第五話 静かな夜
青年は山を越えた先の村に用事があり、冬の山を登っていました。
澄んだ空気が心地よく、軽々とした足取りで山道を進みます。
その山の頂は、万年雪が積もっていることで有名でした。踏みしめる地面が白く染まり出した頃、突然、厚い雲が空を覆ってしまいます。
白くて大きな雪の粒が、ふわりふわりと舞い降りてきました。これはいかん。青年は足を速めます。
しかし、降りしきる雪は激しくなってきて、風も吹いてきました。瞬く間に視界は奪われ、青年は吹雪の中に投げ出されてしまったのです。
どちらが山頂でどちらが麓なのか、右も左もわからない中、青年は必死に前へ前へと進みます。
段々と、意識が朦朧としてきました。
足元もおぼつきません。
雪の上に何度も転げて、何度も起き上がって、それでも歩みは止めませんでした。
ふと、青年は小さな明かりを見つけました。人がいるのか。青年はその明かりの元へと向かいます。明かりは、小さな山小屋から漏れているようでした。
ドンドンドン、青年は戸を叩きます。誰かいませんか、しばらく休ませていただきたいのです。青年は叫びました。
戸が、スッと静かに開きます。中から顔を覗かせたのは、それはそれは綺麗な女性でした。
髪も肌も身に付けた服も、何もかもが真っ白な女性。ただ一つ、瞳だけは綺麗な黒色をしていて、心配そうな視線で青年を見つめました。
彼女は青年に労りの言葉をかけると、山小屋の中へと誘います。
青年は囲炉裏で暖を取り、女性の用意した食事に箸を付けました。
ありがとう、助かりました。青年は、何度も何度も感謝の言葉を伝えました。
いいえ、感謝をするのはわたくしの方です。女性は小さく首を横に振りました。
青年は、その言葉の意味を尋ねます。
食べるものがなく、ひもじい思いをしていたところでした。だから、ありがとうございます。
青年は首を傾げます。食べ物を恵んでくれた人物がひもじいとは、一体どう言うことだろうか。
女性は、穏やかに笑いました。そして、青年に尋ねます。貴方は今、どこにおられますか?
青年は周囲を見回し、答えます。ここは山小屋だろう?
女性は小さく首を振りました。いいえ、ここは雪の中ですよ。
青年はハッとなって、突然立ち上がりました。そこには囲炉裏も食事も何もなく、ただただ雪の吹き荒れる中でした。
青年は、声を荒げて尋ねます。お前は一体何者だ。
女性は何も言わず、青年に抱きつきました。その体はとても冷たく、青年は体が凍ってしまいそうだ、そう思いました。
真っ赤に染まった耳に、女性は唇を寄せました。最期に、微かな幸せを。
青年の頬に、唇が触れます。額に、触れます。唇に、触れました。
女性は、妖艶な笑顔で青年を見つめました。
青年はとてもとても幸せな気持ちになって、それからゆっくりと目を閉じました。
風呂椅子に腰かけた日照雨は、大きく息を吐いた。
健康的な白い肌は浴室の熱気に当てられてか、やや赤みを帯びてる。凹凸の少ない平坦な体の正面を壁に向けて、自身の背後にいる人物へと話しかける。
「その女の人言うのが、月華さまなんどすか?」
日照雨の長い黒髪を洗いながら、月華は曖昧に返事をする。
「この話は麓の村に昔から伝わっているもので、確かにわたくしが生まれる元となった話ではあるんですけれど。その女性がそのままわたくしではありませんわね」
長い白銀の髪に、女性らしい体つきの青白い肌。熱気の立ち込める浴室内であっても、その体は冷気を帯びている。
黒い髪の毛を白い泡で覆うのが面白いのか、わしゃわしゃと楽しそうに泡立てていた。
日照雨はされるがままに、大人しくしている。
「お話はお話で、創作言うことどすか?」
「そうなりますわね。ただ実際に、ここの山で遭難してそのまま凍死した、ということは昔からあったみたいですけれど。わたくしも立ち合ったことありますし」
「それは月華さまがお話みたく襲われた言うことどすか?」
「いえ違いますわ。ああでも、自我が目覚める以前がどうだったかは明言しかねますけれど。今のわたくしは、遭難した人間の最期を看取っているだけですから」
「むつかしいどすな」
「妖怪の在り方は、なかなか人間には理解しがたいかもしれませんわね。泡を流しますわよ、目をつむってくださいな」
ぎゅっ、と力強く目を瞑る。力んで肩まで縮こませたのを見て、月華は笑みをこぼしながらシャワーの蛇口を捻った。
「そもそも、この話は子どもたちが雪山へ行ってしまうことがないよう脅かす目的で語られていた面が強いようですし」
泡とお湯とがタイルの上に落とされ、音を立てながら排水溝へと吸い込まれていく。
「ですから、わたくしを創った人間の感情には母の愛情と言うのも含まれていますのね」
「それで、月華さまが子どもに弱いんどすか?」
「そうなりますわね。幾分か偏ってしまってはいますけれど」
泡を流し終えて、月華は満足そうに頷いた。
「あ、肌を露出した状態でわたくしの傍にいて、寒くはありません?」
「背中がちょびっとひんやりはしとりますな」
「んー、背中も流してあげようかと思いましたけれど、凍傷になってもいけませんし止めておきましょうか」
「えー」
「駄々をこねられても困りますわ。被害を受けるのは日照雨ですし」
「我慢できます」
「何と言うか、あの方に似て日照雨も頑固ですわよね」
「そう……どすか?」
「ええ。育ての親に性格が似るのは、人間らしい現象だとは思いますけれど」
言いながら、体を洗うためのタオルを石鹸で泡立て始める。
「月華さまは、旦那さまとどれくらい一緒におられるんどすか?」
「んー。わたくしは、具体的な年数を言うのはちょっと恥ずかしいのでぼかしますけれど、四百年近く生きていますのね」
「よんひゃく……」
「それで、あの方とは自我に目覚めた時からの付き合いですわ」
「ずっと一緒に?」
「付きっきりでお守していただいたのは、最初の百年くらいですわね。日本の至る所へ連れて行って貰いました」
「うちと同じどすな」
「そうですわね。個人的に心に残っているのは、長崎の出島で触れた異国の文化ですわね」
「でじま?」
「当時は外国との交易が制限されていまして、出島は……。理解できているかしら」
「あんまり」
「要するに、外国からやって来た船の停泊する港ですわ、みなと」
日照雨の小さな背中を洗い終える。
「前は自分で洗えますわよね?」
「大丈夫どす」
ひんやりとしたタオルを受け取って、彼女は腕をごしごしと擦り始めた。
「んー、浴槽に入るのも良さ気ですけれど、わたくしが入ると水風呂になってしまいますわよね」
「難儀な体質どすな」
「妖怪ですもの」
「旦那さまにも、そないな体質はあるんやろか」
「体質と言えるのかは、わたくしには窺い知ることはできないんですけれど。あの方の体は、わたしの氷の体さえも温めて下さいますわね」
「そうなんどすか?」
「ええ。わたくしは温もりと言うものを、あの方以外から感じられたことがありませんの」
しばし無言で、日照雨は体を洗う。それから、お湯で泡を流し落とした。
そして突然立ち上がると、くるりと振り返る。
「前は隠さないとはしたないですわよ」
月華の忠告にも耳を貸さず、日照雨はむぎゅっと月華に抱きついた。
「ぁわっ、何をしてますの? 凍傷になってしまいますわよ」
引き剥がそうとする月華に逆らって、日照雨は強く強く月華を抱きしめる。
「あったかく、ないどすか?」
震えた声。月華は力を抜き、日照雨の頭を優しく撫でた。
「温かくはありますわね。精神的に、ですけれど」
「えへへ」
「さ、離れて下さいませ。お風呂で体を冷やしては本末転倒ですわ」
彼女は素直にその言葉に従うと、寒そうに自身の肩を抱いた。
「ほら湯船に浸かって。百数えるまで出てはいけませんわよ」
日照雨はこくこくと頷いた。ちゃぽん、とお湯に体を沈める。気持ち良さそうに息を吐いて、体をんーっと伸ばした。
「ああそうそう、あの方の体質と言えば。これはわたくしだけの秘密だったのですけれど」
ちゃぷ、水面が揺れる。興味深そうに、日照雨は月華を見つめる。
「あの方は、耳の裏を撫でられると弱いんですの」
「よわい?」
「普段は凛々しいあの方が、こう、とてもくすぐったそうにするんですの。良かったら、一度試してごらんなさいな」
「ほへえ。それは面白そうやけど……。怒られてしまいそうどすな」
「ええ。やりすぎて、一週間程口を聞いていただけなくなってしまったことがありました」
「はわぁ」
「けれど、それだけの価値はあると断言できますわね」
グィッと形の良い胸を反るように張る。
それから二人は視線を合わせて、どちらからと言うことなく笑った。
風呂から上がり、台所。そこは、食欲をそそる甘美な匂いで満ちていた。
だぼっとしたTシャツ一枚を着た日照雨は、きゃぁ、と黄色い悲鳴を上げてエプロン姿の青年の傍まで駆け寄る。そのまま、ぼすっと抱きついた。
金髪の彼は、細長い瞳を更に細くして彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「さっぱりしたか?」
低く落ち着いた声で、そう尋ねる。
日照雨は顔を上げると、にへらぁと嬉しそうに笑った。
「お主も数百年振りの湯浴みはどうじゃった」
「冷水しか浴びていませんけれど、それでもまあ、中々に有意義だったやもしれませんわね」
フリルの沢山あしらわれたベビードールに身を包んだ月華は、体の前で腕を組んでそっけなく答えた。
「それよりも、貴方様? これは一体」
彼女の視線が注がれているのは、キッチンテーブルの上に並べられた料理である。
焦げ茶色をした小判型のひき肉を練って焼いた物、すなわちハンバーグと、付け合わせに生野菜のサラダ。
「んむ、今し方完成したところでな。日照雨や、運ぶのを手伝ってくれ」
「はい、旦那さま」
にっこりと笑うと、彼から離れる。愛用のお盆を手に取ると、その上に料理で彩られている皿を載せていく。
「せやけど、旦那さまの手料理なんて何年ぶりやろか」
「え、日照雨はその程度の驚きですの?」
月華の言葉に、日照雨は首を傾げる。
「だって、この方の手料理ですわよ?」
「月華さまは、旦那さまの手料理を食べたことないんどすか?」
「ある訳ないじゃありませんの。確かに、何でもご自分でこなす方だとは思っていましたけれど、まさか料理までとは」
「心外じゃの」
「ああいえそう言うつもりじゃ。けれど、なぜ急に?」
彼はエプロンを脱ぎながら、そっけなく言う。
「明日ここを発つ。記念に手料理でも振舞ってやろうかと思ってな」
ぴく、と日照雨の動きが止まった。恐る恐る、彼の顔を窺う。
月華は自身の白髪をくるくるといじりながら息を吐いた。
「わたくしのお役は御免と言うことですか」
「お主の指導もあって、日照雨も力の扱いができるようになった。感謝しておるよ」
「貴方様の頼みでしたから、何であれ万全にこなしますわ」
「そうじゃな、お主は」
かたかた、と食器の揺れる音。二人がその震源へ視線を向けると、目尻に涙を浮かべた日照雨の姿があった。
「そない、急に……」
「確かに急ではあるが、だらだらと過ごす訳にもいかんじゃろう」
「うー」
「唸っても事態は変わりはせんよ。ほれ、食事を向こうへ持って行くぞ」
日照雨は涙をごしごしと拭うと、しぶしぶお盆を持ち上げた。
隣の部屋へと運んでいくその後ろ姿を見送ってから、月華は胡乱な視線で彼を見つめた。
「何か言いたそうじゃの」
「いいえ別に」
ぷいっとそっぽを向いて、隣の部屋へと歩いていく。
彼は肩をすくめ、残った皿を両手に持った。
明日にはここを発たねばならない。そのことに驚きはしたものの、食事を始めた途端に日照雨は調子を取り戻していた。
その理由の一端としては、彼お手製のハンバーグが夕食であるからと言うのがあるだろう。
箸で器用に切り分けて、ぱくっ、と頬張る。目を細めて歓喜の声を上げた。
「ほほがとろけそうどす」
「それは大惨事じゃの」
「ですわね。確かに、頬が落ちて舌がとろけそうな気持ちはわかりますけれど」
「うちも精進せなあきまへんな」
ぐっ、と小さくガッツポーズを取って気合いを入れる。
「日照雨の料理も、負けず劣らず美味でしたわよ?」
ナイフとフォークを巧みに操って和風ハンバーグを食しながら、軽くフォローを入れた。
「ほんまどすか」
「ええ」
「……ほんまに?」
「え、ええ」
「ほんまにほんまにほんまに?」
「あー、ええっと。こちらのハンバーグの方が、美味しいですわね」
「せどすよな!」
日照雨はへにょり、と笑う。
「あれ、それで良かったんですの」
「そっち?」
「いいえ、気にしなくて結構ですわ」
ナイフで肉を切り分けると肉汁がジュワァッと染み出てきて、和風ソースと混ざり合う。一口大なそれをフォークで刺して、ソースに絡めてから口に運んだ。
濃厚な味が口の中に広がる。味わうように咀嚼する。熱さを感じることはできないが、内在的な温もりを感じさせられた。
「貴方様の手料理が食べられるだなんて、日照雨には感謝しないといけませんわね」
「んい?」
口一杯にハンバーグを頬張っている日照雨が、不思議そうに首を傾げた。ぷっくりとした朱色の唇の周りに、べたべたとソースが付いている。
「ああ口周りが」
ハンカチを取り出そうとするが、肌が透けて見えるような薄い生地の服にポケットは備え付けられていない。
見かねて、彼がどこからともなく白いハンカチを差し出した。月華はそれを受け取り、せっせと日照雨の口周りを拭った。
「さて、今日これからの予定じゃが。雨子は食事の片付けを頼む」
されるがままに口を拭かれた日照雨は、口の中の物を急いで咀嚼すると、ごくりと飲み込んだ。
「はい、旦那さま」
「わしはちと月華と話があるでの。これの部屋まで送ってくる」
「せどすか」
字面通り受け取って、日照雨はサラダに箸を伸ばした。
月華はその言葉の裏を期待して、彼を見つめる。彼はやんわりと見つめ返した。
「ああもう本当、今日は幸せな日ですわ」
突然どうしたのかと、キャベツをもしゃもしゃと噛みながら日照雨は不思議そうに月華を見た。
スポンジに食器洗い用の洗剤を含ませる。何度か握りしめると、面白いように泡が立ってきた。
冷水に浸した食器を一枚手に取り、その表面をごしごしと擦る。
日照雨以外誰もいない台所で、彼女は彼の言いつけ通りに食後の後片付けをしていた。
かちゃかちゃと小気味良い音を立てながら、慣れた手つきで一枚、また一枚と汚れを落としていく。
食器以外の鍋などの調理器具は、彼が調理中に片しているため洗う必要はない。
「よしっ、と」
スポンジをぽいっと投げて、蛇口を捻る。
洗剤を丁寧に洗い流す。綺麗になった皿は、流し台の横に積んでいく。
「布巾はーっと、あった」
綺麗な布巾を手に取り、食器の表面についた水滴を拭いう。
嫌な顔一つせず、むしろ楽しそうに、日照雨は作業を進めていく。
最後に食器棚へと戻して、彼女は満足げに息を吐いた。んっ、と体を伸ばす。
「完了っ」
とてとてと、部屋に戻る。本棚から一冊、手頃な本を抜き取って、無造作に畳の上に座った。
「……あ、この本はもう読んどりますな」
本棚までにじり寄り、本を戻す。背表紙を指でなぞりながら、別の読む本を探していく。
子供向けの小説が主ではあるが、偉人の伝記や学校の教科書など、読み応えのある本も並んでいる。
「んぅ」
どうやら読みたい本がなかったようで、本棚に背を向けてぺたんと座りこんだ。
がらんとした部屋の中を見渡して、深呼吸をする。
「暇どすな」
何か良い暇つぶしはないだろうか。読書以外で。
今日の出来事を思い出してみる。雪達磨たちと雪合戦をして遊んだ。今までずっと彼と二人で生活してきた彼女にとって、誰かと遊ぶこと自体が新鮮だった。
月華に妖術を習っている時も、遊びではなく授業だった。けれど妖術の練習自体は、遊びのように楽しかった。
「……妖術」
妖怪ではない彼女でも、妖力を身に宿しているその体質故に、扱うことのできる術。
その力量が、彼の求める水準に達したから、明日ここを出発するんだろう。
「がっかりされるよりかは、ええことどすよな」
右腕を、宙に向かって伸ばす。掌を、ぎゅっと握りしめた。
深く息を吐いて、掌へ神経を集中させる。
彼女の体が、微かに橙色の光を帯びた。隙間風などないはずの室内に、緩やかな空気の流れが生じる。
光が、風が、彼女の掌へと集まっていく。凝縮して、圧縮して。勢いよく手を開く。気の抜けるような渇いた破裂音が響いた。
室内に、紙吹雪が舞い上がった。
「おー」
ひらひらと舞う紙切れを見上げて表情を輝かせる。
再び掌を閉じて、術式を構築していく。次は何をしてみようか。なんだか楽しい気分になってきているのがわがる。
彼が部屋に帰ってきた時には、室内は玩具箱をひっくり返したかのようにへんてこな物たちで溢れ返っていた。
「妖術で遊んでおったのか」
「そうどすけど、いまいち作りたい物ができまへんどした」
「精巧に物を創り出すのはまだ難しいかもしれんな。片すぞ」
「あ、はい」
彼は部屋を今一度見渡し、フゥーッと息を吐いた。紙に書かれた絵を消しゴムで消すように、日照雨の創り出した物が音もなく消える。
「旦那さまのそれも、妖術なんどすか?」
「そうじゃな」
「ほへぇ」
彼は日照雨の傍まで歩み寄ると、畳の上に伏せた。
黄金色をした毛並みに、モサモサな九本の尻尾。日照雨は梳くように、彼の体を撫でる。
「うちも旦那さまみたいに、ひょいって妖術使えるようになれるやろか」
「人間の一生でどこまで鍛えられるかはわからんが、まあ精進することじゃな」
「はい、旦那さま」
体重を、彼に預ける。あたたかい。
「そう言えば帰ってくるの遅かったどすけど、何をされとったんどすか?」
「積もる話をな」
「うちも旦那さまといっぱいお話したいどす」
彼はカカッと笑う。
「いつもしておるではないか」
日照雨は、むっ、と頬を膨らませて彼に勢いよく抱きつく。
「うちも!」
彼は困ったようにため息をついて、尻尾で彼女を撫でた。それが嬉しいのか、日照雨は目を細めて、彼の毛深い体に頬を寄せる。
ふと視界に、ピクピクと動く彼の耳が入った。三角形のシルエットをじっと見つめる。入浴中に月華から聞いた話を思い出して、ごくりと唾を飲んだ。
手を、伸ばす。
撫でるように、触れてみた。
「んおっ!」
聞いたこともない彼の叫び声に、日照雨の口元がだらしなく緩む。同時に凄く恥ずかしくなって、顔も耳も真っ赤に染まってしまった。
「日照雨?」
凍てつくような紅色の瞳が、日照雨を睨みつける。目を合わせるのが恐ろしくて、後ろめたくて、視線を伏せながら彼の体毛に体を埋める。
「……すみまへん」
「全く、どうせあれの入れ知恵だろう。一日に二度も触られると、わしも良い気分ではないんじゃがな」
「せやけど、旦那さまの声すんごくかわいかったどすな」
彼の尻尾が、ピシッと軽く彼女の頭を打つ。
日照雨はくすぐったそうに身をよじらせた。
「今日は疲れただろ。ゆっくり休んで明日に備えることじゃな」
「……ん」
「返事ははいじゃろ」
日照雨の反応はない。
彼女に視線をやると、目を瞑り、穏やかな寝息を立てていた。
彼はため息をつく。
「話をしたいと言っておったのは何処の何奴よ」
掛け布団のように、彼の尻尾が日照雨の体を覆った。