第七話 雨の降る日
雨が降っている。
空は一面鈍い鼠色をした雲に覆われていて、街はノイズがかった雨音で包まれていた。
昨日の昼過ぎから降りだした雨は一時的に激しくなったものの、それ以降は荒れることなく穏やかに降り続けている。
普段ならば親子連れや子どもたちで賑わう自然公園も、この天気では人っ子一人見えない。
公園の外周を囲む雑木林の陰から、大きな体躯の獣が現れた。
長い鼻と釣り上った紅色の瞳に、三角形の耳。黄金色の毛並みには、雨の中だと言うのに一切濡れていない。
九本の尻尾をゆさゆさと揺らす狐は、雨に濡れた芝生を確かめるように踏んだ。
落ち着いた足取りで、木陰の近くある池の方へと向かう。
さほど大きくはないその池の水面は、幾つもの波紋が生まれ衝突し打ち消し合い、荒れていた。
そんな池の傍らで、女性は何も映らない水面をジッと見つめていた。
「また見ておるのか、水仙」
低く落ち着いた彼の声に、水仙は顔を上げる。
首を動かして声の主を探す。彼の姿を見つけると、邪気のない笑顔を浮かべた。
「おはよう……」
背筋が冷たくなるような、静かな声。
「うむ。今日も良い天気じゃの」
「うん……冷たくて気持ちいいよ」
薄い水色を帯びた白髪は雨に濡れ、頬に張り付いてる。身に纏う白のワンピースもまた、ぐっしょりと濡れていた。
裸足のまま、肌が透けてしまうのを構う様子もなく、彼女は腕を広げて雨を浴びる。
「早速で悪いが、一つ頼まれてはくれんか」
「お日様のお願いなら……なんでもきくよ?」
「助かる。わしはちと野暮用があっての、少しの間じゃが、日照雨の傍を離れればならん」
「日照雨……」
青紫色に染まった唇に指を当てて、首を傾げる。
「わしの末の嫁じゃよ。昨日捜索を頼んだ娘のことよ」
「あの可愛い子だ……」
へにょり、目を細めて笑う。
「部屋に置いておいても良いのだが、せっかくじゃしの」
「一緒にいれば……いいの?」
「ああ。話相手になってくれれば構わんよ」
「わかった……」
コクン、と水仙は頷く。
「そうじゃ、あれを妖怪が襲ってきた時は露払いをしてもらえると助かる」
「うん」
「そろそろ次の場所へ行きたいとは思うが」
「お日様が帰ってくるまで……いるね」
彼は優しい声で「頼んだぞ」と言うと、体を屈める。
風がゆらりと吹いた。雨音が波打って、元に戻る。彼の姿は、もうそこにはなかった。
「ばいばい」
何もない空間に向かって、水仙は小さく手を振った。
彼が出てきたのと同じ木陰から、ひょこっと可憐な少女が現れる。
「旦那さまぁ、は……もう行かれとりますか」
膝下まである黄色い雨合羽を纏い、フードは深々と被っている。艶やかな黒髪は、合羽の中に仕舞っているようだ。
黄色い長靴でぴちゃんっと芝生を踏みながら、黄色く大きな雨傘をくるくると回す。柄には、ハンドバッグを引っかけていた。
「今行ったとこ……だよ」
「あっ。水仙さまどすよな?」
雨に打たれている水仙に気がつき、早足に彼女の元へと向かう。
「どす」
日照雨の語尾を真似ながら、水仙は頷く。
「えっと、旦那さまに言うよう言われとったんどすけど」
そう前置きして、日照雨は深々と頭を下げる。
「昨日は助けてもろてありがとうございました」
「水仙は……お日様に言われてしただけだから」
傘に落ちてくる雨が、くぐもった音を立てている。
日照雨は頭を上げる。
水仙の紅色の瞳を見つめて、ぎゅっと傘を握る手に力を込めた。
大きく息を吸って、しかし小声で尋ねる。
「水仙さまは、うちと同じで旦那さまのお嫁さんなんどすよな?」
「うん……同じだね」
「えっと、いつ頃からなんどすか?」
「おぼえてない」
「せ、せどすか」
姉嫁たちと出会ったならば、自分の知らない彼の話を聞きたい。
しかし、ぽつりぽつりと言葉を発する水仙に対してでは、口達者な月華と同じようにはいかないようだった。
必死に会話の糸口を探る日照雨は、ふと当たり前のような疑問を抱いた。
「水仙さまは、なして傘を差されんのどすか? 雨に打たれっぱなしやったら、風邪引くて旦那さまに言われました」
「ん……とね」
雨という単語に、水仙は嬉しそうな表情を浮かべる。
「水仙のこと……お日様からどれくらい聞いてるの?」
「えと、旦那さまの五番目のお嫁さんで、雨女いう妖怪ってことくらいどす」
「うん……水仙は雨女なの」
「本棚にあった辞書には、雨女は遊びに行った先が雨になりやすい女の人て書かれとりました」
「それは……人間の雨女のことだよ」
「妖怪の雨女は違うんどすか?」
カクッ、と頷く。
「雨女はね……雨を降らせるの」
違いが分からず、日照雨は首を傾げた。
どう説明したものか、と水仙も首を傾げる。
「水仙がいるとこの天気はね……ずっと雨になるの」
「あっ、それが雨女の妖力言うことどすか?」
「うん」
言いたいことが伝わったのが嬉しいのか、水仙は微笑んだ。日照雨も会話が成立したのが嬉しくてはにかんだ。
「それでね……雨女のご飯は……雨なの」
「雨女が存在を維持するために糧としとるものが、雨いうことどすか?」
「水仙は難しい言葉苦手だよ」
眉を寄せて、不満そうにそう言った。それに対して、日照雨は胸を張って答える。
「うちもようわかっとりまへん」
「そうなんだ」
「ふいんきはわかるんどすけど」
「そっか」
話が途切れてしまった。沈黙の代わりに、雨音が二人の間に下りる。
一つ一つの雨粒が、それぞれ異なった音色を奏でていて、まるで音楽の中にいるような気分にさせてくれる。
晴れている時とは違う、雨の日独特の高揚感。
「日照雨は……雨……好き?」
話題を振られ、日照雨はびくっと肩を強張らせる。質問の言葉を一つ一つ吟味して、口を開く。
「うちは、雨、好きどす」
その言葉を聞いて、水仙は目を細める。口元が綺麗な弧を描いた。
「水仙もね……雨好きなの」
彼女が両手を広げると、雨の音色が変わる。一つ一つの音が大きく強くなって、その代わりに数が減る。太鼓を叩くような低音がリズムを刻む。
「日照雨も……名前に雨が入ってるから……好き」
「うちも、うちの名前大好きどす」
「そっか」
水仙が両の掌を合わせると、雨の音が小さく小さくなった。霧雨が、視界を覆う。
「水仙さまは色んな雨が降らせるんどすな」
「雨女だから」
水仙はそう言ったが、雨女は雨を降らせることこそできても、その雨量をコントロールするのは容易ではない。
妖怪が妖怪であるための力、すなわち妖力ではなく、それは妖術に分類される力の使い方であった。
「水仙は……水仙が見上げた空の範囲にある雨雲なら……操れるの」
「天気を操っとるわけではないんどすか」
「うん」
「うちの名前の雨は降らせられるどすか?」
上目遣いで、水仙を見つめる。
水仙は唇を尖らせて、小さく首を横に振った。
「日照雨は……雲がないから」
「確かに、そうどすな」
雨粒が地上へ届く前に雨雲が消えてしまっただとか。風に煽られた雨粒が遠くから飛来しただとか。
日照雨が降る時、見上げる空に雨雲はない。
「せやったら、水仙さまはお日さまを見たことないんどすか?」
もう一度、水仙は首を振る。
「あるよ」
日照雨から視線を逸らし、荒れる水面を見つめる。
「水仙のお日様が……水仙にお日様を……見せてくれたの」
「旦那さまが、どすか?」
水仙は日照雨に視線を戻し、頷く。
「どす」
雨は、有史以前から空を覆った雲より降り続けている。
生命が生きる上で水の存在は大きい。人間も同様で、雨は人間が生きる上で必要不可欠なものであった。
ただ、雨というものは人間が自らの力でどうこうできるようなものではない。
川の氾濫や大洪水など、雨が人間社会を脅かすことも少なくはなかった。
現代でこそ、ダムの建設によって受動的に雨の脅威を軽減させてはいるものの、それでも、豪雨のもたらす被害は大きい。
水仙と名乗る雨女は、特定の伝説から生まれた妖怪ではない。
雨への信仰と感謝。雨への恐怖心と怒り。日本全土の人間が、それぞれ雨に対して抱く想いが集まって、彼女を生み出した。
生まれ出でた彼女は、当てもなく、ただそこに在るだけの妖怪として、雨を降らせ、日本を歩き巡っていた。
それは日本のどこだったか。彼女は、虚ろな瞳で池を覗き込んでいた。
「まるで、水仙のようじゃな」
彼女に声をかけたのは、とある九尾の妖怪狐だった。
しかし、その言葉は彼女に届かない。彼女はずっと、同じ言葉を吐き出していた。
「お日様が見たい……お日様が見たい……お日様が見たい……」
長雨で氾濫した川に呑まれ命尽きた人間の、今わの際に抱いた感情に当てられでもしたのだろうか。
それとも、雨の下に在る彼女の心の叫びなのだろうか。
妖怪狐は愉快そうに笑った。
「そうまで見たいのじゃったら、わしが見せてやろうか」
やっと、彼女は妖怪狐の存在に気がついた。
雨足が収まる様子はなかった。しかし、空の雲が割れ、太陽の光が零れ落ちる。一筋の帯となって、彼女に降り注いだ。
雲が、晴れた。
青々とした空が高く、太陽は燦々と輝いていた。
雨は、降り続けていた。
「うぁ……」
彼女は目を細めて、空を仰いだ。初めて浴びる日光を、体一杯に受け止めていた。
「どうじゃ、日の光は良いものじゃろ」
妖怪狐の言葉に、彼女は幸せそうに頷いた。
「でも……まぶしい」
日照雨と水仙は、公園内の吹きさらしのあばら屋へと移動していた。
雨合羽を着たまま木製のベンチに座る日照雨の隣には、ハンドバッグと雨傘が置かれている。
水仙の話が終わると、日照雨は感嘆するように息を吐いた。
「雲を退けたんどすか」
「うん」
「旦那さまはやっぱりすごいどすな」
「そうだね……」
日照雨と会話する水仙は、あばら屋の外で雨を浴び続けていた。
雨に濡れない場所よりも、濡れる場所の方が落ち着くらしい。
「うちにもできんやろか」
「妖術……使えるの?」
「あ、はい。少しどすけど」
「だったら……がんばれば……できるかな」
「そのがんばりかたがわからんのどすよな。せやけど、うちも水仙さまにお日さま見せてあげたいどす」
「じゃあ……今度見せてね」
日照雨は元気良く頷く。
「はい、水仙さま」
「妖術は……お日様に教わったの?」
「旦那さまやのうて、月華さまに教わりました」
「月華……」
水仙が眉をひそめる。
「月華は……会う度怒るから……苦手」
「そうなんどすか? 優しい方やと思いますけど」
「んとね……そんな格好をして……あの方に色目を使っているんじゃ……ありませんの……って言われるの」
彼女の着ているワンピースは、本来ゆったりとしたデザインであった。しかし、雨に濡れて肌に張り付いているために、女性らしい体の線が露わになってしまっている。
それに加えて服の下が透けて見えてしまっているため、色目を使っていると思われても仕方がないのかもしれない。
「色目……どすか?」
日照雨は首を傾げる。
水仙も、首を傾げる。
「色目ってなんやろか」
「水仙も……わかんない」
二人は目を合わせる。
「水仙も日照雨も……目は……紅色」
「そうどすよな」
カクン、と二人同時に首を反対側へ傾げた。
風が吹く。
雨の匂いが、変わった。
水仙は鼻をピクピクと動かしてから、空を見上げた。
「ん……」
両腕を上げる。目を閉じると、その体が青白い光を帯びた。
「どうかされたんどすか?」
数度瞬きをして、水仙を見つめる。
「この街には……水仙とお日様も含めて……二十八匹の妖怪がいるの」
「そう、なんどすか?」
「その内……水仙の雨粒から逃れてるのは……お日様ともう一匹だけ」
「あまつぶ?」
「だから……三匹の妖怪は……危険じゃないと思う」
水仙は腕を下ろすと、日照雨に微笑みかけた。
きょとんとした表情で、日照雨はじっと水仙を見つめる。
「うちには話がようわからんのどすけど」
「えっとね……妖怪が……襲ってくるよ?」
日照雨は目を見開き、慌てて立ち上がる。
とてて、と水仙の隣まで寄り、辺りを見渡した。
「見えへんけど」
「まだ……遠いから……」
「そうなんどすか。うー、旦那さまがおらへんのに襲ってこられても、困るんやけどな」
「どうして?」
「旦那さまのご飯になりまへんし」
「それは……困るね」
遠く、三つの陰が小さく見えてきた。
雨の中、本能に突き動かされるように、空を飛び、地を走り、それぞれがバラバラに向かってくる。
一つは、壊れた文房具が幾つも積み重なって作られた人型の化物。
一つは、セーラー服から蜘蛛の脚が生えた化物。
一つは、学ランを着た小鬼。
高等学校が二校近くにあるためか、襲ってきた妖怪もそれぞれ学生に纏わる妖怪のようであった。
学校独特の人間関係の歪みか、それとも学業を阻害する悪戯小僧か。
「昨日の今日だけど……大丈夫?」
「水仙さまが言うとおり、あんまり怖い気がせえへん妖怪みたいどすし」
ぐっ、と胸の前で気合いを入れるようにガッツポーズをする。
「大丈夫どす」
「そっか」
水仙は空を見上げる。雨足が、強くなった。
物で溢れ返った部屋。
それは本であったり、新聞であったり、広告、ポスター、ポップ。何らかの情報が記された物たちが、積み重なり、押し詰められ、部屋の中を満たしている。
開けられたままの扉から、彼は姿を現した。
「九尾の、久しいね」
部屋のどこかから、男性とも女性ともとれる声が、彼を迎えた。
「そうかい? これでも綺麗にしたつもりなんだけどな。いや、それはわかっているよ君は姑さんかい?」
彼は一言も言葉を発していないと言うのに、その声は独り、彼と会話をする。
「いやー、それにしても今日は雨だ。奇妙な雨だ。これは君の奥さんの誰かかな? なるほど雨女か、水仙と言うんだね。なるほど、なるほど」
彼は部屋の中を見回す。積み重なった本の隙間から、こちらを見つめてくる藍色の瞳に気がついた。
「おや見つかってしまったか。悪趣味とはひどいな、ああうん用事があるんだよね。九尾のが何もなく来るわけがないもんね」
彼は比較的物が少ない場所を見つけると、そこに座る。顔は藍色の瞳の方へと向けるが、何も喋らない。
「うん、用事は二つね。いいよ九尾の記憶なら大歓迎だ。全部見せてくれればおまけを付けるんだけどね。はいわかってる、そう機嫌を損ねないで」
彼は欠伸を噛み締める。ただただ、楽しそうな声だけが響いていた。
「九尾のは記憶の隠匿が実に上手い。対価の主導権を奪うのは九尾のだけだよ。はいはい能書きは煩いかい? じゃあ本題に入ろうか。ふむ、なるほどね。その程度なら朝飯前だよ」
本の壁の向こう側で、藍色の光が輝く。その光はうねる様にして、壁や本や新聞を伝い、彼へと擦り寄る。
彼は抵抗しない。光は、彼の黄金色の毛並みを夜半の色へと染め上げる。
「そうそう、最近の客はさ、紙に纏めてくれっていうのが多いんだ。妖怪社会も組織化が進んでいるみたいだね。スカウトの話も沢山あってさ、迷惑なことだよ。皆々人間の真似事が楽しいらしい。ははは、別に九尾の悪口じゃあないさ、お嫁さんが六人もいて羨ましいけどね」
光は彼の体へ溶けるようにして、消えた。
「はい毎度あり。ほうほう、今回の記憶は室町時代のものかな? 少し量が多いようだけど、二つ目の用事の代価も兼ねてるわけかな。うん、それで構わないよ。えっとなになに、妖術の指南書が欲しいのかい? ふーむ、どう言った心境の変化かな。九尾のにそんなものは必要ないだろうに」
彼が鼻を鳴らすと、声の主は愉快そうに笑った。
「なるほどなるほど、隠匿されてる記憶の中に答えがあるんだね。推測はできても、全容はわからないな。ん、わかってるわかってる。中々厳しい条件だけど、部屋の中にあったはずだ」
コトン、と彼の目の前に一冊の本が現れる。纏っていた藍色の光が、空気に溶けて消えた。
「ほらあった。それなら所望する内容に合っているんじゃないかな。もちろん、人間が著したものではないよ。はい毎度、また来てね」
彼はのっそりと立ち上がる。渡された本は、彼が見つめると同時に光となって消え去った。
九本の尻尾を揺らしながら、彼は部屋を後にする。その姿が、闇に溶けて消えた。
静かな雨が、延々と降っている。
日照雨はフードを脱ぎ、長い髪は雨合羽から出していた。
あばら屋のベンチに座り、ハンドバッグの中から水筒と弁当箱を取り出す。
「水仙さまも食べられますか?」
雨の中、ただ茫然と立っている水仙は、カクン、と首を傾げた。
「ん……水仙は人間のご飯食べたことないから」
「せやったら食べられますか? 妖怪退治で疲れたやろし」
「退治したの……日照雨だよ?」
「水仙さまが何か術を使われとったの、うち知っとります」
「お日様に……頼まれてただけだから」
「そう、どすか」
日照雨は諦めたのか、膝の上に弁当箱を広げると、一人合掌をした。
卵焼きを箸で掴んで、小さな口へと運ぶ。
「それにしても、旦那さま遅いどすな」
「ご用があるんだって」
もぐもぐと咀嚼して、飲み込む。
「どないな用事か、水仙さま知っとられます?」
「なんとなく……わかる」
「ほへぇ」
「でも……わかんない」
「んい?」
ご飯を一口食べる。
「お日様がいる場所はわかるけど……何してるかはわかんない」
「今はどこにおられるんどすか?」
「んとね……水仙の雨粒が当たってない場所だから……帰ってきてるみたい」
「ふぉんふぁほふはっ」
「……お行儀悪いよ?」
日照雨は顔を真っ赤にして、一生懸命に咀嚼する。口の中の物を全て飲み込んで、改めて発言する。
「ほんまどすか?」
「うん……わかりにくいけど……近づいてきてる」
「やったぁ」
あからさまに嬉しそうな表情を浮かべる日照雨を見て、水仙は口元を綻ばせた。
「水仙は……お日様が帰ってきたら出発するね」
笑顔のまま、顔だけ水仙に向ける。
「もう、行かれるんどすか?」
「あんまり同じところに長くいたら……迷惑かけちゃうから」
体も水仙の方へ向け、泣きそうな表情で水仙を見つめる。
「歩いて行かれるんやったら、一緒に行きまへんか?」
「水仙は……雨雲から雨雲まで移動できるんだよ」
「ほへ」
「箸止まってる」
「あっ」
昨晩の夕飯の残りであるししゃもを、頭から食らう。もぎゅもぎゅと噛みながら、口の中へと押し込む。
「また……お話しようね」
「はい、うちも水仙さまともっとお話したいどすし」
「そっか」
へにょり、水仙は笑う。釣られて、日照雨も無邪気な笑顔を浮かべた。
「二人とも楽しそうじゃの」
最初からそこにいたかのように、九尾の妖怪狐は日照雨の足元に伏せていた。
黄金色の毛並みは全く濡れておらず、毛先は綺麗に揃っている。
「旦那さま、お帰りなさいませ」
「うむ。変わりなかったか?」
「水仙さまとずっとお話しとりました」
「そりゃ良かったの。水仙も助かった」
「うん……言われた通りにしたよ」
「そうじゃ、礼に太陽でも見せてやろうか?」
水仙は、首を横に振る。
「今度……日照雨に見せて貰うからいらない」
彼は目を見開き、意地の悪そうな笑顔を浮かべて日照雨を見た。
「旦那さまのお話を水仙さまから聞いて、うちにもできへんかなって」
「腕を磨けばできんこともないじゃろな」
「ほんまに?」
「うむ。妖怪が著した妖術の本も仕入れてきた。時間がある時にでも読んでみい」
「はい、旦那さま」
にへらぁ、と笑う。
「箸が止まっておるぞ」
「あっ」
今度は煮豆を一粒器用に掴んで、ぱくっ、と口の中に放り込んだ。
「それじゃ……水仙はばいばいするね」
「そうか。風邪を引かぬようにな」
「水仙さま、さようなら」
トンッ、と軽く水仙は後ろへと跳んだ。雨の音が、急激に小さくなる。
水仙の姿が、落ちてくる雨にかき消されるように欠けていく。モザイクがかかったような姿になり、靄のかかった姿になり、空気に混じって、消えた。
雨が、止む。
鼠色の雲は穏やかに流れ、空に青い亀裂が入った。
「水仙さまが行かれた途端に止むんどすな」
日照雨は箸を口元に当てたまま、寂しそうにそう呟いた。
「雨子や」
彼に名前を呼ばれ、日照雨は視線を彼へと移す。
「わしにも何かくれんか」
「はい、旦那さま」
ししゃもを一匹箸で掴むと、彼の口元へと運ぶ。彼は大きな口を開いて、ししゃもの横っ腹に噛みついた。
「あ、ししゃもは昨日のおゆはんと同じどしたな」
「構わんよ。美味い物は何度食っても美味い」
「えへへ」
ぽりぽりと恥ずかしそうに頬を掻く。
日の光が、街を柔らかく包み込む。湿気を帯びた空気が、風に流されていく。
あばら屋の屋根を伝って、水滴が、ぽちゃんっと落ちた。