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第三話 西洋かぶれの雪女

 空は青く澄んでいて、太陽も燦々と輝いている。

 片側一車線の道路の両側に広がる畑では、作業着に身を包んだ人々が農作業に勤しんでいる。

 そんな景色を眺めながら、日照雨は路側帯を歩いていた。

 長袖の白いカッターシャツに、紺色のショートパンツ。黒タイツはいつも通りで、歩きやすいようにスニーカーを履いている。

 黒く艶やかな髪は首の後ろで纏めていて、一本の長い尻尾のようになっていた。

 彼女が今いるのは、山間部にある小さな村。住人の大半が初老を越えていて、彼女程度の年齢の子どもは両の手で数え切れてしまうほどしかいない。

 点々と並ぶ民家は皆農家で、遠くに見える寂れた小学校では農業を教える授業があるらしい。

 村を横断するこの道路は、主に村を通過するための目的に使われていた。

 彼女にしか姿は見えないが、確かに彼女の少し前をゆったりと歩いている彼の口から聞かされたこの村の説明に、日照雨はふんふんと頷く。

「来られたことあるんどすか?」

「通り過ぎたことなら何度もな。いつ来ても何も変わっておらん」

「今日も通り過ぎるだけどす?」

「そうなるな。目的地は山頂じゃからの」

「山に登るんどすよな。うち、体力持つやろか」

「疲れて歩けんようなったら、わしが背中に乗せてやるよ」

「旦那さまの背中!」

 ぱんっと手を胸の前で合わせて、小さく飛び上がる。日照雨は、にまぁと嬉しそうに笑った。

 太陽の光を受けてキラキラと輝く黄金色の毛並みをした九尾の妖怪狐は、怪訝そうに自身の幼い嫁を見つめる。

「あ、あの旦那さま」

「却下じゃ」

「あう、うちまだ何も」

「まだ歩けるじゃろ」

 うー、と口を尖がらせて抗議する日照雨を無視して、彼は前に向き直った。

 日照雨は残念そうにため息をつく。眉の高さに切り揃えた前髪が揺れた。

 前を行く狐の釣り上がった細長い瞳と同じ紅色をした瞳で、彼女は彼の揺れる尻尾を見つめていた。

 やがて、周囲の畑が、段々と減っていく。吹く風に混じる草木の香りが濃くなってきた。

 彼は突然に道を逸れる。土色が露わな獣道を、迷いもなく進んで行く。その道は、ゆらりくらりと山の奥へと続いていた。

 日照雨は一瞬ためらったが、彼の姿が木陰に隠れたのを見て、慌てて山中へと入った。

 特に会話もなく、彼は悠々と傾斜のある道を歩く。

 しかし、日照雨にはその山道は容易に行けるものではなかった。体力よりも先に気力が削がれ、少しずつ、二人の距離が開いていった。

「……む?」

 彼がそれに気づいて足を止めた時には、日照雨の姿は数メートル後方にあった。

「どうかしたか」

「どないもこないもあらへんけど。別に旦那さまと一緒に歩くのが嫌や言うことはないんどすけど、せやけど、山も森も別に嫌い言うことはないんどすけど。せやけど」

 不機嫌そうな表情で、ぶつぶつと文句を垂れ出した。

「ふむ、わしの思慮が足りんかったか」

 彼が辺りを見回すと、平坦になった場所が近くにあるのを見つけた。

「休憩をとるか」

 日照雨の額に寄っていた皺が、みるみるうちに消えた。何度も縦に首を振る。

 彼に導かれながら木陰まで行くと、日照雨は無造作に腰を下ろした。彼は普段通り、いつの間にか彼女と地面との間にハンカチを敷く。

 彼女の膝の上にも、先程まではなかった風呂敷に包まれた弁当箱が鎮座していた。

「ついでに昼飯も食べておけ」

「せやけど、食べたらうち、もっと歩けへんようになる気がします」

「その心配は要らんよ」

 日照雨は不思議そうに、傍らに伏せた彼に視線を向けた。

「雨子にも山登りをさせようかと思っておったが、予定変更じゃ。ここからはわしが連れて行く」

「すみまへん、旦那さま」

「んむ。じゃから、たんと飯を食っておけ」

「はい」

 今日の昼食は、昨晩のおかずの残りを詰め込んだお弁当。とは言え、最初から昼食用と多めに作っていたものである。

 風呂敷を解くと、こじんまりとした弁当箱が顔を出した。日照雨は蓋を開けて、合掌をした。

 食事を取りながら、彼女はふとおかずを箸で掴んで彼の口の前に差し出した。彼はそれをジッと見つめてから、何も言わずにパクリと食べる。

 特に感想を口にすることはなかったが、大きな尻尾が一本、撫でるように日照雨の頭に触れた。彼女は嬉しそうに破顔する。

 喧騒のない静かな空間。まったりと、時間が流れていく。

 お弁当箱はほとんど空になった。日照雨は口の中の物を飲み込み、口を開いた。

「旦那さまの背中に乗るやなんて、いつぶりやろか」

 その声色には、喜びが滲み出ていた。

「街の公園で雨子が寝てしもうた時に乗せたがの」

 喜びを打ち砕く言葉が、彼の口から発せられた。

「それは、数えへんことに」

「とすれば三ヶ月振りくらいかの」

「えへへ、楽しみ」

 両頬に手を当てて体を左右に捩じらせる。

 彼は、小さく嘆息した。


 むき出しの地面が掻かれ砂が舞い上がった直後に、空気が渦を巻き風が起こる。

 一筋の風は、ぐんぐんと山を登って行く。次第に木々の数が減り、その代わりに地面が薄らと白く染まってきた。

 やがて、風は減速して止まった。

「この辺りじゃったか」

 日照雨を背中に乗せた九尾の妖怪狐は、息一つ乱した様子もなく、そう言った。

 彼が体を低くすると、彼女はぴょんと飛び降りた。

 楽しいアトラクションに乗った後のような晴れやかな笑顔で、興味深そうに周囲を見回す。

「雪が降っとりますな」

「春じゃろうと夏じゃろうと、ここは雪が降る。冬になれば、麓の村も含めて雪景色よな」

「ここが目的地どすか?」

「そうじゃな。ただ」

 彼は瞬きをする。紅い瞳が、妖しく光を帯びた。突風が吹く。日照雨は驚いて、腕で顔を覆った。

「結界の内側ではあるがの」

 日照雨が腕を下ろすと、はらりはらり、大粒の雪が視界に入る。

 地面の色が透けて見える程度だった積雪ではなく、一面の雪景色が広がっていた。

 驚き、彼女は振り返る。見えていたはずの木々の姿はなく、延々と白銀の雪の絨毯が広がっていた。

 空を見上げる。額に雪が落ち、水に変わることなく消えた。

 雲はなく、太陽もない。晴天であったはずの空は、深い藍色をしていた。

「ここは?」

「力のある妖怪が、己の姿を隠匿するための空間のことを何と言う?」

「結界、どすな」

「その通りじゃな」

「せやったら、ここにはどなたか妖怪がいらっしゃる言うことどすか?」

 視線を彼に戻すと、彼はいつの間にか歩き出していた。日照雨は、彼の足跡の上を歩き出す。

「旦那さまがここに来られたのは、その方と会われるためどす?」

「お主を会わせるため、とも言えるがの」

 淡く、青白く輝く雪の世界。彼と日照雨が雪を踏む音だけが辺りに響いた。

「着いたか」

 彼の声に、日照雨は視線を上げた。

 眼前に、いつの間にか巨大な建物がそびえ立っていた。それは、西洋の古城のように見える。

 半透明な氷によって造られた城に、空から降り続ける雪がうっすらと化粧を施している。

 三メートルはあるであろう氷の門の前に、丸が二つ重なったかのようなシルエットが見えた。

「旦那さま、あれは」

「雪達磨。雪の妖怪であるが、同時に付喪の性質も持っておる妖怪じゃの」

「あの方が、旦那さまが」

「いやいや違うぞ。あれは、ただの召使いじゃよ」

 二人が門の前までたどり着くと、雪達磨は箒と木の枝の腕を上下に振って二人を出迎えた。

 丸く大きな目に、歪んだ眉。口はにっこりと笑っている。上の雪玉には青いシルクハットが載っていて、下の雪玉の上の方、人間で言う胸の上辺りには青い蝶ネクタイをしていた。

「お待ちしてオリマシタ!」

 キンと響く陽気な高い声。

「セレーネ様は既にオマチデス!」

「そうか。案内を頼む」

「はいカシコマリマシタ!」

 ピョンとその場で飛び上がると、体を上手に捻って反転した。そして、ピョコピョコと跳びながら前に進み出す。

「こちらへドウゾ!」

「相変わらずセレーネと呼ばせておるのか」

 彼は嘆息してから、歩き出す。しかし、いつもならすぐについて来るはずの日照雨が動き出さないことに気づき、振り返った。

「何をしておる?」

 日照雨は胸の前で両手を握り、口を大きく開いて目をキラキラと輝かせていた。

「雪だるまがしゃべった!」

「そりゃあれでも自我のある妖怪じゃしの」

「飛び跳ねて動いとる!」

「移動できんと不便じゃしな」

「旦那さま、うちあれ欲しい!」

「わし以外の男をお主のそばに居らせるわけにはいかんよ」

「あの雪だるま、男の子なんどす?」

「問答は良いからついてこい」

 びくっと体を強張らせて、日照雨は肩を落とした。てててと彼のそばまで駆け寄り、心細そうに彼の尻尾を掴む。

「……すみまへんどした」

「数日滞在する予定じゃから、その間だけなら遊び相手になって貰うと良い」

「ほんまどすか!」

「迷惑はかけんようにな」

「はい」

 先導する雪達磨が、ある部屋の前で立ち止まる。飛び上がって体を反転させ、こちらを向いた。

「この部屋の中でオマチデス!」

「案内御苦労」

「それではシツレイシマス!」

 再び飛び上がって背を向けると、雪達磨は飛び跳ねながら立ち去った。

「入るぞ」

「はい、旦那さま」

 彼が氷の両扉の前に立つと、滑るように、廊下側に扉が開いた。

 部屋は無駄に広く、床も天井も調度品も全て氷でできていた。その中に、お伽噺から出てきたようなドレス姿の女性がいた。

 頭の上の方で括った白い髪は長く、肌は病的なまでに青白い。豊満な胸を強調するドレスは白銀に輝いていて、幾重にもフリルがあしらわれていた。

 彼女の紅色をした綺麗な瞳が彼を認めると、ほんのりと薄く紅を差した唇が嬉しそうに上がった。

「久しいの」

 部屋に入ってくる彼に対して、女性は立ち上がると上品に頭を垂らした。

「貴方様が訪れて下さるのは、大体十年振りですわね」

 凛と響く鈴の音のような、澄んだ声。

「それくらいになるか」

「お変わりなさそうでなによりですわ」

「お主も相変わらずのようじゃの」

「ええ。貴方様との文の遣り取りが無ければ、恋焦がれて身を滅ぼしてしまいそうでしたけれど」

「まあそれはさておきじゃ」

 彼は尻尾の後ろに隠れている幼い少女を、女性の前に押し出す。

「……彼女が、件の娘ですのね」

 ズン、と声のトーンが落ちた。

「詳細は手紙に書いておった通りじゃよ」

「この十年、わたくしはずっと貴方様をお慕いしていたと言うのに。貴方様はこんな小娘にうつつを抜かしていたわけですわね、しかも人間の!」

 身に纏っていた上品さが音を立てて崩れ落ちる。代わりに、怒気を纏う。

「ああもうしかも、この娘に妖術の基本の稽古をつけてやって欲しいだなんて。第一、貴方様の方がわたくしよりも妖術に長けておられるじゃありませんの」

「わしの術は手本にならんよ。目に見えてこその手本じゃろう?」

「それは、まあ、そうですけれど……。でしたら尚更、別にわたくしじゃなくても良いんじゃありませんの?」

「お主に会いたかったからじゃよ」

「え、あ、そう、でしたの……」

 途端、女性の怒気が霧散した。煌びやかな上品さが戻る。

「初めまして、人間のお嬢さん。わたくしは、セレーネ・ヘカテ・アルテミスと申しますの。よろしくお願いしますわね?」

 日照雨は体を強張らせて、こくこくと頷いた。。

 場が落ち着くのを待ってから、日照雨はお尻がひんやりとする氷のソファーに腰掛けた。対面にはセレーネと名乗る女性が座り、日照雨のソファーの隣には彼が伏せている。

「手紙に書いておいたとは思うが、これが日照雨。妖力持ちの人間で、つい先日妖力を操る準備が整ったばかりじゃ」

「貴方様の新しいお嫁さん、でもありますのよね?」

 ぴく、と日照雨の体が動く。先程からぼんやりと感じていた違和が、段々とはっきりとしてくる感じがした。

「そうじゃな。で、日照雨。これは月華じゃ」

 彼の紹介を月華が遮る。

「いいえ、わたくしの名前は、セレーネ・ヘカテ・アルテミスですわ」

「それは自称だろう。正式名称は月華じゃよ」

「物のように言わないで下さいまし。月華は確かに貴方様から頂いた大切な名前ですけれど。それでも、わたくしはセレーネ・ヘカテ・アルテミスですわ!」

 体を乗り出し、グィッと顔を日照雨に近づける。

「日照雨。貴女ならわかってくださいますわよね?」

「はえ? え、えと……」

 ちらっと彼を見て、それから俯きがちになり上目遣いに彼女を窺った。

「げ、月華さまの方でお願いします」

「んもう、理解があるのはわたくしの召使いたちだけですわ」

 不満げに、ソファーに座り直す。

 咳払いをして、彼は彼女の紹介を再開した。

「月華はこの結界の主である雪女でな。麓の村ができた頃からずっとここに住んでおる」

「そして、貴方様のお嫁さんですわよね?」

「そうじゃな」

 日照雨はようやくその違和感の正体を知り得た。

「旦那さまには、うちの他にも嫁がおったんどすな」

 静かな、普段とは違う淡々とした声。

「言うとらんかったか」

「聞いとりまへん。うちだけの旦那さまやと思っとったのに」

 次第に、怒りの感情が露わになってくる。

「日照雨の気持ちはよおくわかりますわ」

「月華さま、旦那さまはうちらの他にも嫁がおられるんどすか?」

「わたくしと貴女を合わせて七名いますわ」

「そないに! んぅ……」

 じっ、と大粒の涙を浮かべた瞳で彼を睨む。

「別段奇妙なことではあるまいて。わしは皆を皆愛しておるし、大切に想っておる」

「せやけど、やっぱりうちだけを見て欲しいと言うか」

「わたくしだけの氷像になっていただきたいと言うか」

「月華、お主はわしを殺す気か」

「殺したいほど愛しているというやつですわ」

 彼はやれやれ、と首を振る。

「ともかくじゃ、日照雨。お主には月華から妖術の基本を学ぶようにの」

「妖術?」

「その辺りはまだ教えておらんかったか。月華や、妖怪についても詳しく教えてやってくれ」

「丸投げですのね」

 彼はやおら立ち上がると、二人に背を向けて扉の方へと歩く。

「わしはちと他に用事があっての。月華、数日後になるとは思うが、城を待ち合わせ場所に使わせて貰うぞ」

「金柑か火影を呼び出されるんですの?」

「そう言うことじゃな」

「貴方様の好きなようにお使い下さいな」

「助かる」

 彼が部屋を出ると、扉は音もなく自ずから閉じた。

 残された二人は互いに見つめ合う。先に口を開いたのは日照雨だった。

「金柑、火影言うんは、もしかして」

「他の嫁たちの名前ですわね」

「ほへえ」

「あの方がわたくしに紹介したということは、近い内に全員と会わせるつもりなのかもしれませんわ」

 ニコッと笑う。

「もしかしたら、貴女の知らないあの方の話を聞けるかもしれませんわよ?」

 日照雨は目を見開いた。確かに月華の言う通りかもしれない。自身以外の嫁の存在を知って不安にかげっていた表情に、明るさが戻った。

 月華は唇をスッと上げて安堵の笑みを浮かべた。

「それで日照雨? あの方から頼まれた以上、わたくしはきっちりと教鞭を取りたいと思っているのですけれど」

「はい」

 背筋をぴんと伸ばして月華を正面に見据える。

「貴女は今まで、あの方にどの程度妖怪について聞かされて来ましたの?」

「んっと」

 唇に指を当てて、目を虚空に這わせる。頭の中でできる限り文章に纏めてから、口を開く。

「妖怪は、人間が自然とかの物事に対して思う、こわいとかすごいとか言う感情を元にして生まれる言うのと。自我を持つ妖怪と持たない妖怪がおって、持っている方が妖怪として凄い言うことくらい、どす」

「自我を持つ妖怪と持たない妖怪、その行動の違いについてはわかるかしら」

「行動の、違い……」

 口をすぼめ額に皺を寄せて、考える。

「自我を持ってへん妖怪は、その妖怪に込められた思いした体現できへん言われた気がします」

「そう言うことですわね。自我無き妖怪は、まだ妖怪として未熟な状態ですの。木を揺らす妖怪は木を揺らすことしかできず、人を疲れさせる妖怪は人を疲れさせることしかできないということですわね」

「ほへぇ」

「では逆に、自我を持った場合は?」

「それ以外のことができる?」

「その通りです。よくできましたわね」

 褒められて、日照雨はくすぐったそうに笑った。

 既に妖怪についてのお勉強が始まっていることを理解しないまま、日照雨は西洋のドレスに身を包んだ女性と向かい合い、会話を交わす。

 じゃあ次は、と月華は頬に手を当てて首を傾げた。

「自我を持つ妖怪には使えて、自我の無い妖怪には使えないものはなーんだ」

「なぞなぞ、どすか?」

「と言うよりは、クイズですわね」

 ほんわりと包み込むような声色で話す月華に、日照雨はすっかり気を許していた。

 彼の嫁がどうとかということは、既に頭の奥に行ってしまっている。

「んと。あ、もしかしてさっき旦那さまが言うとった妖術どすか?」

「正解ですわ。ではついでに、貴女は妖力を身に宿していますけれど、そもそも妖力とはなんでしょう」

「妖怪が好む食べ物?」

「ああ、あの方のお食事のお手伝いをなさっていますのね。それは事実ではありますけれど、実際は、妖怪が妖怪であるための力ですのよ」

 難しかったのか、日照雨は首を傾げる。

「んー、何か例を挙げた方がいいかもしれませんわね。例えば、雨を降らす妖怪がいるとするでしょう?」

 日照雨はこくりと頷く。

「ではその妖怪は、どのようにして雨を降らせているのかしら」

「雨を降らす妖怪やから、雨が降らせるんやないんどすか?」

「その通りですわ。雨を降らす妖怪だから、そうあるために雨を降らすことができるんです。その妖怪の妖力は、雨を降らすために用いられているということになりますわね」

 わかるような、わからないような。日照雨は神妙な表情を浮かべていた。

「曖昧で構いませんわ。もう少し大きくなれば、自然とわかるでしょうし」

「それで、妖術言うんはなんなんどすか?」

「その妖怪であるための力を、それ以外に転用することができる装置であり行為とでも言いましょうか。あの方からの文にありましたけれど、貴女は既に妖術を使ったことがありますのよ?」

「ほえ」

 自身の過去を振り返る。しかし、月華が言うようなことをした記憶はない。

「術式の編み込まれた拳銃を撃ったでしょう?」

「あ! あれが妖術だったんどすか?」

「その一つではありますわね。妖術は、術式の構築、妖力の変換、術式の起動という工程を経て扱うものでして」

 スラスラと語る月華は、言葉を切った。目が点になっている日照雨を見て、小さく首を振る。

「初心者にいきなり理論的な説明をしても仕方ありませんわよね。とりあえず実践して差し上げましょう」

 優美に立ち上がる。日照雨にも立ち上がるよう指示して、部屋の中の、何も置かれていない空間へと移動した。

「まずこれが、わたくしの妖力ですわ」

 雪女は、大雪の降る山で遭難した男性を惑わし精気を奪う妖怪とされている。雪という幻想的な現象と、吹雪や凍死と言った恐怖とによって生まれ落ちた妖怪。

 一方で、子を思う母親の愛情もまた、雪女を生み出す感情であり、雪女の性質である。

 部屋の中に雪が舞う中、日照雨は呆けた表情で月華を見つめていた。月華の仕草一つ一つが妖艶で、美しく魅力的に感じられた。

 パンッと彼女が手を叩くと、雪は止み、日照雨は正気に戻る。

「ほわ……」

「それで、んー。貴女は何かして欲しいことあるかしら」

「してほしい、こと?」

「あまり冬から離れると手間がかかってしまいますけれど」

「んー」

 ふと、彼女が先程口走った言葉が頭をよぎった。それを提案する。

「旦那さまの、氷像」

「あら名案ですわね。じゃあ、あの方の氷像を作る妖術をお見せしますわ」

 第一に、術式の構築。

 月華が目を閉じて深呼吸をすると、雪の結晶が渦を巻きながら彼女に吸い込まれていくのが見える。

 彼女を中心に現れ消える結晶は、何か幾何学的な模様を描くような軌道を辿っていた。

 第二に、妖力の変換。

 月華の体が、青白い輝きを帯びた。風もないのにドレスがはためき、髪の毛が揺れる。

 日照雨は漠然と、月華の体に宿る力がその姿を変えていく様を感じた。

 第三に、術式の起動。

 カッ、と月華が目を開く。彼女の開いた掌から、氷の結晶が噴き出した。

 淡い光が部屋を包み、眩しくて日照雨は目を覆った。

「ざっと、こんな感じですわね」

 日照雨は目を開いた。

 スッとした長い鼻、ピンと立った三角形の耳、細長い瞳。毛の一本一本まで正確な体。躍動感溢れる九本の尻尾。

 そこには精巧な、九尾の妖怪狐の氷像が鎮座していた。

「ほわあっ」

「我ながら素晴らしい出来に、惚れ惚れしてしまいますわね」

 うんうんと頷いてから、日照雨へと視線を戻す。

「とまあ、これが妖術ですわね」

「すっごいどすなぁ」

「妖怪ごとに得意不得意はありますけれど、術式が構築できさえすれば、あらゆることが実現可能になりますわ」

 ニッコリと笑う。

「空を飛んだり、天変地異を起こしたり、何でも」

「うちにもできるんやろか」

「あの方が嫁にするような人間ですもの。練習さえすればできるようになると思いますわ」

「ほんまに?」

「ええもちろん」

 日照雨はぐっ、と胸の前で小さくガッツポーズをした。

「それじゃあ日照雨。座学と体験は終わりにして、実習といきますわね」

 彼女は月華を見上げて、力強く頷いた。


 結界の外では日が沈んだ頃。

 九尾の妖怪狐が創り出した結界である畳み張りの和室に、月華は訪れていた。

 ドレス姿の女性がちょこんと座布団の上に正座をしている光景は、端から見ると激しく不釣り合いで異質だった。

 隣の部屋からは、日照雨が夕食の準備をしている音が聞こえてくる。

 畳の上に伏せている彼が、おもむろに口を開いた。

「雨子はどうじゃった?」

「可愛らしい子ですわね。貴方様の嫁にしては珍しく素直ですし」

「お主は子どもに好かれやすい性質じゃしの。あれも懐いたんじゃろうて」

「わたくしをだしにして、他の嫁たちに会わせる前準備にしようとされたんでしょう?」

 彼は何も言わず、尻尾をゆっくりと揺らす。

「伺いたいのは妖術の方ですわよね? 十年近く貴方様のそばで過ごして来たからかもしれませんけれど、飲み込みが早いですわ」

「ほう」

 彼が嬉しそうな声を出したことに、月華はムッと顔をしかめる。咳払いをして、首を小さく振った。

「まだ稚拙ですけれど、簡単な術式の構築はできるようになりましたわ」

「お主の教え方が良かったんじゃろな」

 ピンと背筋を伸ばし、頬に手を当てて彼から視線を逸らす。青白い肌が、微かに生気を帯びていた。

「妖力の変換と術式の起動は難なくできるようでしたから、もう掌に明かりを灯す程度のことはできますわ」

「ふむ。燐火を灯せる程度には指導してやってくれ」

「わたしが溶けてしまわない程度に尽力しますわ」

 彼は体を起こすと、月華の隣まで行く。そして、再び畳みの上に伏せた。

 その行動をどう捉えて良いものか、月華は思案する。と、彼の尻尾に頬を撫でられた。

「ええと、その……。失礼します」

 控えめに、彼の背中から抱きつく。氷のように冷たい彼女の体に、彼の温もりがジワッと広がる。

「あの、貴方様?」

 甘えるような声。

「よろしければ、なんですけれど。今晩わたくしの城の方に……」

「雨子はまだ一人で寝れんでの」

「むぅ。日照雨日照雨、ですのね」

「まだ子どもじゃからな、手間はかかる」

 月華は深くため息をつく。口元から、雪の結晶がこぼれて消えた。

「じゃあ次の機会までお預けにしておきます」

「そうしてくれ」

「話は変わりますけれど」

 ピク、と彼の耳が動いた。

「昼間は聞きそびれてしまいましたけれど。わざわざ、わたくしの結界内に火影か金柑を呼び出されるのはどうしてですの?」

「わしの見つけた拳銃について、色々とな。それに、呼び出したのは二人ともじゃよ」

「あらそうでしたの。金柑の方は召使いらと息が合うようで時々来ますけれど、火影とは久しく会っていませんわね」

「お主の召使いと言えば、雨子が雪達磨と遊びたがっておったな」

「配慮しておきますわ」

「頼む」

 月華は今一度ギュッと彼の体を強く抱きしめる。鼻から大きく息を吸って、口から息を吐いた。

「やっぱりこうしていると落ち着きますわ」

 隣の台所から聞こえてくる調理の音が、次第に小さくなっていく。かちゃかちゃと食器の音がして、静かになった。

 部屋の戸が開き、食事をお盆に載せたエプロン姿の日照雨が入ってきた。

「おゆはんの支度ができましたよー」

 彼に抱きつく月華の姿を見て、彼女はぴたりと立ち止まった。目を見開き、叫ぶ。

「月華さまずるい!」

「いいじゃありませんの、わたくしは十年振りなんですのよ。貴女と違って」

「うっ」

「じゃが、お主は四百年近くわしと一緒におるじゃろう」

「やっぱりずるい!」

「ああもう貴方様は一言多いです。それよりお食事ですわお食事。わたくし、氷菓以外の食べ物を食すのは久しぶりですのよ」

 月華は彼から体を離し、ちゃぶ台に向き直った。

 日照雨ははぶてながらも、いそいそと料理を並べて行く。

「雨子の飯は美味いぞ。最近は特にの」

「それは楽しみですわね。それとスプーンとフォークとナイフを下さいな」

「和食は箸で食わんか箸で」

 彼も食卓につき、日照雨もまた、全てを並べ終えると座布団の上に座る。

「いただきます」

 三人の声が、綺麗に揃った。

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