第六話 商店街での買い物
日照雨は歩いていた。
肩を出したカットソーに短い丈のプリーツスカートを着て、細い脚は真っ黒なタイツで覆っている。
腰まである長い髪をひょこひょこと揺らしながら、商店街の中を行く。
雨避け用の半透明の天井は汚れていて、踏みしめるタイルは至る所が禿げてしまっている。軒を並べる店舗も、シャッターが下りたままになっているところも少なくない。
とは言え、利用客が皆無というわけではなく、ちらほらと近所の住人たちが買い物をしている姿が見て取れる。
「あの、旦那さま」
日照雨の幼い声が、前を歩く彼を呼ぶ。
ゆっくりと揺れていた九本の尻尾が止まる。スッとした長い鼻に三角形の耳。紅色をした細い狐の瞳が、日照雨を見つめた。
「どうかしたか」
低く落ち着いた声。
「え、えと……どすな?」
胸の前に手を抱いて、窺うように彼を紅い瞳で見つめた。時折、ちらちらと視線をどこかへと投げているのが瞳の動きから分かる。
彼はその視線の先を見やり、口元をニヤリと歪めた。
「食べたいのか」
まだ何も言っていないのに、と心中を見透かされた気がして日照雨の肩がびくっと強張る。そして、控えめに頷いた。
「構わんよ。金をやるから、自分で買うてみい」
「ほんまどすかっ」
きらきらと目を輝かせる彼女の掌の中に、どこともなく百円硬貨と五円硬貨が握られる。
日照雨は彼に頭を下げると、とてて、と走り出した。
その先にあるのはこじんまりとした精肉店。ピンク色をした食用の肉が陳列されていて、主婦と思しき女性がグラム単位で鶏肉を買っていた。
恰幅の良い女性の店員が礼を言う。主婦は笑顔で頭を下げて、店を立ち去った。
続けてやって来た小さなお客さんの姿に、店員は見る人を和ませる笑顔を浮かべる。
「あら可愛らしいお嬢さんだね。いらっしゃい、何にするかい?」
「あ、はい。えと、ころっけ……」
明るい色合いで「牛肉コロッケ105円」と書かれたのぼり旗を指さして告げる。
「あいコロッケね。何個にする?」
「ひとつ、で」
「あい一つね。ちょっと待ってくれるかい?」
「はい」
こくり、と頷く。
緊張し切った表情の日照雨に対して、店員はどこまでも快活に話しかけてくる。
「お嬢ちゃんは一人で来たのかい?」
ふるふる、と首を横に振る。
「それじゃあお友達と?」
もう一度、首を横に振る。
「んー。じゃあお父さんだ」
少し悩んで、日照雨はこくりと頷いた。
「それじゃ、お父さんの分もおまけしてあげようかね」
「ええんどすか?」
「かまやしないよ。その代わり、味わって食べておくれな?」
「はい。ありがとうございます」
「いい返事だ。ほい、牛肉コロッケ二個。百五円だよ」
日照雨は、握りしめていたお金を女性に差し出す。そして、紙に包まれた熱々のコロッケの入った紙袋を受け取った。
深く頭を下げてから、振り返って走り出す。
彼は先程と同じ場所で、ずっと待っていたようだ。日照雨は、紙袋を彼に見せびらかすようにして、満足げに笑った。
「買うて来ました」
「よう出来たの。じゃが、一つ多いように見えるが」
「お父さんと一緒に来た言うたら、おまけしてもらえました」
ほう、と彼は笑う。
「わしはお主の父親だったか。夫だと思うておったんじゃがな」
「旦那さまはうちの旦那さまどす。けど、うちにとってはお父さんでもあるんどす」
「ならば今度から父と呼んでみるか?」
「お父……さま?」
じっ、と無垢な瞳で見つめられ、気まずくなったのか、彼は咳払いをして歩き出した。
「その呼び方は無しじゃ」
「あ、はい旦那さま」
日照雨も慌ててその後ろをついていく。紙袋からコロッケを一つ取り出して、噛みついてみた。
さくさくとした衣に、肉汁がたっぷりの中身。一噛みする度に、口の中が旨みで満たされて幸せに気分になる。
「美味いか」
「はひぃ。旦那さまもお一つどうぞ」
「わしにと貰って来たんじゃったな」
「はい」
フッ、と紙袋が軽くなる。彼が感嘆の声を上げた。
「ええ買い物しましたな」
「そうじゃな」
日照雨はもう一口頬張る。そして、とろけるような笑顔を浮かべた。
コロッケを食べ終えると、ハンカチで手を拭ってから他の店も巡ってみた。八百屋、果物屋を覗いてみたり、ドラッグストアを見学してみたり。
文房具店から出てきた彼女は、ふと行き交う人々の数が増えてきているのに気がつく。
カッターシャツにミニスカート姿の女子高生の集団。小突き合いながら歩いている二人組の男子学生。手を絡ませて歩く男女の学生や、ヘッドフォンをして歩く学生など。
商店街はいつの間にか、制服姿の学生で賑わっていた。
日照雨は目を丸くして、傍らの彼へ話しかける。
「学生さんが多いどすな」
「近くに公立と私立の高等学校が一校ずつあるらしくての、この商店街の利用客の大半を占めておるようじゃ」
「そう、なんどすか」
突然びくっと日照雨は肩を震わせた。助けを求めるように彼に歩み寄り、その背中に右手で触れる。
行き交う学生たちにとって、可憐で幼い女の子は話のネタになるのだろう。艶やかな黒髪への羨望の眼差しや、好意的な印象を抱かれているらしき会話も聞こえてくる。
ただ、話題にされている当人はそう言った視線に慣れていないようで、不安げな表情を浮かべていた。
「雨子や、何か本を買うてやろうか?」
そんな幼い妻の感情を知ってか知らずでか、彼はおもむろにそう提案した。
「本……」
「部屋の本はほとんど読んでしもうたんじゃろ」
「せやけど、いつもは旦那さまが新しい本用意してくださるのに」
「勿論、新たに本は用意するぞ? じゃが、お主が自分で選んでみるのも良い趣向とは思わんか」
「んー」
彼に連れられて、個人営業の小さな本屋へと入っていく。
足を踏み入れた瞬間に、日照雨は目を見開き、小走りに本棚へと向かった。
「ほ、本てこんなにあるんどすか」
「そりゃ本屋じゃからの」
口元をだらしなく開けて、意気揚々と本を物色する。
「旦那さま、これは何の本どすか?」
「大学受験用の参考書じゃな。まあ、雨子にはまだ理解できん内容だろうて」
「ふぅん」
分厚い参考書を一冊手に取って、ぱらぱらと捲ってみる。眉をひそめて唸った。
「ようわかりまへん」
「今やっとる中等教育を修めたら、理解できるようになるかもしれんな」
「せどすか」
本を元あったところへ丁寧に戻して、別の本棚へと移る。
漫画、絵本、伝記、雑学、哲学、小説、雑誌。
そう広くない店内をぐるぐると回って、日照雨は感嘆の息を吐いた。
「本屋さんてええところどすな」
「それはよかった」
「本が仰山あってわくわくします」
「ふむ。近い内に図書館へ連れて行ってやろうか」
「としょ、かん?」
「ここよりも多く蔵書が収めてあって、しかも自由に読める場所じゃよ」
目を見開く。
「ここよりも、どすか?」
「そもそもここは、書店として見ても小さな部類の店舗じゃしな」
「そ、そなんどすか」
はぁーっ、と驚嘆の息を吐く。
「あっ、妖術の本はないんやろか」
「人間が記した物は、実用性に欠けるから買ってはやらんぞ」
「せどすか」
「それで、買いたい本は何か見つかったか?」
「料理の本がええかな思うたんどすけど……」
言いながら、料理本の並べられた区画へと向かう。
「どれがええんか分からへんのどす。やっぱり、子ども向けて書かれとるの方がええんやろか」
「漢字が少なく読みやすいかもしれんが、内容的には物足りんと思うぞ」
「せやったら、今日の献立、みたいな奴はどうやろ」
「役には立つかもしれんな」
「うーん」
鮮やかな色彩で描かれた表紙を眺め、手に取り、中を読む。
図解で解りやすく手順が示されていて、食事を作る参考にはなるかもしれない。
しかし、何かが違う。
「雨子は何か作りたい料理はあるのか?」
「はんばーぐ」
「ふむ」
彼は本棚を見上げる。ザッと眺めて、一冊の本に目星を付けた。
「その本はどうじゃ」
カタンと揺れて、一冊、背表紙が棚からはみ出る。日照雨は背伸びをして、抜き取った。
「こどももよろこぶ、にくりょうりぜんしゅう。はんばーぐへん」
タイトルを音読して、適当にページを開いてみる。
全三十ページ程度の薄い本だったが、全ページカラー印刷で、様々な味付け、調理法のハンバーグが載っていた。
ハンバーグに合うソース特集、と言うようなものもあり、とことんハンバーグに特化した内容になっているようだ。
思わず口の中が唾液で満たされてしまい、じゅるり、と唾を飲み込む。
「これええどすな」
「ならばそれにするか?」
「せやけど、これ買うてしもうたら毎日ハンバーグになってしまうかもしれまへん」
日照雨の真剣な表情を見て、彼はカカッと愉快そうに笑う。
「三日に一度程度ならば、別段構わんよ」
「ほんまどすか? せやったらこれにします」
「金は渡すから、自分で買うてくるんじゃよ」
「はい、旦那さま」
日照雨は元気良く頷いて、とてて、とレジへと向かった。
その後ろ姿を見送って、彼は店の出入り口の方へと歩き出す。
彼の大きな体躯は狭い店内の通路を埋めてしまう。しかし、客の誰ともぶつかることはなかった。彼の姿を視認出来るはずはないのに、誰もが彼のいつ通路を通ろうとしない。
彼は自動ドアの前に立つ。物を感知するセンサーは、ピクリとも反応しない。
会計を済ませた日照雨が、小走りに駆け寄ってくる。自動ドアは、気の抜ける音を出しながら開いた。
彼はゆったりと店を出る。
「せっかく買った本を落としてはいけんから、わしが預かっておこう」
日照雨は素直に頷いて、紙袋に包まれた本を彼に差し出す。瞬きをする間に、紙袋が消え失せた。
商店街を、静かに風が走り抜けた。
彼の黄金色の毛が、微かに波立つ。
「さて、次はどこに行くとするかの」
呟いた。
「日照雨。お主が興味のある店はあるか?」
尋ねた。
日照雨からの返事はない。
「雨子?」
振り返る。
そこには、誰もいなかった。彼は、紅い瞳を細める。
「ふむ」
ため息をついた。
「面倒なことになってしもうたな」
ここはどこだろうか。
青い空、白い壁、黒い地面。
人の気配はなく、音も、吹き抜ける風が鳴いているだけ。
日照雨はぽつんと立っていた。
胸の前で腕を抱き、不安げに瞳を翳らせる。
「おーう、見事に釣れましたよやったね」
陽気な声。日照雨は驚いて振り返った。
「妖力持ちの人間たぁ、極上じゃないっすか」
全身真っ白な、マネキンのようなシルエット。マジックで乱暴に書かれたような顔に表情はなく、喋っていても、口は動いていない。
「あなたは、どなたどすか」
掌にぎゅっと力を込めて、気丈に尋ねる。
「んー? それ聞いちゃう系? それ聞いちゃう系? えっとねー、実は妖怪なんだってわーおおっどろきー」
何が面白いのか、ケタケタと笑っている。
「なんでうちはここにおるんどすか」
「それはねそれはねー、君を食べちゃうためさーひゃっはー」
「せどすか」
じりじりと距離を取りながら、周囲を見回して状況を確認する。
愛しの彼の姿は見えない。眼前の妖怪が、自分だけを別の場所へと移動させたのだろうか。
その理由は何? 自分を食べるためだと語られた。
つまり、眼前の妖怪は、自身に害を成す敵ということなのだろうか。
「あなたは、うちの敵なんどすか?」
違うと言われたらどうするつもりなのか。
日照雨が素直に尋ねると、マネキンは腕をあらぬ方向へと曲げながら答えてくれた。
「そうさー、ボクチンは君の敵なのだーわーこっわぁーい」
「わかりました」
日照雨は術式を構築する。妖力を込めて、起動した。
空中に、巨大な楔が現れる。ズドンッ、と鈍い音がして、楔が妖怪の胸を穿った。
「え……」
日照雨を妖力を持っただけの非力な人間だと思っていたのだろうか。
マネキンは表情の分からない顔で日照雨を見つめて、そのまま動かなくなった。
「ん、と。問答無用で攻撃して良かったんやろか」
後から旦那さまに聞いてみようと暢気に考えながら、妖怪を見つめる。
白い体が急速に黒く染まる。吹き抜けた風に煽られて、その場に崩れ落ちた。
「これからどないしよ……っうぁっ」
体の横から力任せに殴られ、彼女の華奢な体が宙を舞った。
パニックに陥りながらも、防衛本能が働いてか、地面に叩きつけられる寸前に風を操り衝撃を抑える。
それでも痛みは体を走り抜け、地面に擦れて服は破れ、肌に血が滲んだ。
「ざーんねんでっしたぁー。そっちは実はデコイだったんだよねわおボクチンかっしこーい」
腕の関節をクルクルと回しながら、白色のマネキンが楽しそうに笑っている。
大股で、体を大きく揺らしながら日照雨に歩み寄り、無骨な腕で彼女の柔らかな頬を突く。
日照雨は、あからさまに嫌そうな表情を浮かべた。
「あっ、その顔もしかして悔しいってこと? 悔しいってこと? ふっふーん」
空が曇る。
「やっぱり人間の体って弱いなー。その程度の衝撃で動けなくなっちゃうんだもんね。痛い? ねえ痛い?」
ポツリ、雨粒が落ちてくる。
「へっへへへ。さってさって、おいしくいただいちゃおっかなー。これでボクチンも最強の妖怪の仲間入りってねやったーうっれしーい」
――。
時間が止まったかのような錯覚を受けた。
風の流れが、音が、世界が、全てが静まり返った。
その直後、鼠色の空から大量の雨粒が爆撃のように降り注いでくる。
豪雨。暴雨。
耳を塞いでも聞こえてくる雨音。目を開けるのも困難で、冷たいではなく痛いと感じる雨粒。
服が体に張り付いてどっしりと重くなる。傷口に雨が当たってしみる。
「あれ、あっれれーおかしいなー。体がおっもーいなにこれー」
日照雨は目を細めて、マネキンを見る。
陽気だったその妖怪は、雨に打たれた直後から、何か動きがおかしい。
もしかして、雨が苦手な妖怪……とか?
その時、ポチャン、ポチャン、と湿った足音が、煩く叫ぶ雨音の中、鮮明に聞こえた。
雨のカーテンの向こう側から、小柄な女性が現れた。
全身びしょ濡れで、薄い水色の白髪は肌に張り付いている。白いワンピースも、豊満な体つきの肌が透けて見えてしまう程に濡れていた。
裸足で、ゆらりふらりと歩いてくる。
「間に合った……かな」
ゾッとするほど冷たい、静かな声。
女性は日照雨の紅い瞳を見て、微笑んだ。日照雨もまた、彼女の顔を見て嬉しそうに笑った。
その女性も、日照雨と同じ、彼と同じ紅色の瞳をしていた。
「ん……と……」
女性は、動かないマネキンへと向き直る。
両手を天に伸ばすと、彼女の体が青白く輝いた。その光は掌に集まると、天を目がけて放出された。
直後、雨の質が変わった。
「ふおおっぅう、なんだこれなんだこれー体が溶けちゃうこわーい」
プラスチックを炙ったかのように、マネキンの体が溶けて縮んでいく。
陽気な叫び声が、段々と力なく、小さく、悲痛なものへと変わる。
「これで……いいのかな」
ぽつり女性が呟くと、雨足が穏やかなものへと変わった。
しとしとと、静かに雨は降りしきる。
そこにはすでにマネキンの姿をした妖怪はおらず、彼女と日照雨しかいなかった。
「あ」
女性の口から、嬉しそうな声かこぼれ落ちる。
無邪気に手を伸ばし、へにょりと笑う。
「水仙のお日様だ……」
手を伸ばした先、雨の降る中、毛一本すら濡らさずに歩いてくる九尾の妖怪狐の姿があった。
「見つけてくれたか、水仙」
名前を呼ばれて、女性は嬉しそうに頷いた。
「うん……お日様に言われたとおりにしたよ」
「そうか、助かった」
「えへへ」
成人女性の体つきをしてはいたが、水仙はまるで子どものように無邪気な笑顔を浮かべた。
彼は日照雨の傍まで歩み寄ると、その顔に鼻先を寄せる。
「あ、旦那さま」
「まさか人混みの中で手を出されるとは思うておらんかった。すまんことをしたな、日照雨」
「うちも、餌として役に立たへんで申しわけありまへんどした」
彼は神妙な表情を浮かべて、息を吐く。それから、ペロリ、彼女の頬を舐めた。
日照雨はくすぐったそうに笑う。
雨は、降り続けていた。