秋雨とウィスキー
雨が屋根を打ち付ける音だけが、部屋に流れる。
部屋にあるのは、たった独りの影。
普段であれば、それは独りではない、たった独りの影――――――――――
「あんな奴…………もう知るもんか」
もう何回も呟いたその言葉は、外で激しく振っては屋根にぶつかる雨音で掻き消されていく。時計はまだ3時をさしているというのにもかかわらず、外は既に夕焼け時を過ぎたかのように暗くなっていた。
「勝手にキレて、勝手に出ていくとか、どんだけ自分勝手だよ…………」
これまた幾度目かもわからぬ言葉。彼の手に握られているのは、1枚の手紙。いや、正確には書置きというべきもの。ワンショットの琥珀色のウィスキーを重しに、その書置きがテーブルに置いてあった。日が昇って遅く、丁度昼の少し前という時、彼は起きた。そんな彼が寝ぼけ眼でそれを見つけ、興味を持って文面を読んでいった。その中盤辺りで、既に彼の脳みそはつい今しがた目を覚ましたことを忘れ、一気に覚醒へと向かっていた。
「どうせ変な理由でキレた、あいつの方が悪いんじゃねえか……」
三度毒を吐いた男が持っていた書置き。その文面には、こんな文面が遺されていた。
『 一樹へ
毎日毎日、私の苦労も知らずやってきたあなたの行動。私はもう、疲れました。
さよなら
涼風』
結婚して2年。子宝には恵まれないし、自身だってある程度昇進したところで出世街道は停滞。特別貧困でも富裕でもなく。それでも毎食きちんと主食採食揃い、夕飯にはビールを飲むくらいには余裕もあったし、2人はそれなりに酒を好んで飲むから様々なストックがある。普段から別段険悪な仲ではなかったし、むしろ仲のいい方であったと自覚していた。それなのに――――――――――――
事の発端は、一樹が知らぬことではあるが、数か月ほど前のことであった。彼は普段、妻である涼風に食事の用意を任せていたし、彼女も仕事をして給料を稼いでくれる彼の為になるならばと喜んでやっていた。
そんなある日、一樹は寝坊、慌てて家を飛び出していった。その時、弁当を忘れていったことに気付いた涼風が呼び止めたが、彼はその弁当は受け取る暇はないと振り向くこともなく走って行ってしまったのだ。帰ってきて謝りはしたし、その後はきちんと弁当を忘れても取りに戻ったりと最善を尽くしていた。
しかし、ここ最近はそうではなかった――――
『ねえ、また食べなかったの?』
『しょうがねーだろー? 俺だって営業回りで食べられないんだよ』
『それでも……お昼ご飯は食べてるんでしょ?』
『先方と付き合うときはな。それ以外は食べてない』
『そんなんで体もつわけ?』
『仕事合間にどうにかコーヒーとクッキーみたいなもので凌いでるよ』
『だったらその合間にお弁当少しでも食べれば……』
『やだよ、昼食時以外に弁当は……恥ずかしくて』
そんな会話があったし、それ以外の時もこういった理由で幾度も弁当を捨てていたのだ。それが彼女のストレスの主原因であり、今回の事件の最大の要因である。目の前で自分の作った弁当を捨てられる怒りというのは、ほぼ誰にとってもいい感情を持たせないだろう。
そんな自分の行為に一樹が気付いたのは、既に時計が5時を回ったころだった。先程までの自分に後悔と怒りと呆れを感じつつ、これからどうすればいいかと考える。ふと、泣いて、ぶつぶつと呪文のように呟いていたということで、とてつもなく喉が渇いていることに気付く。重しに入っていた琥珀色のウィスキーを思い出し、そのウィスキーの注がれたワンショットグラスを手に取る。
そこで一樹は動きを止めた。彼女がこのメモを書いたところまではわかる。しかし、何故わざわざこんなウィスキーを重しにしたのだろうか? 普通に考えれば、書いた時に使ったペンだとか、冷蔵庫にあるマグネットだとか、そもそもコップにしても空のものを置いていくか。ともかく、こんなウィスキーである必要性はない。彼はそのウィスキーに絶対に意味がある、と踏んで思考を始めた。ウィスキー、琥珀、ワンショット、様々なヒントがある。もしかしたら、この家にあるウィスキーなのだろうからそのうちのどれかに意味があるのでは、という考えに至った。どうやって見分ければいいか、その方法は簡単だ。
「……この味……飲みやすいし、それでも決して弱いってわけじゃない。この味にも意味があるか……? いや、それよりも……これは……」
半分ほどグラスのウィスキーを飲んだ彼が、再び考え始める。そんな中、一つのヒントが追加でわかった。これは――――
「これは……新婚祝いにもらったホワイト&マッカイ?」
以前から幾度か飲んだことのあるウィスキーだった。先述のように大変飲みやすく、流石に値は張るが手は出せないほどでもなかったから、少し贅沢をしたいときにはよく選択肢に入っていた。
「ホワイト&マッカイ……やっぱりこの味だ!」
棚から引っ張り出してきたのは、そのホワイト&マッカイ ロイヤル・ドルトンセラミック・ボトル。ノスリという比較的よく見かけるタカを模したセラミックのボトルで、自分達がまだ付き合ってもいない頃から友人関係にあった友人が、結婚祝いにと送ってくれたものだ。いつも棚にしまっている位置から動いた形跡があったから、もう間違いないだろう。
「ホワイト&マッカイ……何か特徴は……」
あれこれと思案を続ける一樹。しかし自分の知識だけでは限界もある。自身のデスクにあるパソコンの電源を入れ、インターネットで検索を始めた。
「…………これだ!」
数十分をかけ、彼は答えに行き着いた。と、いうのも、その独特なボトルの形状と相まって意味が強調されていたということが分かったからだ。
ホワイト&マッカイというのは、ウィスキー、スコッチの中でもダブルマリッジという製法を用いて製造される。マリッジ、つまり樽詰めであるが、これを普通は一回、つまりシングルマリッジともいうべき方法で瓶詰めに持っていくが、このホワイト&マッカイというのを筆頭に、これらの酒は一度樽から出した後、いくつかの工程を経て再び樽詰めされる。そうすることで更なる味の発展を行うことに成功しているのだ。
そしてボトル。これは、ロイヤル・ドルトンセラミック・ボトルというそれなりに珍しいもので、ノスリという中型のタカを模っている。そしてノスリを含むタカは、決めた相手には一生付き添うという。二匹を分かつのは死別のみということである。
「……許して、くれる……ってことかな?」
ダブルマリッジ。自分達はまだ離婚してこそいないが、絶対的なピンチではある。それを、やり直そう、そしてより良い関係となろう、というメッセージに思えた。そしてタカ。決めた相手に一生付き添うという習性から出る答えはそうそう多くはない。
あとは、彼女のいそうな場所を探すだけだ。だが、彼女のことだ、自分に分からない場所にはいないだろう。酒場か、実家か、それとも……いくつかの候補が出てくる。そんな中、彼女がわざわざこんな手の込んだメッセージを残したことから、実家などはないと考えた。できる限り一人きりになれる場所を探すはず――――――――
答えが分かった一樹は、昨日から着替えていないワイシャツにスーツのパンツという恰好のまま、傘も持たず飛び出した。 乱暴に靴を履き扉を蹴り開け、左右の確認もせず飛び出す。激しい雨はあっという間に彼の体をずぶ濡れにするが、彼は構わず走る。
どんどんと服が重くなっていくし、普段営業回りとはいえ流石に走り回ったりはしない一樹の体は、既に鉛のようになっている。それでもなお、彼は走る。少しでも早く着くことが、彼女へのせめてもの罪滅ぼしになると信じて。
視界はどんどん後ろへと流れてゆく。雨が自分の体と心を洗い流して、入れ替えてくれているような感覚だった。目に何粒も雨粒が入ってくるが、それですら今は走る気力になる。
「涼風!」
目的の近所にある公園にたどり着いた彼が力いっぱい叫ぶ。その声はきちんと届いたようで、公園の敷地の端を流れる大きめの川近くに立っていた、黒いセミロングの髪を肩に流した彼女が振り返る。雨に濡れた彼女は、いつも見ることのできない色気があった。それに一瞬だけ見惚れるが、すぐに彼女に駆け寄る。
「本当にゴメン! 君の気持ち、全然わかってなかった」
「……いいのよ。もう、許してあげる。だって、ちゃんと今来てくれたじゃない。分かってくれたならいいわ」
そう言ってほほ笑む彼女に、思わず彼は涙しそうになった。いや、もしかしたら泣いていたかもしれない。どちらにせよ、この雨が隠していてくれた。この日ばかりは、雨に感謝したい気分になった。
「それじゃ、帰ろ?」
「あ、ああ」
うふふ、と今度はしっかりとした笑顔を浮かべながら涼風が一樹の手を引っ張った。それにつられて、一樹も笑みを浮かべる。そんな2人を祝うかのように、雨は既にひっそりと足を弱め、今ではすっかり上がってしまった。見渡せば雲々の隙間から、光が漏れてきている。きっと、ここにある川辺の砂浜も、明日になれば乾いて今よりもっと硬くなるだろう。それは、まるで2人のこれからを暗示しているかのように。
「ねえ、それにしてもよくわかったわね?」
「君こそ、よくもあんなことを思いついたね」
雨に濡れた彼らは、一度家に帰って着替えてから、久しぶりとなるデートを楽しんでいた。近所にある行きつけのバーで、2人はホワイト&マッカイをロックで楽しんでいる。
「うふふ、それにしても、もう一つは気付かなかったみたいね?」
「ど、どういうこと?」
「あら、忘れたの? 今日は……2人が結ばれた記念日じゃない」
先程から笑顔を振りまいている彼女の笑顔が、より一層楽しげに笑う。ああ、そうか、と思い出した一樹。ふと思い出したようにコートから一つの小箱を取り出して、彼女に差し出した。
「これは?」
「その結婚記念日に贈ろうと思っていたんだ」
開けてみていいか、と聞いた彼女に勿論と肯定の言葉を返す。楽しそうに青い小箱を開けた彼女が中身を知った途端、再び笑顔が眩しくなった。
「これ、貰っていいの!?」
「うん。これからも、よろしくね」
彼が贈ったのは時計だった。自身のシルバーの時計とペアになる時計で、うっすらとピンクがかっている。どちらの時計も針と文字盤は青い金属をシルバーの金属でふちどりしたもので、文字盤の色は一樹の物は白、彼女の物は黒。ライトの色はどちらもブルーである。今年人気のモデルで、一樹は以前から着けていたものの、ペアとなる時計が出てきたのが今年の3か月ほど前だった。それを予約してまで購入したのが、その時計だった。
「じゃあ、俺達のこれからと……」
「今日の事を無事解決できたことを祝って」
「乾杯」「乾杯!」
小気味の良い音を鳴らして、琥珀色をしたグラスがぶつかり合う。それを口に含み、彼等は楽しそうに話しだす。このバーの数少ない常連とマスターが、彼らの事を暖かく見守る中、秋の夜長は未だ始まったばかりだった。
ぶっちゃけた話が、この話は作者もどうして書こうと思ったかよくわからないものでした。ネタがどこから降ってきたのか、そもそもこの雰囲気は作者の年齢とかみ合わないじゃないか、などなど……ただ、そこは気にしないで頂けると幸いです。
秋の夜長、秋雨の後……とかく秋というのは人肌恋しく感じるもの。少しでも、誰かと会って話をしたい……そう思っていただけたら嬉しいです。