前夜 ―ラスティード―
月がとても綺麗な夜だった。
「なあ、本当にひとりで行くつもりなのか」
「…………」
伏せていた目をあげて、問いかけた人物を見る。
まるで怒っているようにも見えるその表情が、心配しているのだとわかるようになったのはいつからだっただろうか。
長いようで短かった旅の中で、彼は随分と打ち解けてくれたように思う。
自分にも余裕が無かったからよくは覚えていないが、初めは胡散臭いものでも見るような、そして監視するような視線だったのだ。それを思えば、今こうして心配を前面に押し出した瞳で見られていることが奇跡のようだ――というのは言いすぎだろうか。
「元々そのつもりだった。今更引き返すこともできないし、するつもりもない」
「けど、<智者>は堕ちたんだろう。お前一人じゃ――」
「想定内のことだよ。むしろ、『だからこそ』、私はひとりで行かなければいけない」
答えれば、彼の顔が歪む。……本当に、随分と変わった。
「君には帰る場所がある。他の人にも。――でも、私には、この世界に『帰る場所』はない。行くべきところしかない。だからいいんだよ」
君が気にすることじゃない――そう、言外に込めて苦笑した。彼は私を気にかけすぎる。最初のように、得体の知れないものとして警戒し続けてくれてよかったのだけど。
「――ッ、無いというのなら! つくればいいだろう、帰る場所くらい!」
「帰れる確証が無いのに、つくるつもりはないよ。それに、待っていてくれるような人はいないしね」
「だったら――、」
僅かに、逡巡するような間が空いた。一度逸らされた視線が、強く真っ直ぐに向けられて息を呑む。
「俺が、待ってる。俺を帰る場所にすればいい!」
些か乱暴に引き寄せられて、そのまま抱きすくめられた。触れた肌が、熱い――否、私が冷たいだけだけれど。
予想していなかったとは言わない。けれど、実際に口にされるとは思っていなかった。
「――な、何を、言って――」
「好きなんだ、ひとりでなんか行かせたくない! 行くなよ、<ラプンツェル>は塔から出られない、このままなら脅威にはならない、行く必要なんて無いんだ! 行くな、行かないでくれ……!」
痛いくらいの力を込められて、ろくに抵抗もできない。――なのに、縋られているような気がした。
「――…ラスト」
「行くな……ッ」
「ラス――…ラスティード」
瞬間、力が弱まった隙にその腕から抜け出す。けれど距離をとる前に右腕をつかまれた。
「ラスト、」
「どうしてお前がそこまでするんだ。そんなに<ラプンツェル>が――<智者>が大事なのか!?」
「そうだよ。――…私がこの世界に来たのは、<彼>に頼まれたからなんだから」
「だから、自分の身を削ってでも<ラプンツェル>の元へ行くって言うのか!」
「それを私は選んだんだ。彼のせいじゃない。私が一番効率のいい方法だと思ったから、そうした」
「――…ッ」
捕まれた右腕を、いっそう強い力で引き寄せられた。袖を破らんばかりの勢いで捲られる。
「こんなことまでしてか!!」
腕全面に浮かび上がる、気味の悪い紋様。私が望んで手に入れたちから。
「前にも言った。私は戦う術を知らなかったから、それを得るためには仕方なかったんだ。時間の猶予も無かったし――」
「腕だけじゃない! お前、ほとんど全身に展開しているだろう!」
叩きつけるように言われた言葉に、驚く。……気づいていたとは思わなかった。本当に、鈍いようでいて、鋭い。
「見たんだ? ラストの覗き魔」
「ッ違う! 治療のときに見えたんだ!」
瞬時に真っ赤になったラストに笑う。何を想像したんだか。
「冗談だよ。……まあ別に、隠すようなことでもないか」
ラストの腕を軽く叩いて、離してくれるようにと伝える。躊躇う素振りを見せつつも離してくれた。正直なところ、少し痛かったから助かった。
「身体に術式を展開した人の記録はほとんど無いから、確証は無いんだけどね。……どうやら私は、この術式と相性がよすぎるみたいで」
「……どういうことだ?」
「私だって、身体に術式を展開するという行為が、どれだけ負担になるのかはわかってた。だから、計算に計算を重ねて、最小限に留めようとはしたんだよ。だけど、時が経つごとに術式が勝手に展開していってね。今ではこの有様だ」
「そんな……こと、ありえるのか」
「実際あるんだから認めるしかないよ。最初に知っていたら、私ももう少し考えたんだけどね」
少なくとも、こんなに早く身体にガタがくるような方法をとろうとは思わなかった。
まあ、相性がよすぎるのもあるけれど、耐性が無かったというのもあるのだ。術式なんて存在しない世界で育ったのだから仕方がないだろう。こればかりは努力でどうこうなる問題でもない。他の術式に触れるだけで展開するのは困りものだったけれど。
「でも後悔はしていないよ。私が選んだことだから。――君がそんな顔をすることなんてないんだよ」
苦笑する。言ってしまえば自業自得なのだ。
耐性が無かったことは、ラストには言わないでおいたほうがいいだろう。……治療の度に術式が展開していったことを知れば、自分のせいだと思いつめかねない。
「ラストには感謝してるんだ。王の命令だったからとはいえ、素性も知れなかった私にここまで付き合ってくれて。他のみんなにも感謝してる。私一人だったら、ここまで辿り着けなかっただろうし」
「俺が、もっと早く気づいていれば――」
「仮定に意味は無いよ、ラスト。<智者>をもってしても、過去を変えることはできないんだから。それに、ほら。<智者>ならこの術式をどうにかする方法がわかるかもしれない。だから、気に病むことは無いよ」
その可能性が限りなく低いことを、私は知っているけれど。<智者>はこの世界のための存在だから、別の世界が関わった時点でその絶対性は失われる。
「――…どうしても、行くのか」
「行くよ。約束したからね」
<智者>でも<ラプンツェル>でもなかったころの、<彼>と。
「俺じゃ、代わりになれないのか」
「そんな失礼なこと、できないよ」
ラストにも、彼にも、それは失礼だろう。侮辱以外の何物でもない。
「そろそろ眠らないと明日に響く。戻ろう、ラスト」
「……ッ!」
ほんの一瞬、顔を泣きそうに歪めて、ラストは走り去っていった。