第十一話 絡新婦の屋敷
何もないだだっ広い部屋。
壁も天井も床も、それら全てが一枚の板で覆われているようで、継ぎ目一つ見えない。
その部屋の中央に、日照雨はぺたんと座っていた。
艶やかな黒髪の毛先は床に着き、前髪は眉の高さで切り揃えている。
肩を出したカットソーに丈の短いスカート。ほっそりとした脚は黒いタイツで覆われていた。
「んーぅ」
彼女は唇を尖らせて、床を見つめている。正確には床に浮かぶ青白い文字を、だが。
日本語ではないその文字を、日照雨は一つ一つ読み解くようになぞっていく。
彼女の頭上近くでは、紅色に燃える狐火が暇を潰すようにゆらりふらりと漂っていた。
「あっ、分かりました」
突然、日照雨が声を上げる。青白い文章の一節を指さした。
「ここと、そこと、ここが違うんどすな」
『正解です。訂正はできますか?』
床に浮かび上がった日本語を見つめて、日照雨は頷く。
「えっとどすな。多分やけど、ここは初期値の設定が違うくて、そっちは条件分岐が間違うてて……」
彼女の言葉に従うように、青白い文字が変わる。間違いを修正し終わって、狐火を見上げた。
『正解です。第五章の記述試験は合格ですね』
「ほんまどすか?」
『はい』
「せやったら、次は実技試験どすな」
『はい。それでは出題します』
この部屋は本来、日照雨の愛しの彼が、妖術を研究するために創り出し使用していた部屋だった。
十年ほど埃を被っていたこの部屋を、今は彼女が妖術の修行をするために使用している。
妖術の基本であり根幹でもある術式。本来は視覚で捉えることの困難なそれを、文字として表記することのできる部屋。
日照雨がここで妖術の修行を行うのは、基本的に早朝と夕方以降。昼間は結界外で過ごしているためである。
そして今も、午後六時を過ぎた頃だった。
「よしっ、これで完成やね」
日照雨は、出題内容に合った術式を構築し終えたようだ。
時間制限はないため、すぐに起動はせずに一文字ずつ確認を行う。
「……あ、ここ違う」
間違いを見つけたら、その個所を適宜訂正する。
数分かけて見直しを終えると、大きく息を吐いた。
「よしっ」
掛け声と共に、術式を起動させる。
ぽふんっ、と気の抜けた音が響く。顔の大きさ程度のぬいぐるみが、ちょこんと床の上に現れた。
しかし、その造形は稚拙だった。形は歪で、縫合も甘く綿がはみ出ている。
辛うじて、それが動物の形をしているようには見えた。
「……なんか思うとったんと違う」
不満そうに呟く。
『ですが、出題の条件は満たしています。合格です』
「んむぅ。ぬいぐるみを作る言うのはできるようになったけど。もっと上手にならんとあきまへんな」
『そうですね。次章にも活用できる内容があったはずです』
「それを勉強して、も一回挑戦どすな?」
『はい』
「わかりました」
日照雨はこくんっと頷く。
その時、狐火から突然、ガガガッとノイズが聞こえてきた。
「旦那さまどすか?」
彼女の問いに、狐火から声が返ってくる。
「うむ。そろそろ頃合いじゃろうと思うてな」
「あ、もうおゆはんの時間どすか? 待ってて下さい、今戻って準備します」
「いや構わんよ。わしが用意した」
「えっ」
日照雨の表情が固まる。
「あ、え、すみまへん」
「戯れにしたことじゃ、気にするでない。しかし、冷めてしまっては困るでの。もう帰ってこれるか?」
「はい、旦那さま。急いで戻ります」
「こけんよう気をつけてな」
「はい」
再びノイズが走り、静かになる。
『では、修行はこれにて終了です』
日照雨は力なく頷く。
「また旦那さまのお手を煩わせてしもうた……」
修行に熱くなりすぎて、夕食の準備を疎かにしてしまうのはこれで何度目だろうか。
深々とため息をつく。しかし、気を持ち直した。
「ご飯が冷めてしまう前に戻らなあきまへんな」
狐火に目配せすると、狐火は空中を滑るように壁の前へと移動した。
日照雨はその後ろをついていく。彼女が壁の前に立つと、壁に亀裂が入り、横にスライドして出入り口となる。
部屋から出ようとして、振り返った。
「ぬいぐるみは置いたままでええやろか」
狐火の言葉が壁に刻まれる。
『問題ありません』
「そうどすか」
日照雨はぬいぐるみに手を振ると、廊下へと出た。
狐火の仄かな明かりに導かれながら、彼の待つ部屋へと急ぐ。
今日の夕食は、白米に肉野菜炒めに味噌汁に漬け物。
日照雨は、ちゃぶ台を挟んで彼と向かい合って座っていた。
「修行は順調に進んでおるか?」
彼の問いに、こくりと頷く。
「はい。ちょっとずつどすけど」
「ゆっくりと進めることが上達への近道じゃよ。急いても得は少ない」
「そういうもんどすか」
「料理だてそうじゃろう」
日照雨はお肉とキャベツとを一緒に口に運んで、もぐもぐと噛む。
ご飯を一口運んで、味わうように何度も何度も咀嚼する。そして、飲み込んだ。
「そうどすな。急いで支度したときとか、焦げてしもうたり、味がいまいちだったり」
「時間のかけ方は大事じゃよ。特に人間は、たかだか数十年しか生きられんのじゃからな」
箸を唇に当てた姿勢で、日照雨は彼をじっと見つめる。
「お寺におったときに、柳木さまが千歳越えてはる言うとったんどすけど」
「あれは……そうだな、それくらいじゃったか」
「旦那さまは、柳木さまよりもお歳なんどすよな?」
「わしの歳が気になるか」
ニッと笑う彼に見つめられ、日照雨は視線を逸らす。
「さ、参考までに」
「どこでそんな言い回しを覚えたんだか。うむ、わしは柳木が植物として生まれる前から生きておるよ」
「妖怪って長生きなんどすな」
「そもそも、寿命の概念がないからの」
「ほへぇ」
日照雨は感嘆の声を出しながら、漬け物をぽりっと食す。ぱっ、とその表情が花開いた。
「あ、前のより美味しく漬けれとる」
「次もまたこれくらい上手く漬けることができれば良いのじゃがな」
「がんばります」
「うむ」
会話が途切れ、咀嚼する音だけがしばらく流れる。
食べながら、日照雨は考え事をしていた。
今日までに出会った彼の嫁は、順番に月華、金柑、水仙、柳木の四人である。
全員で七人いるという話だから、残りは三人。
いや、自分を入れても良いはずだから、残りは二人か。
「旦那さま」
「ん?」
「うちがまだ会うてないお嫁はんって、どないな方なんどすか?」
「明日会いに行く二人のことじゃな?」
「んい? 明日お会いするのは一人じゃなかったんどすか? おうど、さまの結界て聞きましたけど」
「そのことか。火影……は名前だけは何度か出したことがあったな」
「ん、聞き覚えはあります」
「そうか。火影は、黄土の屋敷で生活しておるんじゃよ。言うなれば、金柑と同じじゃな」
「あっ、金柑さまも柳木さまのお寺に住んどられましたもんな」
彼は頷く。
「じゃから、明日は二人に会うことになる」
納得するように、日照雨は何度か頷いた。
「どんな妖怪かというのは、実際に会うのが一番ではあるが」
彼は箸を置いた。見れば、皿は既に空になっている。
「そうじゃな。黄土は、黄土太夫というのが正しい名でな、絡新婦じゃよ」
「じょろう、ぐも?」
「蜘蛛の妖怪じゃな。思慮深く冷静な判断もできるのじゃが、些細なことで機嫌を損ねてしまうところがあるの」
日照雨は彼の話を聞きながら、味噌汁を啜る。
「火影は影女じゃな。堅苦しいところはあるが、忠実で誠実な娘じゃよ」
「どの方もみんな違うんどすな」
「そうじゃな。それぞれが、それぞれ良いところを持っておるよ」
日照雨は、何気なく尋ねる。
「旦那さまにとって、どの方が一番のお嫁はんなんどすか?」
口に出してからはっと気づく。
「あっ、いまの、今の質問はなしにしてください」
慌てて訂正した。
彼は思案するような表情を浮かべて、それからぽつりと。
「日照雨」
名前を呼ばれて心臓がどくん、と高鳴る。
頭に血が上って、顔が真っ赤に染まる。熱い。
「……と言うたらどうする?」
日照雨の手から箸がこぼれ落ちる。食器に当たって、からんっ、と小気味よい音を立てた。
「むーっ」
目尻に涙を浮かべて、唇を尖らせて彼を見つめる。
彼は愉快そうに笑って、ぽんぽんと日照雨の頭を撫でた。
「順序など付けてはならんよ。皆、わしにとって大切な存在じゃからの」
日照雨は嬉しいような悔しいようなもやもやした気持ちで、大きく息を吐いた。
翌日。
鬱蒼と生い茂る森の木陰から、日照雨と九尾の妖怪狐は姿を現した。
「ここから、どれくらい歩くんどすか?」
彼は空を見上げる。
「数時間もかからんじゃろ」
そう答えて、ゆっくりと歩き出した。日照雨はその後ろをついていく。
自動車の車輪跡が残っている獣道。整備はされていないが、歩きにくくはない。
「月華さまのところは氷のお城で、柳木さまのところはお寺どしたよな」
「そうじゃな」
「黄土さまはどないなところなんやろか」
「教えてやっても良いが、見ての楽しみにとっておくか?」
「そっちのがええどすな」
風が吹くと葉が歌い、緑の香りが肺を満たす。遠くで鳥が鳴いている。
日照雨の歩測に合わせながら、静かに言葉を交わしながら、のんびりと歩く。
そこに辿り着いたのは、昼前だった。
普段から彼に連れられて長時間歩いている日照雨は、高低差の少ない道であればこの程度余裕である。
さほど息を乱した様子もなく、結界の入口を興味深そうに眺めている。
「ここが、そうなんどすか?」
「そうじゃな」
鍾乳洞。料金所も設けられており、この洞の名前らしきものが書かれた看板が立っていた。
「うちには観光地にみえるんどすけど」
「古い鍾乳洞じゃからな、人間も目をつける」
駐車場もあり、鍾乳洞へ入るために並んでいる人の姿も見える。
「お金払わな入れまへんよな」
「本来ならばな」
彼は歩き出す。
元より彼の姿は人間に視認されない。
しかし、日照雨は人間である。料金所を通るには現金が必要となる。
「代価を払う必要なはい。わしらは観光をしに来たのではないんじゃからな」
録画中という証の監視カメラの赤い光が消える。周囲の人々が一斉に膝をつき、寝息を立て始めた。
日照雨は彼の後ろをついていく。
「何かされたんどすか?」
「さてな」
料金所を越えて、鍾乳洞の中へと入った。
途端に、背後に人の喧騒が戻った。構わず、二人は歩き続ける。
「ふぁ」
鍾乳洞の中は空気がひんやりとしていた。足音が幾重にも反響して聞こえてくる。
天井からつららのように岩が伸びていて、地面からも同様に生えている。太い柱のようになっている岩もあった。
ぴちゃん、ぴちゃん、と水滴の落ちる音が聞こえてくる。
突然、周りの景色がぐにゃりと歪む。
それでも彼は歩き続け、日照雨もそれに倣った。
「着いたぞ」
彼が足を止める。
「ここが、黄土さまの結界どすか?」
彼は軽く頷いて、建物を見た。
洞窟の中に存在する広い空間。その中央に、瓦屋根の和風な屋敷が建っている。
大きな玄関の前には一人掛けの椅子が置いてあり、そこには脚を組んだ女性が座っていた。
綺麗に結われた髪に、妖艶な体つき。肩口まで露わになるほどに着崩した豪華な着物姿をしていて、煙管を燻らせている。
「あや、方様やないですか。外は相変わらず人間で騒がしいやろ」
胡乱な瞳で、艶めかしく笑う。
「ここは静かじゃな」
「そりゃまあ、姉様のお屋敷やから」
女性の瞳が、彼の尻尾の陰に隠れていた日照雨を捉える。
「あや、その子が噂の御方様なん?」
「うむ。日照雨と言う」
「ひでりあめ日照雨、覚えときまひょ」
煙管から灰を落として火を消す。
「さぁてと」
ゆったりと立ち上がり、幅の広い帯に煙管を差した。
「方様、姉様のところへご案内しますね」
「うむ」
女性を先頭にして、玄関をくぐる。女性と日照雨は履物を脱ぎ、彼はそのまま上がった。
綺麗に掃除されている廊下を、ゆっくりと歩く。
日照雨は彼の隣に移動して、耳元に口を寄せた。
「この方はどなたなんどすか?」
「黄土を慕う三人娘の一人じゃよ。確か、山女郎という妖怪じゃったかな」
「そうなんどすか」
先を行く山女郎が足を止めた。振り返り、恭しく頭を下げる。
「着きましたよ、中で姉様が待っとります」
「わかった。案内御苦労」
山女郎は優美に笑って立ち去った。
彼は日照雨を一瞥して、部屋の中へと踏み入る。日照雨もその後ろに続いた。
紫紺色の絨毯に、華美な装飾のなされたソファーなど、高価な調度品で満たされた部屋。
先程の山女郎とは比べ物にならない程の妖艶さを身に纏った女性が、だらしなくソファーに身を預けて座っていた。
はだけた胸元には蜘蛛の刺青が彫られている。長い煙管を燻らせながら、紅色の瞳が彼を見つめる。
眉をひそめた不機嫌そうな表情にさえも、人を惑わせる美しさを孕んでいた。
「やっと来たんね、化け狐」
「久方ぶりじゃの、黄土」
「ふん。全然姿を見せんと思たら、また女を作ってからに」
妖しく艶めかしい声色に、いじけたような口調。
「わらわのことなど、忘れておったんやろ」
「忘れてなどおるわけないじゃろ。お主は黄土太夫、わしの嫁じゃて」
一瞬、黄土太夫の表情が緩む。しかし直ぐにしかめっ面に戻って、そっぽを向いた。
「口だけなら何とでも言えるわいな」
彼女の言葉を遮るように、もう一つ、丁寧な口調の声が聞こえてくる。
「取り敢えずは席にお掛け下さい。長時間歩き、お疲れに御座いましょう」
姿無き声に、日照雨は体を小さくして彼の尻尾を一本握りしめた。
「嗚呼、申し訳御座いません。怖がらせてしまいましたか」
彼が息を吐く。部屋の中央に、小さな燐火が現れた。
紅く燃えるその炎の影が、女性の姿に変化する。
「初めてお目に掛かります、日照雨様。拙者は火影と申します」
影が器用に頭を下げる。
「あ、ぅ。えと、うちは日照雨言います。火影さま、よろしゅうお願いします」
日照雨も慌てて頭を下げた。
一人、不機嫌そうに黄土太夫が息を吐く。煙管から漂う煙が微かに揺れた。
「火影、屋敷の主人を先置いて自己紹介するんやない」
「申し訳御座いません。では、拙者はこれにて失礼」
影が歪み、元に戻る。彼が再び息を吐くと、燐火は空気に溶けて消えた。
日照雨は言われた通りふかふかのソファーに腰掛けた。彼はその傍らに座る。
「全く何をしに来たんやか。で、そちが化け狐の新しい女やんね?」
日照雨は気押されながら頷く。
黄土太夫は気だるそうに、日照雨の頭からつま先までジッと眺めた。
「わらわは黄土太夫。わらわの名、しかと覚えておくようにの」
「あ、はい、黄土さま」
黄土はあくまで不機嫌そうに、彼へと視線を移した。見つめる。熱い視線で、見つめる。
日照雨はどうして良いかわからず、不安そうに二人の顔を交互に見る。
長い時間、黄土太夫は彼を見つめた。それからゆっくりと、甘い息を吐いた。
「ま、ええやろ。あんたは相変わらず自由なお人やもんな。昼餉はまだやね?」
彼は頷く。
「なら、例の話はその後にやね」
「構わんよ」
彼と黄土太夫の視線が一斉に日照雨に向けられる。
「あ、はい! うちも、お昼ご飯で構いまへん」
思わず上擦った声に、彼は愉快そうに笑う。
黄土太夫は眉をひそめ、そんな彼を不満そうに見つめた。