かれたいならそれはそれでいいけど」
「それは犯罪だよ、イール。……無事なのは顔と、手くらいかな」
「つまり今見えるところ以外全部、か。随分我慢強いね」
「そうでもないよ」
イールがふと手を伸ばして、素肌が晒されたままの右腕に触れた。
「まだ意識を保ってるってだけで、十分賞賛に値するよ。普通とっくに狂ってる」
「いろいろと、違うからね。過去の事例はあまり参考にならないみたいだよ」
「――笑顔を浮かべるのが上手だね、キミは」
「それは、どういう意味?」
「そのままだよ。笑顔らしい笑顔を浮かべるのが上手だって言ったんだ。本当はそれどころじゃないくせに」
「何を、――ッ!!」
「ごめんね。これ以上見てられないんだ」
「あ、ッ……い、た……っ」
目が眩むほどの激痛が唐突に襲ってくる。立っていられずに座り込んだ。
どうして、慣れ親しんだこの痛みが、今襲ってくる? まだ術式の効力は切れていないはずなのに。
痛みに耐えかねて、右腕に爪を立てた。痛みが分散して、少し意識がはっきりする。
「ほら、そうしてると痕がつくよ。つかまってくれていいから」
「だ、め……イー、ル、にも…ッ」
触れようとするイールの手を身をよじって避ける。この状態で触れられるわけにはいかない。この痛みは触れた人にも流れ込むのだから。
イールはいつもと変わらぬ無表情のまま、だけど初めて聞くような優しい声音でささやいた。
「よく言うだろ、二人なら痛みは半分って。あれ、痛みじゃなくて悲しいことだっけ。まあいいや。わかってて言ってるんだから、キミは遠慮しなくていいんだよ」
「イール、やめ……ッ!」
静止を聞かず、イールは無理やり私の手を自分の背側に回させる。そのまま包みこむように抱きしめられた。
「――ッつ! うわ、キョーレツっ……」
「離し、て…っ!」
さっきより軽減した痛みは、その分イールに流れ込んでいるはずだ。思うように動かせない身体を動かして逃れようとするが、イールは微動だにしない。
「それ、は、できない、相談だね……!」
「こ、の、馬鹿……ッ」
「キミにだけは言われたくないね! ひとりでこんなのに耐えてたくせに!」
「私の、選択の…結果なんだ、から……私が受けるのが、当然……っ」
痛みの波が激しさを増す。言葉を発するのにも凄まじい気力を必要とする。この痛みに慣れていないイールは尚更だろう。いきなりこのレベルの痛みを受ければ、どうなるかわからないのに。
「本当に、ばかだね、キミは……ッ。仲間を何だと思ってるんだ!」
「それとこれとは、別――、ッ!」
「黙ってないと、舌かむよ……っ。意識は失えないんだろう!」
「っ、イール……!」
「何、言われようと……離すつもりはない! 黙って、なよ……ッ」
痛みで視界が白く染まる。抗議は言葉にならずに、ただ痛みだけが全てになる。
自分の存在さえも忘却の彼方に押し遣りそうな、圧倒的なまでの痛み。最後に見えたのは、イールの肩越しに煌々と照る、満月だった。
「……ぅ、…イー、ル? 無事……?」
「――…なん、とか」
「だから、離してって、言ったのに……」
枯れた喉から無理やり声を押し出す。自分のものとは思えないような声だけれど、聞き取れる程度ではあったらしい。イールも似たような状態のようだけれど、声が出せるだけで上等だ。私が初めてこれを体験したときは、半日くらい声が出せなかったと記憶している。
「言っておくけど、後悔はしてないし、キミを恨むだなんて見当違いのことをする予定もないよ」
そう言って、イールはゆっくりと身体を離した。どうやらもう回復したらしい。さすが剣士、ダメージからの回復の早さは折り紙つきだ。
「……ひとつ、聞いてもいい?」
簡単な回復の術式を自分にかけてから、イールを見上げる。
「どうしてこのことに気づいたの? しかも無効化の術式まで……」
「ずっと見てたからね。ボクは剣士だから術式は専門外だけど、見て覚えることくらいはできるよ。だから調べて、解読したんだ」
「……私、隠してたつもりだったんだけど」
「剣士の動体視力を嘗めないでくれる?」
「……なるほど」
死角を選んで、できる限りの速さで術式を組んでいたつもりだったけれど、イールの能力を侮っていたらしい。
「動けそう?」
「一応」
「じゃあ、戻ろう。あんまり長いと、誰か来るかもしれないし。――ところで、」
「? なに、イール」
「そういう喋り方のほうが似合ってるよ」
滅多にない微笑とともに言われて、気づく。口調が昔――この世界に慣れる前のものに戻っていた。しかも声音も素のまま。
この世界で素の自分は不利だと気づいてから人前では無理のない程度につくろっていたのだけど、さすがにあの痛みの最中、そちらに神経を割くことはできなかったようだ。
……まあ、いいか。イールも別に気にしていないみたいだし、――それに、あと少しの付き合いだろうから。
「どうしたの、やっぱり動けない? だったらお姫様抱っこで連れて行ってあげるけど」
「丁重にお断りするよ」
軽く返して歩き出す。声と口調の変化にイールが一瞬眉根を寄せたようだったけれど、気づかない振りをした。今更素で接せられるわけがない。逆にぎくしゃくしてしまいそうだ。
遠く見える塔を視界に収め、一度目を伏せた。……全ては、明日終わるのだ。