第二話 覚醒の昼下り
時刻は昼前。ビルは地上に影を落とし、自動車は走り、人は歩いている。
肩を出したカットソーに短い丈のスカート、黒タイツという昨日とそう変わらない服装で、日照雨は人混みを歩いていた。
ただ昨日と違う点を挙げるとすれば、彼女の目の前にぽっかりと空いた空間が無かった。その代わりに、彼女の隣を長身の男性が歩いている。
切れ長の紅い瞳の、端正な顔立ちの好青年。言わずもがな彼女の愛しの旦那さまである。
日照雨の昼食はファミリーレストランで食べるという約束を果たすため、今日は人間からも視認できる姿に化けていた。
はぐれてしまわないよう、日照雨は彼の服の袖をぎゅっと握っている。
遠くに見えていた店の看板が、次第に大きくなってくる。無意識のうちに、彼女の手に力が入る。
「どうかしたか?」
よく響く低い声で、彼は優しく尋ねた。
日照雨は、何でもないという風に首をふるふると横に振った。しかし、表情は硬く落ち着きがない。明らかに、緊張しているようだった。
やがて、ファミリーレストランの入り口前に到着した。立ち止まった二人を避けるように、人波は絶えず流れて行く。
彼は進んで入ろうとはせず、日照雨に袖を掴まれたまま佇む。
「あの、旦那さま」
不安そうな声。彼は視線で続きを促す。
「ほんまに、ここに入ってええんどすか?」
今朝方、部屋の中でずっと喜んでいた本人のものとは思えない発言。
彼は無言のまま、日照雨の頭に手を乗せてくしゃくしゃと撫でた。日照雨は目を細め、肩をきゅっと上げた。
それから諭すように、彼は口を開く。
「初めてのことに躊躇する気持ちはわからんでもないが、一歩踏み出してみい」
「いっぽ、ふみだす?」
「それで無理だと、危険だと思うのであれば、わしを頼れ。助けてやるから」
「旦那さまを、頼る……」
「大丈夫なのであれば、そのまま歩き出せるじゃろ。わしはそばで見守っておるから」
「ん……」
日照雨は空いた方の手を胸の前にやり、自身の服をきゅっと掴んだ。一歩踏み出す勇気を、体中から集める。
彼女の初体験を支える一方で、彼はこの後のことを考えていた。
昨日の情報から推察される現状について。
この街は人間の抱える負の感情が蔓延してしまっている。そこから生まれた黒い影の妖怪は、到底数え切れるようなものではない。
たとえ数匹退治したところで、数時間もすれば新たに生まれ出でる。人が存在する限り無尽蔵に生まれ続ける妖怪ではあるが、しかし、昨日襲ってきた数は異常だった。
そもそも日中に襲ってくる妖怪自体が珍しく、居たとしても片手で数え切れる程度。
であるのに、自我を持たない雑多な妖怪が、相当数襲ってきた。その背後には恐らく、それらを支配する存在があるだろう。
とは言え、雑魚とも言える妖怪を手下に持つ妖怪の程度はたかが知れている。彼の歯牙にもかからないのは明白だった。
「だ、旦那さま……!」
というところで、日照雨に服の袖を強く引かれた。首を傾げて、発言を促す。
「行き、ます」
一歩、日照雨は踏み出した。続けて、反対側の足も出す。
彼は彼女に先導されるようにして、ファミリーレストランのドアをくぐり、入店した。
カウンターの奥から、制服姿のウェイトレスが姿を現す。
「何名様でしょうか?」
人当たりの良い、よく通る声。
「え、えと」
今にも泣き出しそうな顔をして、日照雨は彼を見上げた。頼られて、約束通り彼は彼女を助ける。
「二人」
「かしこまりました。禁煙席と喫煙席がございますが、どちらになさいますか?」
「禁煙で」
「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」
ウェイトレスが店内へ導いてくれる。付いて行くべきか悩んでいる日照雨の背中を、彼はポンと叩く。後押しを受けて、彼女は歩き出した。
案内されたのは、店内を見渡せる窓際の席。二人が向かい合って着席すると、ウェイトレスは決まった台詞を喋り出す。
「ご注文がお決まりになりましたら、そこのボタンを押してお呼び下さい」
「わかりました」
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
「どうも」
ペコリと一礼すると、ウェイトレスはスタスタと立ち去っていった。
その後ろ姿を目で追いながら、彼は店内をぐるりと見渡す。
四人掛けのテーブルが十数脚あるが、埋まっているのは自分たちを合わせても三脚。もうしばらくすると、客も増えてくるのだろうか。
店内には音量を絞ったクラシックが流れていて、耳に心地よく安らぎを与えてくれていた。
昨日の昼に日照雨が興味を持っていた店舗。何の下調べもしていなかったが、雰囲気は良いようだ。
視線を彼女に戻すと、そわそわと落ち着きのない様子で、彼女もまた店内を見回していた。
「どうじゃ、入ってみての感想は」
突然話しかけられて、日照雨はびくっと肩を強張らせた。しかし、その声が彼のものであると気がつくと、肩の力を抜く。
「そう、どすな。床がふかふかしとります」
「確かにの」
「あとは、あとは。ええ匂いがします」
「厨房からの匂いじゃろか」
「んと、それと」
首を傾げる。
「うちは今から何をすればええんやろか」
彼はメニューの書かれた冊子を、彼女が読みやすい向きにして渡した。
「この中から、食べたい物を選ぶと良い」
はらり、とページを捲った日照雨が、黄色い悲鳴を上げた。
「こないに仰山あるんどすな」
「ゆるりと選べ」
「はい、旦那さま」
先程までの緊張感はすっかり身を潜めてしまったのか、彼女は満面の笑みを浮かべた。
彼は笑顔を返して、再び思案する。
日照雨が他の人間と比較して妖怪に襲われやすい理由の確認。
彼女は人間でありながら、妖怪の力、妖力をこの世に生を受けた時からその身に宿していた。妖怪を認識できる才能は、その体質の副産物でしかない。
僧侶や巫女、妖怪退治を生業とする者の中にはそう言った体質の人間は多くいたが、現代においては非常に珍しい存在である。
妖怪にとって、妖力を持った人間は共通の食糧と成り得る。故に、妖力持ちの人間は妖怪に狙われやすい。妖怪に対抗する術を身につけない限り、ただ喰われるしか道はない。
実際、自身に家族に取り巻く全ての人々に災厄を振りまく妖力持ちの人間は、その大半が幼くして命を落としている。そして、その死因は妖怪によるものとは限らない。
妖怪は、自身の妖力を操り妖術を成す。妖怪に対抗する術というのもまた、人間の身でありながら妖術を扱うことである。
日照雨はまだ、妖術を扱うことができない。しかし、彼がそばにいるために、妖怪からの襲撃により絶命するようなことはなかった。
「あ、あの」
「注文は決まったのか?」
日照雨に声をかけられ、彼は思考を休めた。
「んと、まだあと少し……。せやなくて、旦那さまは何か頼まれんのどすか?」
「わしか? わしは別に頼まんよ。わざわざ人間の飯を食べることもあるまい」
「せやけど、うちの作ったご飯は食べられとります」
「それはここだけの話なんじゃがの」
彼は声の音量を下げ、顔を彼女に近付けて、囁くように言った。
「わしへの愛情のこもっておらん料理は食べれんのじゃ」
日照雨の顔が、見る見るうちに真っ赤に染まる。潤んだ瞳で彼を見つめながら、下唇をぎゅっと噛んだ。
「そ、そゆ、ことなら……」
目を逸らし、上擦った声でそう言った。
一方、彼はその仕草が面白かったのか、肩を震わせて笑っていた。
笑いが収まったところで、改めて日照雨に尋ねる。
「で、何を注文しようと思っておるんじゃ?」
胸の前で手を抱き、体を小さくしながら、俯きがちに、上目遣いに、赤い顔で彼を見つめる。
「和風定食か、ちーずはんばーぐ定食にせようかな、て」
「お子様ランチもあるぞ?」
言われ、日照雨はぷくぅっと頬を膨らませた。ぷいっ、とそっぽを向いてしまう。
「量の心配をしておるんだがな。まあ、好きに頼め」
少しの間、顔を赤くしたままはぶてていた日照雨だったが、落ち着いたのか、再びメニューを見て考え始めた。
そして、顔を上げる。
「ん、と。……決めました」
「そうか」
彼は伏せたお椀型をしたスイッチを手に取ると、彼女の目の前に置く。
意図が分からず、彼女は彼とスイッチとを見比べながら、ぱちくりと数回瞬きをした。
「ここからは自分でしてみい」
言われ、目を見開く。不安そうな表情になって、上目がちに彼を見つめる。
「うちがしてええんやろか」
「良いよ」
こくり、日照雨は頷く。そして、恐る恐るスイッチの頂点に指を添えた。白く細い指に力がこもり、スイッチが沈む。
直後、ポーンという電子音が聞こえてきた。カウンターの奥から、先程のウェイトレスが出てくる。
「注文も自分でするんじゃよ?」
「……がんばり、ます」
彼は優しく微笑む。きゅっと胸の前で両手を握りしめて、日照雨は頷いた。
ウェイトレスが机のそばに立ち、わざとらしくない笑顔を浮かべた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「ぇと!」
上擦った声。ウェイトレスは瞬時に状況を飲み込み、急かすことなく小さな女の子の言葉を待つ。
日照雨は、一度助けを求めるように彼を見た。しかし思い直す。
彼に頼り切りになってしまっている自分が少し嫌だから、だから、自分の力で。
彼女はたどたどしいながらも、一言一言噛み締めるように言葉を紡ぐ。ウェイトレスの復唱も聞き終えて、無事に注文を終えた。
「はーぅっ」
ウェイトレスが立ち去り、彼女は大きく息を吐いた。
「良くできました」
「えへへ」
頬を指でぽりぽりと掻きながら、日照雨ははにかんだ。
「さて、これからの予定なんじゃが」
彼は唐突に、しかし日照雨が平素の落ち着きを取り戻したと判断して、話を切り出した。
「昨日同様人気のないところへ赴けば、向こうから襲ってくるじゃろう」
日照雨は、彼女なりの真剣な表情で、こくこくと頷きながら話を聞いている。
「そこで、昼食が終わり次第、向こうさんを誘い出そうと思っておる。そいで、わしの求める物があれば、それを手に入れる。なければ、早々に退治して街を去る」
「うちは、なにをすればええんどす?」
「お主はわしのそばで見ておれば良いよ。向こうの狙いは、わしの方じゃろうしの」
「見てるだけ……」
「目の前で起こる出来事を、余すことなく見よ。その経験は、やがてお主が一歩踏み出す時の糧となる」
「うちは、今すぐに旦那さまのお役に立ちたいんどす」
「そばに居るだけで、役には立っておるがの」
「それは……いつもならそうやもしれまへん。うちは、旦那さまのお食事を用意するための、餌どすし」
彼をじっと見つめて、早口に言う。
「せやけど、旦那さま仰ったやありまへんか。今日は旦那さまが狙われるて」
「だとしても、何時もと状況は変わらんじゃろ?」
「うーっ!」
きっ、と珍しく日照雨は反抗的な態度で、彼を睨みつけた。
彼は困ったように肩をすくめる。
「そう急かずとも、いずれ雨子も力を身につける段階に達する。今は多くを見て知ることをじゃな」
「せやけど」
日照雨の言葉を遮るように、彼は彼女の頭に手を乗せた。
「急くな。焦っては、上手く行くことも失敗に終わってしまうぞ」
「……むぅ」
くしゃくしゃと撫でられ、反抗する気を削がれてしまった。
日照雨は行き場のない感情を胸に抱き、それを吐きだすように大きくため息をついた。
それから少しして、ウェイトレスが料理を載せたトレイを持ってやって来た。
「お待たせしました。チーズハンバーグ定食になります」
日照雨がぱぁっと顔を輝かせたのと、彼が手で彼女を指したことから判断して、ウェイトレスは日照雨の前に皿を置く。
「こちら熱くなっておりますので、気をつけてお食べください。では、ごゆっくりどうぞ」
一礼して、立ち去った。
日照雨は、先程まで渦巻いていた感情を全て削ぎ落したような笑顔で、手を合わせた。
「いただきますっ」
「存分に食え」
器用に箸を使って、ハンバーグを食べやすいサイズに分ける。それから一口、ぱくりと食べた。もぐもぐと咀嚼して、飲み込む。
声にならない黄色い悲鳴を上げた。
「美味いか?」
彼の問いに、日照雨は笑顔でこくこくと頷いた。
店内のテーブルが埋まりかけた頃、二人は会計を済ませてファミリーレストランを出た。
店の外は相変わらずの人、人、人。話声はただの音の集まりでしかなく、自動車の走行音はただの雑音でしかない。風に揺れる街路樹の葉の音は、一切耳に入ってはこなかった。
通り過ぎる人も、人波を眺める監視カメラも、誰一人何一つ疑問を覚えることなく、日照雨は一人、そこに居た。
静かに、波が割れる。彼女はその無人の空間の後ろについて、歩き出した。
彼の姿を視認出来ているのは彼女だけ。他の人々は、無意識の内に彼とぶつからないよう避けていた。
揺れる尻尾を眺めながら、日照雨はのんびりと歩く。
初めてのファミリーレストランは満足だったようで、にんまりと笑っていた。
「また来たいか?」
先を歩く彼の言葉に、日照雨は頬を手に当てて視線を空に投げた。
「来たいことは、来たいんどすけど……」
少し悩んで、素直に口にする。
「うちはやっぱり、食べさせてもらうよりも、食べてもらうことの方が好きかもしれまへん」
「ほう」
「せやから旦那さま?」
彼の切れ長紅い瞳が、ちらりと彼女を窺い見た。
「今晩はうち、目一杯手間かけてご飯作るさかい、たんまり食べておくれやす」
「楽しみにしておるよ」
「はいっ」
彼の返答に、日照雨は小さくガッツポーズをした。
それからしばらく、二人は歩いていた。
絶え間のなかった人波に、ぽつりぽつりと穴が空いていく。人が、車が、音が、次第に少なく小さくなってきた。
風が吹く。
葉のざわめきが、耳をくすぐる。
辺りに、人の姿はない。
立ち並んでいたビル群は途絶え、かたわらの道路は、時折自動車が走り抜ける程度で。
黄金色の毛並みを持った九尾の妖怪狐は、ゆったりとその歩みを止めた。日照雨もそれに倣う。
「日照雨、あまりわしから離れんようにな」
「……はい」
その直後だった。
辺りに漂う空気が一変する。
忽然と、突然と。一定の距離を保つようにして、黒い影が現れた。地に四本の脚を着いた獣や浮浪者のような人間から、爬虫類や鳥類まで。
それらは一様に二人を取り囲み、ジッとこちらを睨んでいた。
その包囲網の更に向こう側に、一人の青年が立っていた。その周りを取り巻くように、黒い影が控えている。
「いやァ、一筋縄にはいかないッスね」
ボサボサとした茶髪に、よれよれの服。ジャラジャラとしたアクセサリーが、体を動かすたびに耳障りな音を立てる。
「ただね? もう見切っちゃったんスよね、アンタの手の内。ヒヒッ、オレってばやっぱツエーわ。アンタ、距離を取ってれば手出しできないんショ?」
身ぶり手ぶりを交えながら自信満々に語るその声は濁っていて、聞く者に不快感を抱かせる。
「いやね? ここら一帯ね? オレが締めちゃってるわけなのよ。で、アンタらはのこのことやってきたッツーわけ。わかるかなーこの意味。ヒヒッ」
しかし彼はその青年の言葉を雑音のようにしか捉えておらず、その興味は青年の右手に握られている物に注がれていた。
「ちょっと脅かしてやろうと思ってちょっかい出したらさ? 皆殺しって感じで? マジビビったわマジで。ま、アイツらはオレと違ってヨエーから、いくらしんでもかまねーんだけどさ」
何がおかしいのか、ゲラゲラと腹を抱えて笑いだす。
「ヒヒヒッ。でもさーでもさー? オレってさー、ここ一帯締めてるわけじゃん? オレのシマなわけじゃん? だからさ」
見下すように、ニィッと口の端を上げて笑った。
「死ねよ」
青年の右手に握られていたのは、漆黒の回転式拳銃だった。
空の弾倉を回転させて、止まるのを待たずに銃に戻す。うじゃうじゃとしていた黒い影が少し、霞むように消えた。
撃鉄を指で引き起こし、銃口を、九尾の妖怪狐に向けた。躊躇いなく、引き金を引く。低い破裂音がした。
今まで、青年のシマを荒らした妖怪をすべからず葬り去ってきたその銃弾は、しかして、彼の目前で急激にその勢いを緩め、完全に停止した。
地に落ちることなく、銃弾となってしまった妖怪だったものは、そのまま空気に溶けるように消滅した。
彼の紅い視線は、ずっと、拳銃に注がれていた。彼は細い目を更に細めて、カカッと笑う。
「当たりのようじゃの」
「旦那さまが求められとったものどす?」
「恐らくの。いやしかし、拳銃とはまた珍しい。ここ百年程の物かのう」
「ほへぇ」
日照雨には、青年の握りしめるそれが何なのか、どうして珍しいのか、全く理解できない。
しかし、彼の喜ぶ様子を見て、自身も嬉しくなって顔を綻ばせた。
「ッテメ!」
予想外の出来事に、恐怖や不安ではなく、青年は怒りを露わにした。再び銃を撃つ準備をして、引き金を引く。
渇いた銃声が、パンパンと二回続いた。
「つかぬことを聞くが、小童」
身動ぎ一つすることなく、彼は銃弾を無力化する。
「その拳銃は、どう言った経緯で入手した物なんじゃ?」
「は? テメなにタメきいてんだコラ。オレの弾に当たってさっさとくたばれよクソ!」
再び、銃声が響いた。何発も、何発も、何発も。
「ふむぅ。わしの見る限り、もっと複雑な術式が組み込まれておると思うのじゃが。その程度でしか使えぬのなら、何を聞いても無駄やもしれんな」
空の弾倉を、怒りにまかせて回転させる。黒い影が、渦を巻くようにして吸い込まれていくのが見えた。
妖怪そのものを弾丸として使用しているために、日照雨と彼を取り囲んでいた包囲網は既に、彼が何をするまでもなく壊滅状態だった。
この街では、黒い影の妖怪が無尽蔵に生まれてくる。とは言え、発生するには時間がかかる。つまり、包囲網を再構築することは叶わない。
怒りで我を失ってしまった青年には、逃げるという簡単で簡潔な答えすらも導き出せなかった。もっとも、逃げ切れるようなものではないが。
撃鉄を起こす。銃口を、彼に向けた。
引き金に、指をかける。
「死ねえええええぇぇぇぇえっっっ!!!!」
青年は悲鳴にも似た、叫び声を上げた。
初めて耳にした、銃声という音。
日照雨はその音を何度も聞く内に、その音に対して恐怖を覚えた。彼のそばにいるから、彼に守られているから、その音は自分にとって脅威にはならない。
しかしもし、彼にすら防ぐことのできない力が彼を襲ったならば、自分は何ができるのだろうか。
ただただ彼が傷つく様を眺めるだけなのだろうか。
彼が敗れた姿を想像してしまい、日照雨はきゅっと自身の胸を服の上から掴んだ。怖い。
いずれの時かに、彼の役に立てる力を身に付けることになるのかもしれない。しかし、その前にもし、全てが終わってしまう時が来たら?
彼女は自身の無力さを恨むのと同時に、早くその時が来ることを心の奥底から願った。
日照雨は体の内に、紅い、力の奔流を感じた。
「旦那さま……」
振り返った彼は、興味深そうに紅い瞳を輝かせた。
「時が来たか。日照雨、お主わしの役に立ちたいと言っておったな?」
日照雨は、こくりと力強く頷く。
「ならば、祝いにこれをやろう。それで、あれを倒してみい」
日照雨の掌中に、漆黒の回転式拳銃が現れた。
「あれが持っているのを模造してみた。じっくりと見たわけでなし、一発しか撃てんじゃろうが、それで十分よな」
彼は、日照雨に拳銃の扱い方を簡単に教える。彼女は、ふむふむとその話に聞き入った。
その話の腰を折るように、銃声が鳴り響いた。
掌サイズの拳銃から発射されたとは思えないほどの巨大な弾が、彼目がけて飛んでくる。
しかし、数十体の妖怪を込めた弾であっても、彼の黄金色の毛に煤一つ付けることすら叶わなかった。
「わかったか?」
日照雨は頷いた。
言われたことを思い出しながら、空の弾倉を回転させる。目を閉じ念じて、銃に戻した。両手で拳銃を握り締め、撃鉄をしっかりと起こし、引き金に指をかける。
銃口は、言葉にならない怒りを撒き散らしながら迫ってくる青年に向ける。自身の無力さを認めない醜い妖怪に、狙いを定める。
渇いた音が響いた。
紅い輝きを帯びた銃弾が、青年の額を撃ち抜く。バタリと、その場に崩れ落ちた。ぽっかりと空いた額の穴から、煙が勢いよく噴き出した。
「あ……」
日照雨の口からこぼれ落ちた声に反応して、彼は彼女を見た。。
彼女が握っていた拳銃は、淡い光を放つと、空気に飲み込まれるようにして消えてしまう。
この世の終わりのような表情を浮かべる彼女に、彼はケタケタと笑った。
「だから言うたろう、粗悪な模造品じゃから一発しか撃てんと。気にせんで良いよ、本物はそこにある」
彼が鼻で指した方を、日照雨は見た。
立ち上っていた黒い煙は既に霧散していて、青年の姿は跡形もなくなってしまっていた。ただ、漆黒の回転式銃が地面の上に転がっている。
日照雨は駆け出し、銃を拾う。後を追ってきた彼に、おずおずとそれを差し出した。
「言いたいことはわかる、わかるが……。まあ良いか」
彼は嘆息して、それを受け取る。日照雨は、安堵の息を吐いた。
「さて、街を出るか」
「はい、旦那さま」
彼はまるで何もなかったかのように、平然と、平穏に、歩き出す。日照雨は、その後ろをゆったりとついていく。
「あの、ここを出たらどこに向かわれるんどす?」
彼女の問いに、彼は即答した。
「山の方に向かうかの」
「やま?」
「お主の目が紅く染まったら、行こうと思っていた」
彼の言ったことが理解できず、日照雨は首を傾げた。
「自分の顔を鏡で見てみい」
いつの間にか、彼女は手鏡を持っていた。その鏡面に、自身の顔を映す。
眉の高さで切り揃えた前髪に、大きな瞳。ついさっきまでは黒かったその瞳は、紅色に染まっていた。
「旦那さまっ! うちの、うちの目の色が変わっとります!」
彼女の叫び声は、しかし。
「そうじゃの、紅くなっとるの」
彼に軽くあしらわれてしまった。
太陽は高く、空は青く。白い雲は、穏やかに流れて行く。
風が吹き、日照雨の長い髪が揺れた。