第十四話 平和な日常
ぴちゃん、ぴちゃんと薄暗い天井から水滴が落ちてくる。
岩肌を微かに濡らし、幾年もかけて隆起させるその水音は、鍾乳洞の中をどこまでも広がっていく。
昨日まで散らばっていた瓦礫は既に跡形もなく、美女が三人、屋敷跡で何やら話し込んでいる。
そこから少し離れた場所に、大きなレジャーシートが敷かれていた。
そこに、可憐な少女の華奢な肩に腕を回し、艶やかな黒髪の上に顎を乗せて、自身の胸に抱き寄せて座っている女性がいた。
「すっかり綺麗になりましたな」
小鳥のさえずりのような声。
「んまね。建て直し易いように、一つ一つ取り除いたから時間はかかったけどさ」
この空間の創造主に仕える女性、川女郎はのんびりとした口調でそう言う。
胸に抱いた日照雨の綺麗な髪を弄りながら、深く息を吐いた。
「力仕事はあたしの担当だから疲れたよもう」
「お疲れさまどす、遊女はん」
「ありがとぉ、日照雨ちゃんに言われると癒されるわ」
「えへへ」
日照雨はくすぐったそうに身をよじらせた。
「せやけど、建てるお手伝いはせえへんのどすか?」
「ん、そっちはあたしの専門外だからね。女郎ちゃんや娼妓ちゃんのが得意」
「黄土さまはずっと働いとられるみたいやけど」
「姉様は肉体労働も精神労働もどっちもできる方だからね」
ふぅん、とわかったのだかわかっていないのだか、曖昧な相槌を打つ。
日照雨は紅色をした瞳で、じっと話しこむ女性たちを、その中心である黄土太夫を見つめた。
しかしその視線は数秒も持たず、傍らに伏せている狐へと移る。
薄暗い空間の中でさえ、ぼんやりと輝いて見える黄金色の毛並み。九本もある凛々しい尻尾はゆるりと揺れ、尖った耳は時折微かに動いている。
日照雨は頬を微かに染めて、はぅ、と息を吐いた。
「方様の手にかかれば、一瞬で元通りになるんだろうけどね」
びくっ、と日照雨の方が震える。
「にゃ、なんの話どすか?」
「屋敷の建て直しの話。あたしらは瓦礫を除けて、それから術式を構築してから建てるつもりだけどさ」
「旦那さまは違うやり方なんどすか?」
「んー、多分ね。あたしらが一生懸命やってることも、方様は鼻息一つでやっちゃうし」
「せやったら、旦那さまが建て直されたらええんやないどすか?」
川女郎はへっへっへと奇妙な笑い声を出して、体重をグイッと日照雨にかけた。
「姉様は、方様に頼るん嫌がるからね」
「どなしてどすか」
「さあどなしてやろね」
「火影さまはわかりますか?」
「どうしてで御座いましょうね」
今度は川女郎の体がビクッと震えた。
「火影ちゃん居たの」
川女郎と日照雨の影が、ぐにゃりと歪む。合わさって一人の影になると、器用に膝をついた。
「先刻からずっと」
「まじか。姉様には色々と内緒でお願いね」
「心得て御座いますよ」
川女郎は苦笑いを浮かべたまま、日照雨を覗き込む。
「日照雨ちゃんはいつから気づいてたの?」
「さっきからずっとおりましたよな?」
「はい」
「……この子怖いわー」
日照雨の頬をむにっと掴む。餅のように柔らかく、ふにふにとしている。
「ふぇ、ほはへはまはははひはむは?」
火影はクスクスと笑いながら答える。
「存じてはおりますが、言葉にするのは難しく御座いますね。日照雨様もいずれ、お分かりになるとは思いますが」
「ほーはんほひゅは」
突然、川女郎が噴き出した。
「な、なんでそのまま、そのままのままで喋ろうと、して……くく」
「あほみめはま?」
「誰がアホかいっ」
むにゅぅっと両側から頬を押す。
日照雨は訳がわからず、しかし抵抗するでもなく、されるがままにしていた。
蜘蛛の糸で綴られた図面を、三人は覗き込んでいた。
「大凡は前の通りやね」
「奇をてらう必要も無いやろ」
「確かに姉様の言う通りですね。不便もありませんでしたし」
「それもそうやね。姉様、すぐに取りかかります?」
黄土太夫は頷く。指先を動かすと、蜘蛛の糸ははらりと解けた。
「配置につき、二人とも」
山女郎と毛娼妓は短く返事をすると、小走りに離れていった。
蜘蛛の糸が、するすると地面を這って追いかけていく。
黄土太夫も自身の配置につくべく、振り返った。
地面に伏せている九尾の妖怪狐を見下ろし、フンッと鼻を鳴らす。
「邪魔やから去ね、化け狐」
「そう邪険に扱うでない」
「わらわは思うたままを言うただけや」
彼はのっそりと起き上がると、黄土太夫の先を歩く。
黄土太夫は彼の後ろを歩くというのが気に入らないらしく、不満そうにもう一度鼻を鳴らした。
屋敷が建っていた場所を包み込むように、蜘蛛の糸は綺麗な縁を描いている。
その上の三点に、三人は立っていた。
黄土太夫は、傍らで伏せている彼を見やり、顔をしかめる。とは言え、紅色の瞳は喜色に満ちているようにも見えた。
深呼吸。
紫の光が黄土太夫の体を包み込む。
パイプの中を流れる水のように、蜘蛛の糸に沿って光は広がっていく。
術式の構築。
円を描いている蜘蛛の糸から、光がこぼれ始めた。
まるでそこに何か窪みがあるかのように、何かに引き寄せられるように、光は円の中心へと向かって伸びていく。
その光景は、大きな蜘蛛の巣が、外側から地面の上に描かれているようだった。
「五百八十三行目、間違っておるぞ」
目を閉じたままの姿勢で、彼がぼそっと呟いた。
黄土太夫は唇を噛んで悔しそうにしながらも、言われた通りの箇所を点検、修正する。
複雑怪奇に絡みあった光の糸が一本切れ、別の糸と結ばれた。
鍾乳洞全体が淡い紫色の光に満たされた。
もう一度、深呼吸。
黄土太夫は静かに、ゆっくりと、構築した術式に妖力を流し込んでいく。
紫の糸が強く輝き、太くなる。
術式全体まで妖力が伝わり、そして、起動した。
一瞬で、蜘蛛の巣は千切れ飛んだ。紫色の光が空間に舞い、キラキラと輝く。
ゆっくりと、瞬きをしてみる。
先程までは無かったはずの屋敷の土台が、そこにあった。
もう一度、瞬きをする。
屋敷は骨組みが終わり、大凡の間取りが把握できる。
それは、屋敷を建築する様子を録画した映像を、早送りで再生しているようだった。
やがて静かに、光は収まった。
数日前と何ら変わりない、瓦屋根の古びた屋敷がそこに悠然と佇んでいた。
「見事なものじゃの、一度の術で完成させたか。前は、一工程ずつ術式を組んでおった気がしたが」
「何百年前の話をしとるんや。わらわかて、いつまでも童やない」
「そうじゃの」
彼はククッと喉を鳴らして笑う。
黄土太夫は不機嫌そうに腕を組み、そっぽを向いた。
「さて、完成をしたならば皆で茶でも飲まんか」
「……そうやね」
駆け寄ってきた山女郎と毛娼妓に向かって、黄土太夫はどこまでも不遜に命令を発する。
「女郎、娼妓。茶会の準備」
二人は顔を見合わせ、それから優雅に頷いた。
妖怪喰いの妖怪二匹に襲われた跡は、これで全て消え去った。
黄土太夫と共に、日照雨たちの所まで歩きながら、彼はおもむろに呟いた。
「そろそろ頃合いかもしれんな」
それが聞こえたのか聞こえていないのか、黄土太夫は小さく鼻を鳴らした。
それから幾日経ったのだろうか。
日本のどこか、天まで届くとも知れぬ高層ビルの立ち並ぶ都会の一角に、日照雨の姿があった。
前髪は眉の高さで切り揃えられていて、艶やかな黒髪は腰の辺りまでおよんでいる。
肩の露出したカットソーに、丈の短いスカート。黒タイツにパンプス。
どこからどう見ても日本人である彼女は、しかして、燃えるような紅色の瞳を持っていた。
多くの人の行き交う歩道であるのに、彼女の前方にはぽっかりと誰もいない空間がある。
その空間から、彼女にしか聞こえない声がする。
「どこか行きたいところはあるか?」
日照雨はんーと首を傾げてから、はっと何かを思い出した。
「買いたい本があるんどすけど」
「本か。今の本棚はまだ読み尽しておらんと思ったが」
「ちと旦那さまに内緒で欲しい本があるんどす」
「ふむ」
しばらくの沈黙。
「良いじゃろ。もう少し行ったところに本屋があるようだから、そこに寄るとするか」
「はい、旦那さま」
黄土太夫の屋敷を後にしてから、二人は再びどこともなく旅をして過ごしていた。
相変わらず日照雨は妖怪を引き寄せ、彼が鼻歌混じりにそれらを喰らうという生活である。
以前と異なるところと言えば、日照雨が自分の力で身を守れるようになったということだろうか。
「金は幾らあれば足りそうかの」
本屋の前で、二人は歩みを止めた。
「んと、いくらあれば足りるんやろか」
「わしに訊かれても困るが」
彼は日照雨に手を出すように促した。日照雨が従うと、いつの間にか、掌には一万円札が握られていた。
「それだけあれば、大量に買わん限りは足りるじゃろうて」
「一番大きなお金どしたよな」
「そうじゃな。で、一人で買ってこれるか?」
日照雨は目を伏せる。何かを振り払うように小さく首を振って、頷いた。
「では待っておるよ」
「はい、旦那さま」
彼に小さく手を振って、日照雨は書店へと足を踏み入れた。
前に来た店よりも一回り大きな店内に圧倒されつつも、目的の本が置いてある場所を探す。
平積みにされている漫画、流行の芸能人が書いたエッセー。ドラマ化された感動超大作の小説。
それらは全て、彼女にとっては何の価値もない。脇目も振らず、「趣味・実用」と書かれた本棚へと辿り着いた。
麻雀、将棋、囲碁。ではない。
料理……は今必要な本じゃないし。手芸、手芸は……。
口を開けたまま本棚を見上げて、これじゃない、これじゃないと物色する。
「あっ……」
微かに声がこぼれた。
ぬいぐるみの作り方。細い背表紙に小さな文字でそう記された本。
趣味実用の本棚の、上から二段目、右から五番目にあるその本を、日照雨は手に……取れなかった。
手を伸ばしても、背伸びをしても届かない。
口をへの字に曲げて、むすっとあからさまに不機嫌そうな表情になる。
「どないしよう」
きょろきょろと周囲を見回しても、足場になるような物はない。
書店の外まで戻れば彼がいる。彼に頼めば、簡単に目的の本は掌に収まるだろう。
しかし、それでは意味がない。
日照雨が自身の力で、自身の妖術でぬいぐるみを完成させる。その目的のために、あの本はどうしても必要なのだ。
「妖術……」
口の中で呟いて、はっと気がつく。そうか、自分で……。
しかし、回りの本を傷つけずに目的の本だけ抜き取るという芸当をこなす自信はない。
やはり打つ手なしなのだろうか。
「どうかした?」
よほど日照雨が神妙な表情をしていたのだろう。
偶然通りかかった青年客が日照雨に声をかけてきた。
虚を突かれて、ひぅっと悲鳴じみた声を上げてしまう。青年客は慌てて一歩下った。
「あ、いや、その……迷子かな、って思って」
迷子。その単語を反芻して、日照雨は首を横に振った。
「ああそうなんだ。だったらいいんだ、ごめんね」
ヘラヘラと愛想笑いを浮かべて、青年客は立ち去ろうとする。
日照雨はぎゅっ、と彼の服の裾を掴んだ。
「え、と……?」
何と言えばいいのか。頭の中で言葉がぐるぐると回っていく。
濡れた紅色の瞳で、青年客をじっと上目遣いに見つめて、口を開く。
「ほ、本、取って……もらいたい、どす」
途切れ途切れな言葉をゆっくりと理解して、青年客は穏やかな笑顔を浮かべた。
「ああ本ね。そうか、なるほど。どの本?」
んっ、と棚を指さす。
「ぬいぐるみの作り方、で良いのかな」
「そうどす」
「ど……、あ、いやなんでもない。はいどうぞ」
青年客はひょいと本を棚から抜き取り、日照雨に差し出す。
それを両手で受け取り、嬉しそうに破顔した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
日照雨はもう一度深く頭を下げて、とてとてとレジへと向かった。
本を差し出して、一万円を差し出して、お釣りを受け取って、レシートを受け取って、本を手に持つ。
ありがとうございました。店員の言葉に深々とおじきを返して、日照雨は店の外へと向かった。
自動ドアが開く。
「旦那さま、買うてきました」
店の前で待っていた九尾の妖怪狐は静かに頷くと、ゆっくりと歩き出した。
「お釣りはどないしたらええどすか?」
「右の掌に載せて」
呪文のように、静かに彼は言葉を発する。
「強く握り締めて」
日照雨は言われた通りに釣銭を握りしめた。
「はい、おしまいと。次はどこへ行くかの」
ぱっと掌を開いてみる。今の今まであったはずの釣銭はなく、代わりに小さな飴玉があった。
日照雨は前を歩く彼を見つめ、飴玉を見つめて、口に含んだ。
甘い、甘い味が口の中に広がる。目を細めて、へにょっと日照雨は笑った。
「もう昼時か」
彼がポツリと呟いた。視線を後ろに送りつつ、尋ねる。
「雨子や、今日の昼は外食にするか?」
「外食どすか? んー、せやったら旦那さま、うち行きたいところがあるんどすけど」
彼はそうか、と静かに呟くと、道路向かいに渡るための横断歩道を歩き始めた。
日照雨は、その後ろを慌ててついて行く。
「えっとどすな、ふぁみりーれすとらんに行きたいんどす」
「そうじゃと思うたよ」
日照雨は買ったばかりの本を胸に抱いて、えへへ、と笑った。
横断歩道を渡った先には、小奇麗なファミリーレストランが店を開いていた。