第十三話 妖怪との戦い
爆音が轟いた。
砂煙が舞い上がり、突風が吹き荒れる。
右腕を突き出した姿勢のまま、青年はニィッと口の端を上げた。
「妖力持ちは初めて見たが、他愛ありませんね。所詮、人間はこの程度だ」
「ンァ、もうやっちまったのか。俺様の取り分はどうなってやがる」
「心配はいらない。山分けに決まっているだろう」
静かに、腕を下ろす。
「食糧を奪ってしまいすまなかったね」
青年は嘲笑を浮かべながら、九尾の妖怪狐を見やった。
彼は憐れむように、青年を見つめ返す。
「なんだ、その顔は」
「己の小ささを進んで顕示するとは、愚かよの」
薄らと、人の影が砂嵐の中に現れる。
砂煙は渦を巻き、波立ち、やがて晴れた。
「ふゅぅ」
体の表面を黄金色の光に覆われた日照雨が、数回瞬きをして、息を吐いた。
青年の表情が険しくなる。
「雨子や、使ってみた感想はどうじゃ?」
胸に提げた指輪をぎゅっと握りしめたまま、日照雨は笑う。
「あ、はい。ようわかりまへんけど、爆発が運良く避けてくれたみたいどすな」
砂煙で服が汚れ、多少擦り傷を負っている。爆心地にいて、その程度の軽傷で済む。
彼はふむ、と頷いた。
「やはり脆い人間である方が、効力は大きいか」
平々凡々と話を交わす夫と末嫁の姿に、黄土太夫はこめかみをピクピクと震わせた。
痺れを切らし、三人娘をキッと睨みつける。
「おーう、女郎ちゃんに娼妓ちゃん。姉様ご機嫌斜めみたいよ」
小声で二人に耳打ちをする。
「んま、仕方ないやね。真面目にお仕事しまひょ」
「わかりました。頑張ってくださいね、遊女さん」
「結局あたしのお役目だよね、うんわかってた」
川女郎はフラリと、日照雨の背後に回ると、彼女の体を胸に抱いた。
「遊女はん?」
「日照雨ちゃんは、ちょいと離れていようか」
彼に止める様子がないことを確認して、日照雨は川女郎に体を委ねた。
「それじゃ、後はよろしくー」
剥き出しの肌が、豪華な着物が、ドロリとゲル状に溶ける。
日照雨の細い体が、川女郎のゲルに覆われていく。
完全に出遅れた青年が、慌てて拳銃を抜いた。
発砲音がするが、妖力の弾丸は黒い壁に阻まれてしまう。
ゲルが大きな人のシルエットと化した。
青年は、指輪のはまった右腕を突き出しす。
液体と化した川女郎が地面に溶け、何もない空間で爆発が起こった。
「ナァにやってんだ、対処する時間はあっただろ」
「うるさい。状況を理解するのに手間取ったんだよ。爆発を防いだ指輪は、なんの妖術が込められているんだ」
「フンッ、くだらん。オレサマは……」
丸太の様に太い両腕を合わせる。妖力を込め、妖術を起動させる。
右腕には炎の力を、左腕には雷の力を。
「やっぱりあのクソ狐を喰わせてもらうゼ!」
地面を蹴る。
彼との間合いを一気に詰めた。触れた物を焼き尽くす妖術を纏った剛腕。
その一撃は、彼の周囲に張られた見えない壁を空しく小突いただけに終わった。
しかし、何故か壁はひび割れ砕け散る。
化物は愉快そうに鼻を鳴らし、反対の腕を振りかぶった。
巨大な蜘蛛の脚が、頭上から振りおろされる。化物は咄嗟に地面を蹴り、背後に跳んで避けた。
「あっぶねぇアブネェ。だが、オレサマの前じゃあテメェの防御壁も無意味だ」
両腕を組む。黒く濁った光が、渦を巻いて腕の先へと集まる。
化物は目を細め、両腕を、黄土太夫へと向けた。
「蜘蛛女が邪魔だな」
背中から四本の巨大な脚を生やした、妖艶な女性。
彼女は眉をひそめ、両腕を組み、ただ立っている。
「あんた、これ以上わらわの住処を汚すと許さんよ」
「アァ? 何を許さん、だと? オレサマに喰われる奴が、訳のわからんことを。誰に口を聞いているつもりだ」
紅色の瞳が、化物を射抜く。
「そんなこともわからんのやね、低能。そこで戯れておる化け狐に決まっておるやろ」
彼は口の端を上げて笑う。
「良いではないか、戯れも大事じゃよ」
「あんたは戯れが過ぎる言うとるやろ」
化物は舌打ちをして、両腕から破壊の黒い光を放った。
屋敷を一瞬にして崩壊させた妖術を一点に凝縮したもの。範囲は狭いが、桁違いの破壊力を秘めている。
「得るべき情報もなし、力はあれど、練度が低く過ぎる。これが戯れでなくてどうと言うんじゃ」
彼が、光を纏った。
黄金色の毛並みが、更に神々しく輝く。
紅色の瞳が、笑った。
音も無く、風も無く、時間が少しの間ごっそりと抜け落ちたように、過程が無く、結果だけが存在する。
「これで満足か、黄土」
目をキラキラと輝かせながら、頬を嬉しそうに弛緩させながら、しかし尊大な態度で、黄土太夫は鼻を鳴らす。
「満足な訳なかろう、このたわけが」
化物の放った黒い光は、彼の纏った黄金色の光に喰われてしまった。
化物のその巨体は、右腕がゴッソリと欠け落ち、どす黒い体液が噴き出している。
「ヒヒッ、いいねぇ、いいねえ!」
化物が愉快そうに笑う。痛みなどないかのように。
噴き出す体液が急速に収まり、体が、肉がブクブクと膨れ上がる。ゴツゴツとした太い腕が、一瞬にして再生された。
「こうでなくっちゃ喰いごたえが、ハ……」
今度は左腕が吹き飛んだ。
過程の削ぎ落された、結果のみの攻撃。
高速の再生能力を誇る化物の体が、壊れ、創られ、破壊され、再生され、砕け散る。
「その再生力はリストにあった……そう、無為とかいう妖怪の力じゃったか。種族はなんだったかの」
「その程度の問いにわらわを使うでない」
「むぅ、年寄りを無下に扱うと罰が当たるぞ」
黄土太夫は彼の尾を力一杯蹴りつける。彼は尾を揺らしながら、カカッと笑った。
破壊と再生は、延々と続いている。
彼の纏う黄金色の光は輝きを翳らせることはなく、収まる様子も一向にない。
一方で、攻撃を受けながら必死に妖術を練り上げる化物の黒く濁った光は、薄く、淡くなっていく。
幾多の妖怪を喰らい、その妖力を奪い、強大な力を有するに至った妖怪喰いの化物。
矮小な妖怪どもを一瞬にして葬り去り、自身の糧とする。
圧倒的な力、全てを喰らい尽す力。それが、化物じみた巨大な体の中には存在している。
「わしの驕りはまだまだ可愛いものだとわかったじゃろ?」
黄土太夫は何か言いたそうに口を開き、ゆっくりとため息をついた。
「グばらェウッ!」
化物が何かを発った。
それは、恐らく渾身の攻撃だったのだろう。
彼は笑い、目を閉じた。破壊力が再生力を上回り、静かに、静かに、化物は消滅した。
「さて……」
彼は口から何かを吐き出す。
青白い炎が煌めき、空気に溶けて消えた。
日照雨と川女郎が姿を消したすぐ後まで、時間が多少遡る。
相対する敵の親玉へと襲いかかる相棒を横目に、青年は山女郎と毛娼妓に腕をそれぞれ向けていた。
「お仲間の手助け、しなくていいんですか?」
清純で素朴な毛娼妓の笑顔を無視して、青年は右手中指の指輪へと妖力を込める。
火種も爆薬も必要としない、自在な地点に爆発を起こす妖術。
濁った光が凝縮し、毛娼妓の体が爆発した。しかし、手応えがない。
青年が慌ててピアスの妖術を起動させると、山女郎と毛娼妓のいたはずの地点には、誰もいなかった。
左手薬指の指輪の妖術を起動する。
激しい風が噴き出し、迫り来ていた黒く細い何かが千切れ飛ぶ。
「……髪の毛?」
「女性の髪を無造作に切るだなんて、貴方、嫌われますよ?」
声のした方に銃口を向け、引き金を引く。やはり、手応えはない。
左手中指の指輪を起動させる。青年を中心に波紋が起こり、広がっていく。
「そこか」
右腕をあらぬ方向へと向けて、爆発を起こした。
「嫌な戦い方する人やね」
髪の乱れを気にしながら、山女郎がため息をつく。
露出した肩が、少し煤けていた。
「その言葉をそのまま返させてもらうよ」
「そらどうも」
青年は思案する。
撹乱してくるのが、対峙している一人。
もう一人が攻撃を仕掛けてきているのだろう。
ただ、圧倒的に火力が足りない。
襲い来る黒く細い物を吹き飛ばし、彼は舌を打った。
これは、倒されないための戦い方だ。
長期戦に持ち込めば、こちらが圧倒的に不利だろう。
青年の持つ道具は数多あれど、相性や条件というものがある。
今使えるのは、拳銃と爆発と風と幻術解除と探索。それと、まだ使っていないのが二つある。
「とは言え」
この妖怪どもの力を欲するのは、相方の化物だろう。
自分が欲しいのは、あの人間の少女だけ。
「相手をする時間が惜しいか」
毛娼妓の攻撃をあしらい、山女郎の妨害を防ぎ、青年は首に提げたペンダントに妖力を流し込む。
使っていない内の一つを、起動した。
「むっ」
山女郎が手を挙げる。
合図を受けて、毛娼妓が彼女のすぐ傍に駆け寄った。
「何か使われたみたいやね。分身やろか」
仁王立ちしたまま固まっている青年を見、それから山女郎を見て、毛娼妓は尋ねる。
「攻撃しますか?」
「ん、この手の処理は姉様か方様に任せまひょ。変な動きをせえへんか、見張るくらいやね」
「ですか。その様子だと、追いかけないんですね」
山女郎は頬にかかった髪を耳にかけながら笑う。
「日照雨には遊女と火影がついとるんやし、裏方専門のうちらが動いても無意味やよ」
「女郎さんがそう言うなら、私は従いますけど」
「末妹の言うことを聞くやなんて、姉らしゅうもない」
「年齢は関係ありませんよ、たかだか十年程度の違いですし」
山女郎は薄く笑いながら、帯に差していた煙管を手に取り、咥えた。
そして、眉をひそめる。
「……火種がないわ」
川女郎の胸の膨らみを後頭部に感じながら、日照雨は尋ねる。
「結界の外に逃げた方が安全やないんどすか?」
「んー、そりゃそうなんだけどね。ここの外って観光地だからさ、余計な被害が出ちゃうわけなのよ」
「難儀どすな」
「そうどすね」
広大な結界の端。大きな岩の陰に、二人は身を隠していた。
数分の休憩を挟み、隠れる場所を点々と変える。
「だけど、日照雨ちゃん落ち着いてるね。怖くない?」
「遊女はんが一緒どすから」
川女郎を振り返り、へにょっ、と日照雨は笑う。
「いやん可愛い。あたしもこんなお嫁さん欲しいなー」
「女性やのに?」
「性別なんて細かい細かい」
ペシペシと日照雨の頭を叩く。こそばゆそうに、日照雨は肩をすぼめた。
「遊女様」
凛々しい声と共に、川女郎の影が揺らぐ。
「ん、偵察御苦労。今はどんな状況?」
「殿が戯れておりますが、巨体の方は始末がつきます。しかし、厄介なのは片割れに御座いまして」
「あー、だろうなあ。脳筋は扱いやすいけど、ナルシでインテリ気取りはめんどっち」
「なるし? いんてり?」
「日照雨ちゃんは覚えなくていい言葉だよー」
「そうなんどすか」
川女郎は日照雨の頭を撫でながら、自身の影と会話を続ける。
「んで、火影ちゃんはこれからどうする」
「拙者も日照雨様の護衛に回ります」
「らじゃらじゃ」
「えと、お世話になります?」
「はい、日照雨様」
えへへ、と日照雨ははにかんだ。
「っと!」
川女郎は突然日照雨を抱き寄せる。
その直後、爆発が起こった。液状化した川女郎の体が、爆風や飛来物を防ぐ。
爆心地から数メートル離れた地点で水が盛り上がり、人の姿を成す。
日照雨を胸に抱いた姿勢のまま、川女郎はため息をついた。
「女郎ちゃんに娼妓ちゃん、まんまと逃がしちゃったのね」
青年は日照雨に銃口を定め、薄ら笑いを浮かべている。
撃鉄をゆっくりと起こし、引き金を引いた。
地面から漆黒の壁がせせり上がり、銃弾を弾く。
壁が消える。
駆け寄っていた青年の、左手薬指が黒い光を帯びている。
突風が起こり、川女郎だけが吹き飛ばされた。
「またか。また、私の力が防がれる」
黄金色の光を帯びた日照雨を見つめ、青年は訝しげに続ける。
「その指輪は何だ。どんな妖術を組み込めば、そのような絶対防御を作り出せる」
「知りまへん」
強く舌打ちをする。
「人間風情が!」
日照雨に一歩近づこうとして、青年は背後へと跳び退いた。
青年と日照雨との間に、黒い何かが現れた。
「無事に御座いますか、日照雨様」
その黒い何かは、女性のような形をしていた。
長い髪に、和風の服装をしている。背は高く、体つきは妖艶で、振り返った彼女の顔と思しき位置に、紅色の輝きが二つ浮かび上がっていた。
「火影さま……どすか?」
「はい。遊女様の肉体をお借りしております」
青年が拳銃の引き金を引く。
漆黒の壁が現れることはなく、火影はその銃弾を体に受けた。しかし、彼女の体には傷一つつかない。
「火影、参ります」
漆黒の苦無を三本投擲する。
青年は拳銃で撃ち落とそうして、止めた。慌てて横へ跳び、辛うじて全てかわし切る。
「撃ちませんか、残念に御座いますね」
続けて九本投擲するが、風を操る妖術で自身の体を飛ばし、ただの一本さえも命中しない。
「私は勘が良い方なのでね。幻とは違うが、その攻撃には実体がない」
火影は笑うだけで、答えはしない。
両手にそれぞれ四本ずつ苦無を持ち、一斉に投げ放った。
奇妙な軌跡を辿り、苦無は青年を中心に収束をする。
「仕方がない、か」
青年はゆったりとした動作で、胸のポケットから眼鏡を取り出す。
装着し、ブリッジを指で押し上げた。
苦無が空中で消失した。
火影が飛びかかる。青年は軽やかにそれを避けて、お返しに蹴りを喰らわせた。
しかし、青年の脚は火影の体をすり抜けてしまう。
青年は火影を見つめ、再び蹴りを放つ。今度は、彼女の体を宙に浮かせて吹き飛ばした。
流れるような動作で、拳銃を構える。銃弾が放たれ、火影の左肩を貫いた。
「これならやはり、当たるな」
火影の体が霞む。
青年は左手中指の妖術を起動させる。敵の位置を正確に把握し、振り返る。
背後に現れた火影の踵落としを正面から腕で受け止め、そのまま足首を掴んで放り投げた。
空中で体勢を立て直し、火影は苦無を投げ放つ。しかし、眼鏡越しの視線に見つめられ、掻き消える。
「殿よりは精度が低いが、この妖術は……」
火影は苦無を牽制に投げつつ、日照雨の傍まで戻る。
「火影さま、大丈夫どすか?」
「心配は御座いません。ただ、厄介な妖術を操るようです。日照雨様、ご協力いただけませんか?」
日照雨に小声で話しかける。
「協力、どすか? うちにできることやったら何でも」
「貴女様にしか出来ぬ事に御座います。人間である、日照雨様にしか」
火影からの指示を受けて、日照雨はこくりと頷いた。
目をつぶり、両手を胸の前で抱く。
青白い光が彼女の体を包み込み、そしてその光が、紅色へと染まっていく。
「本当に腹が立つ。常に冷静で、常に沈着で、狩りのし甲斐のない連中だな」
「そうに御座いましょうね」
火影の動きが変わった。
前へ前へと攻めていたのに、今は日照雨を守るように動いている。
それでは彼女が何かをしようとしているのが明白である。
しかし、火影の体は、漆黒の影は、青年の視界から日照雨の姿を覆い隠していた。
これでは爆発も拳銃も、彼女を仕留めることができない。
眼鏡の妖術さえも、封じられてしまっている。
「貴方の力は、視覚に依存しているように御座いましたから」
「そうかい。なら、先にお前を喰らえばいい」
青年が、拳銃を構えた。
引き金が引かれるよりも一瞬早く、五本の苦無が空中を駆ける。
青年は銃口を苦無へと向けて、ジッとそれを眼鏡越しに見つめた。引き金を引く。
妖力の銃弾は苦無を破壊し、小さな爆発が連続して起こった。
「……いきます」
その声は、可憐な少女のもの。
紅色の光の奔流が、火影の背後から溢れ出す。
火影に指示されたのは、極単純な攻撃を行う妖術を構築すること。
ただし、込める妖力は溢れ出てしまう程多くという注文が課されている。
影が晴れる。火影の体は影へと戻り、体の支配権を取り戻した川女郎は、自らの体を液状化させて地面の中へと退避した。
日照雨の紅色の瞳が、青年の黒く濁った瞳を見つめる。
攻撃を行うという意志の込められた紅色の炎が、青年目がけて飛翔した。
「何をしていたかと思えば」
青年は嘲笑し、眼鏡越しに炎を見つめる。
妖術を起動した。
視界の及ぶ限り、妖力を帯びた事象が発現するか否かの決定権を自身に置く。
青年が喰らい得た妖怪たちの知識から創り出した、最高峰の妖術である。
炎は、青年の体に触れることなく呆気なく消失する。
妖術に依る炎が発現したという事実は、無かったものとされる。
妖術は消える。
炎は消える。
彼の所まで、炎は届かない。
消える。妖術は、消える。炎は消える。消える消える消える。――消えないッ!
「チッ!」
ネックレスを起動させ、瞬間的に空間を移動した。
後に残された青年の抜け殻が、炎に焼かれ、爆発した。
「なんでこんな時に調子が狂いやがった」
「その妖術の弱点をお主が知らんかったからじゃよ」
低く響く声。
「日照雨、もう一度じゃ」
「は、はい」
遠く、日照雨が再び紅色の光を帯びたのが見えた。
「のう、小童。お主は何故妖怪を喰らう?」
「知識の為に決まっているだろ。より多くの知識を得れば、より強大な妖術を編み出すことができる」
青年は風を起こし、彼の体を吹き飛ばす。
同時に自身の体も吹き飛ばして、日照雨との距離を詰めた。
なり振り構ってはいられない。予定外の事態が積み重なり過ぎてきている。
人間の、妖力持ちの人間を喰らい、ここは一度退く。
「妖怪を喰らうは、自身に宿る純粋な力を磨くためでなければな。与えられた力では、知識では、何も作れはせんよ」
彼は優雅に着地し、静かに息を吐いた。
青年が日照雨に襲いかかる直前、日照雨の妖術は起動した。
「お主が至高と振りまわしておるその妖術はな、人間には通じんのじゃよ。妖怪にとって脅威となる妖術は、自ずとそうなってしまう」
青年の体が焼かれる。
「自身の力で作り上げたのであれば、気がつけたろうに」
そして、爆発した。
「往生際が悪い奴じゃの」
彼は笑いながら、日照雨の元へと歩く。
スラッとした細長い顔を、日照雨の頭に擦り寄せた。
「ひゃぅっ」
「よう頑張ったの、日照雨」
「え、えと……火影さまや、遊女はんらの方が、えと」
「日照雨」
頬を舐められる。くすぐったい。
「ようやった」
日照雨は目を細めて、こくっと頷いた。
「はい、旦那さま」
彼の首に腕を回して、頬を擦り寄せる。鼻から大きく息を吸い込んで、口からゆっくりと吐き出す。
「……せやけど、逃げられてしもうたんやないんどすか」
「心配はいらんよ、後処理は任せてある」
彼は愉快そうに笑った。
その笑顔が、どうしてだか日照雨には、嬉しく感じなかった。
どこか悔しいと言うか、何と言うか……。
「そう、どすか」
ぷぃっとそっぽを向く。
「黄土のような反応じゃな」
彼に笑われる。日照雨は唇を尖らせつつ、彼をぎゅっと抱きしめた。
焦げたスーツに身を包んだ青年は、鍾乳洞の結界から既に遠く離れた所へ逃げてきていた。
逃がした獲物は大きく、汚されたプライドは計り知れない。
しかし、爆弾を生み出して自身は遠くへ瞬間移動するペンダントの妖術は使い勝手が良い。
非常に厄介だった妖怪から逃げおおせたのも、この妖術による所は大きいだろう。
自画自賛をする青年の鼻先に、ポツリ、雨粒が落ちた。
それは一瞬にして豪雨へと打って変わる。なぜか、体の動きが止まる。
何者かの襲撃を受けていると理解した青年は、眼鏡の妖術を起動した。
雨粒に込められた妖怪の力を、無効化する。
「雨はね……雨粒がひとつひとつ集まって……雨になるの」
酷く冷たい、静かな声。
「だからね……無理だと思うよ……その方法で……水仙から逃げるの」
薄い水色を帯びた白髪に、肌にピッチリと張り付いた白のワンピース。
虚ろな紅色の瞳が、妖しく笑っている。
青年は眼鏡の妖術を解き、ペンダントへ妖力を流し込んだ。
黒く濁った光が、ペンダントに注ぎ込まれ――
「お休みなさい……ばいばい」
青年の意識は、そこで途絶えた。
更地になってしまった黄土太夫の結界で、山女郎と毛娼妓はジッと青年の抜け殻を見張っていた。
彼と別れ歩いてきた黄土太夫が、二人に声をかける。
説明を受けて、彼女は頷いた。
「女郎の判断が正しいやろね。恐らくは爆弾かなにかやろうけど、時限式……とは考えにくい」
「衝撃を与えてはいけないということですか?」
「そうやろね」
「火影に壁を作ってもろうて、その中で爆発させるのが安全やろか、姉様」
「そうよな。向こうの戦いが終われば、火影に働いてもらうかね」
ニョキッと爆弾の近くで水が盛り上がり、人間の姿を成す。
現れた川女郎は、息を吐きながら汗を拭う仕草を取った。
「インテリナルシストは逃げたみたいだよー。ふぃー、疲れたあ」
「お疲れ様、遊女さん。けれど、そこは危険ですよ」
「うちもそう思う。遊女、ゆっくりとこっちに……」
二人は彼女の後ろをチラチラと見ながら、爆弾から離れるよう誘導しようと試みる。
「ん?」
その視線から、後ろに何かあることに気がついたのだろう。川女郎は振り返った。
先程まで戦っていた妖怪の姿をした何か。
川女郎は奇妙な悲鳴を上げ、反射的に腕が動いてしまった。
渾身の右ストレート。
ノックアウトを告げるゴングの代わりに、爆発音が鳴り響いた。
その後、川女郎が黄土太夫からお仕置きを受けたのは言うまでもない。
そろそろ物語も終わってしまいますが、
夏休みと言うのに私事で忙しいため、来週はお休みさせてもらいます。
そのため、次回更新は9月10日です。