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第一話 平穏な日常

 雑踏の中を、一人の少女が歩いていた。

 歩道や街路樹や道路にまで落ちる深い影は、傍らにそびえる高層ビル群のもの。

 片道三車線の道路を走る車の騒音が喧しいが、それさえ日常のものと捉えているのか、歩道を行く人々は一向に気にしていない。

 腕時計をしきりに確認するスーツ姿のサラリーマン。携帯電話を耳に当てて大声で会話している若者。

 数人で団子のようになりながら、ギャーギャーワーワーと歩く集団。

 彼らは皆、自分や自分たちにしか興味を示さず、他を一瞥することなどなく歩いていた。

 少女は周りの大人たちと比べれば背丈が低く、体つきも幼い。年齢は、二桁に至るかどうかと言うところだろう。

 黒タイツに覆われた脚はほっそりとしていて、短い丈のプリーツスカートに、肩を出したカットソーを着ている。

 腰まで伸ばした髪は艶のある深い黒色で、歩くたびにひょこひょこと揺れていた。

 前髪は眉の高さで切り揃えられていて、円らで大きな黒い瞳は好奇心で輝いている。足取りにも迷いはなく、誰かに付いて街を散策しているように見えた。

 しかし、彼女の前方に彼女を先導するような人影はない。ただ奇妙なことに、人間が一人余裕を持って歩けるほどの空間がぽっかりと空いていた。

 道路を挟んだ向かい側のビルを見上げていた彼女は、不意に、誰かに呼ばれたかのように前方に向き直った。

「たしかに、こないに仰山人のおる街は初めてどすな」

 どことなく京を思わせる抑揚の、甘い、幼い声。

 一息置いて、くすりと笑みをこぼす。

「うちかて、それくらいのことはわかります」

 彼女は、まるで誰かと会話をしているようだった。

 それとも、彼女くらいの子どもにありがちな、見えないお友達か何かなのだろうか。

 すれ違う人々は、可憐な少女の姿を視界の端に収めることはあっても、彼女が一人会話をしていることに気がつくことはない。

 人波が、ゆるりと止まる。彼女もまた、立ち止まった。

 目の前の信号が、赤く点灯している。エンジン音が響き、自動車が動き出す。

「日照雨」

 声がした。

 低く響く、落ち着いた声色。

 聞こえてきた単語は、誰かの名前だろうか。ひでりあめ、晴れた日に降り注ぐ雨の名前。

 少女はぴくりと体を動かして、首を傾げた。

「はい、旦那さま?」

 日照雨の声に続いて、再び低い声がする。

「昼は回ったが、腹は減っておらんか」

「まだ、我慢できる程度どすけど」

 彼女は、信号機の向こうにあるファミリーレストランの看板をチラ見しながら、そう返した。ちろっと舌を出して、唇を舐める。

「近くに公園か何かあるようでの。休息としても良いと思ったが」

「公園、どすか……」

 小さくため息をついた。

 信号が切り替わり、青く点灯する。一斉に、人波が動き始める。彼女もその流れに乗り、歩き出した。

「で、どうする」

 提案に対する返答を求める声。彼女の耳には、その声は前方の空間から聞こえてきているようだ。もしかすると、そこに彼女にしか見えない何かの存在があるのだろうか。

 横断歩道を渡りきると、ファミリーレストランはもう目と鼻の先にある。看板を見つめていたが、邪念を振り払うように首を振った。落ち着いて、口を開く。

「公園で休憩ゆうことでかまいまへん」

「そうか?」

「はい」

「ならばそうするか」

 日照雨の眼前の、誰も居ない空間が道の端へと移動する。彼女はその後ろをぴたりと追従した。

 大通りから、路地に入る。人も車も一瞬で姿を消し、彼女だけが薄暗い道を歩く。路地を抜け、住宅街へと出る。ビルに隠れていた太陽が顔を出し、彼女は目を細めた。

 それからすぐに、こじんまりとした公園に到着した。3メートル近くあるフェンスに囲まれた、まるで檻の中のような公園。木が一本植えてあり、その他には鉄棒とブランコと、滑り台がある。

 薄汚れたベンチまでたどり着いて、日照雨は何を気にする様子もなく、そこに腰かけた。

 いつの間にか、ベンチと彼女のお尻との間には白いハンカチが敷かれている。

 彼女は大きく伸びをして、それからゆっくりと深く、息を吐いた。

「疲れたか?」

 優しい声に、彼女は小さく首を横に振って否定する。

「無理はせんようにな」

 日照雨は足元を見つめて、嬉しそうに破顔した。

 ぽふん、と気の抜ける音がして、サランラップに包まれたお握りが三つ、彼女の膝の上に現れる。

「旦那さまは、お昼はどないなさいます?」

 不可解な現象を別段気にする様子もなく、日照雨はその一つを手に取り、包みを剥がし始めた。

「わしのことは気にせんで良い。人間の飯では腹は膨れんよ」

「そう、どすか」

 さびしそうに呟く。

「旦那さまにも食べて欲しかったんやけどなぁ」

「……」

 日照雨の手の中にあった握り飯が、瞬きをする間に忽然と消える。

 目を見開き、それから嬉しそうに、別のお握りの包みを剥き始めた。

「いただきます」

 ぱくり、小さな口でかじる。

 海苔の巻かれた握り飯の具は、ほぐした鮭の身。

 お腹が空いていたのだろう。むしゃむしゃと、彼女はお握りを頬張っている。

 一つ食べ終え、一息つく。

 隣に置かれてあった魔法瓶の水筒を手に持ち、蓋を取ってその中に注ぎ込む。湯気が立ち上り、お茶の落ち着く匂いが鼻孔をくすぐった。

 水筒を元に戻して、並々に注がれた蓋を両手で持つ。口を付け、喉を鳴らす。こくこくと一杯飲み干してから、蓋を水筒の上に戻した。

「も一個はなんやったかな」

「確かわしが食ったのは」

「ああん言わんといて! 旦那さまと言えど、うちの楽しみを奪わんといてください」

「……そりゃすまんかったの」

 包みを剥いて、頬張る。もぐもぐと咀嚼して、口をすぼめた。

「んーぅっ」

 種をあらかじめ取っておいた梅干し。その味に身をよじらせ小躍りしながら、平らげた。

 お茶をもう一杯飲む。

「ごちそうさまどした」

 手を合わせて、小さく頭を下げた。

 ふぁさり、髪が頬にかかる。耳に掛けながら、彼女は前方を見つめた。

「旦那さま?」

 そこにいる誰かへ、声をかける。

「雨子は気にせんで良いよ。予定調和、意味はわかるか?」

「ええと」

 指を口元に当てて、しばし首を傾げる。

「思うままに、事が進んでいる?」

「まあそれで良かろう」

 怒られず、日照雨は安堵した。

 彼女の視界に映り、今まさに会話をしている相手。それは、彼女よりも大きな体躯をしていた。

 ピンと立った三角形の耳に、黒い鼻。開いた扇のように、九本の尾が広がっている。秋に実る稲穂のような、綺麗な黄金色の毛並み。

 釣り上がった瞳の色は、紅色。静かに燃える炎のような、深い輝きを放っている。

 その姿を端的に表現するとすれば、狐。より具体的に言えば、九尾の妖怪狐。

 彼は、紅い双眸で空を仰いだ。

「ふむ」

 黒い影が降ってくる。

 それは歪で、人の姿のようにも、蜥蜴のようにも、鳥のようにも、犬のようにも見えた。

 彼の視線など無視して、それは日照雨目がけて一直線に急降下している。

 彼女もまたその存在に気がついたのか、空を見上げていた。その瞳に、異形の存在への恐怖はない。目の届くところに居る彼の存在が、彼女に安心感を与えているようだった。

 それは、彼が軽くため息をついたのと同時に、跡形もなく消え失せてしまった。

 まるで周囲を飛ぶ蝿を払うように、象が蟻を踏み潰したかのような圧倒的な力量差。

「人間の毒気に当てられて、元来在るべき姿を見失っておるな」

 日照雨は小首を傾げて尋ねる。

「せやけど、妖怪言うんは人間の感情から生みだされるんやありまへんどした?」

「今の人間の抱く感情は、昔のそれに比べて複雑化しておる。なにより、妖怪の姿を見ることが出来んじゃろ。そこが大きい」

 唇を尖がらせて、日照雨は彼を見つめる。

 彼は嘆息した。

「日照雨、お主は生まれ持って妖怪を認識できるからピンとこんじゃろうが」

 チラッと彼は背後を窺う。

 路地の向こうから、古ぼけた服に身を包んだ壮齢の男性が走ってくるのが見えた。

 それは地面を蹴って飛び上がり、軽々とフェンスを越えて迫ってくる。

 その様子を目で追いながら、彼は言葉を続ける。

「ここ数十年の内に、大半の人間は妖怪を認識できんようになった」

「どないして?」

「まだ雨子には理解できんだろうから簡単に言うが、妖怪なんて存在しないということにしたから、じゃよ」

「そこにおるのに?」

 日照雨の視線の先、浮浪者のような妖怪は、彼が息を吸ったのと同時に跡形もなく消し飛んだ。

「それでも子どもの内は多少なり認識できる場合もあるようだが、と話が逸れたな」

 クルリ、彼は周囲を見渡す。迫ってくる黒い影が、雑多な妖怪たちが、一瞬にして霧散した。

「しかし、人間の抱く感情は、相も変わらず妖怪を生み出す」

「見れへんのに?」

「そう。加えて人間社会の様相は変化し、人間関係が多様化した。多様化する感情は、無造作に産み落とされた妖怪共を狂わせる」

 日照雨は眉をひそめて首を傾げる。

 彼は言い直そうと空を仰ぎながら、右前足を振り上げて地面に叩きつけた。足の下敷きになった黒い影は潰れ、次の瞬間には消え去る。

「目隠しをして殴り書いた絵が、丁寧で理解の出来るものに仕上がる訳がないじゃろ?」

「わかるような、わからへんような……」

「適当で良いよ。より多くを見れば、自ずと理解できる」

「せかなぁ」

 ちらり、日照雨は鉄棒の上にある黒い影を見やった。ケタケタと笑うそれは、やはり、消滅した。

「それにしても、いつもより多いどすな」

「そうじゃな。それほど人間の鬱憤は妖怪を生み出すのか、それとも」

 一陣の風が吹いた。

 まだポツポツと居たはずの黒い影は姿を消し、青々とした葉が一枚、地面の上に舞い落ちた。

「さて、終いじゃな」

 周囲から妖怪の気配が無くなったのを確かめると、彼はゆったりとした足取りで日照雨のそばに戻り、その足元に座り込んだ。

 黄金色の尾っぽが一本、ひらひらと彼女の眼前で揺れている。その尻尾を手に取ると、鼻に寄せた。

 目を閉じ、匂いを嗅ぐ。

「ん、いいにおい……」

 呟いて、頬を紅潮させた。

 朝から歩き詰めで疲れてしまっていたのだろうか。

 しばらく匂いを嗅いでいたが、ゆっくりと船を漕ぎ始めた。

 ゆらり、ゆらり、かくっ。

 彼は彼女の様子に気がつくと、のっそりと起き上がる。

「今日の散策はここで切り上げるとするか」

 眠りに落ち行く日照雨を見つめながら、ため息交じりに呟いた。

 彼を中心にして、波紋が広がる。それは空間自体を波立たせ、収まった時には既に、公園から二人の姿が掻き消えていた。


 畳張りの、十畳ほどの和室。

 木目の綺麗な箪笥と重厚な本棚が隅に鎮座する以外には、ちゃぶ台が一脚と座布団が二枚あるだけの質素な部屋。

 そこに、九本の尾を持った黄金色の毛並みの狐が寝そべっていた。眠っているようではないが、目を閉じ、尖った耳をピクピクと動かしている。

 微かに開いた襖の向こうから、とんとんと包丁の音が聞こえてきていた。ついさっき目を覚ました日照雨が、夕食の準備をしているようだ。

 彼は畳の匂いと漂ってくる夕食の匂いとを嗅ぎながら、その音色に耳を澄ましていた。

 台所のある面と対称に位置する障子は全て閉じられている。部屋の空気は熱くも寒くもなく、光源もないのに、過ごすのに不便でない程度に明るかった。

 ここがどこなのか、という問いがあれば、九尾の妖怪狐の創り出した結界内という答えが最適だろうか。

 聞こえてくる音に、かちゃかちゃと食器を用意する音が加わる。それからしばらくして、静かになった。

 唐突に襖が開く。

 二人分の食事の載ったお盆を持った日照雨が入ってきた。昼間と同じ肩の出た服装の上に、白いエプロンをしている。

「今日の夕餉は何かの」

 顔だけ起こして彼は尋ねた。

「ちゃちゃっと支度したさかい、あまりええもんは作れへんかったけど」

 日照雨お手製の料理をちゃぶ台の上に並べながら、彼女は続ける。

「ひき肉野菜炒めにお吸い物と、昨日漬けた白菜どす」

「ほう」

 彼は体も起こして、ちゃぶ台の前へと移動する。瞬きをする間に人間の姿に化け、座布団の上に胡坐を掻いて座った。

「美味そうじゃの」

 食べる前からそう褒められ、日照雨は軽くなったお盆で口元を隠して目を細めた。頬が微かに赤くなる。

 立ち上る湯気と、食欲をそそる匂い。幼い彼女の作った料理とは到底思えないほどの出来栄えだ。

 日照雨はエプロンを脱ぐと、お盆共々畳みの上に置く。自身も座布団の上に座った。

「早速いただくとするか」

「はい」

 彼が手を合わしたのに倣い、彼女も両手を合わせる。

「いただきます」

 二人の声が重なった。

 人間である日照雨にとって、こういった食事は娯楽である一方、生命を維持するために必要不可欠なものである。

 しかし、人間ともその他の動物とも異なる存在である妖怪にとって、必ずしも人間と同じ食事で栄養補給を行っているとは限らない。

 妖怪の食糧とは例えば、人間の抱く憎悪や苦悩と言った感情。例えば、信仰心や感謝の気持ち。例えば、人間の生き血。例えば、動物の肉。例えば、人間の生命力。

 例えば、妖怪。

 であるから、彼にとって日照雨の用意した食事は、生命を繋ぐ行為と直接関係はない。

 しかし彼は、野菜炒めを頬張り、ご飯を咀嚼して、吸い物を嚥下すると、満足そうに頷いた。

「美味い」

 日照雨は頬を朱に染めて俯きながら、小さな口にご飯を放り込んだ。

「しかしまあ、ここ一年で随分上手くなったもんじゃ」

「そう、どすか?」

 控えめに尋ねると、彼は大仰に頷いた。

「食材を黒焦げにすることも、調味料を間違えることもなくなった。調理そのものも、手際がよくなっておるし」

「えへへ」

 耳まで赤くしながら、日照雨は漬物の箸を伸ばした。

「まあもっとも」

 ぽりっ、とかじる。

「漬物はまだまだじゃが」

「う、うー。せやかて、お漬物難しい」

「修行あるのみよの」

「……はい」

「それはさておき、おかわり」

 空になったご飯茶碗を差し出され、日照雨は慌てて箸を置いて茶碗を受け取った。

 立ち上がり、とてとてと台所に姿を消す。すぐに、白米をよそって帰ってきた。

「炊飯器をこっちに持ってくれば楽じゃろうに」

 日照雨から茶碗を受け取りながら、彼はそう口にした。

「うちはおかわりしまへんし。重うて、持って来て帰っては大変どすし」

「それもそうか。何度も行かせて悪いが、何かご飯に掛けるものはないかの」

「かけるもの、かけるもの……。ちと待ってください」

 彼女は再び立ち上がると、台所へ向かって歩いて行く。ややして、小さな瓶を持って帰ってきた。

「お昼のお握りの具材くらいしかありまへんどした」

「鮭フレークか。それで構わんよ、ありがとう」

「はい」

 今度こそ座布団に腰を落ち着けると、食事を再開する。

 ぱくぱくと食べる速度は決して遅くはないが、話しかけられる度に手を止めてしまうため、まだ随分とおかずが残っていた。

 対して、彼は大方食べ終えていて、鮭ご飯を今まさに製作中というところだった。適量をご飯にまぶし、瓶の蓋を閉める。そして唐突に、話を切り出した。

「明日の予定じゃが」

 日照雨は咀嚼しながら、上目がちに彼を見つめる。

「この街は通り過ぎるだけの予定じゃったが、ちと気になることがあっての。もう一日滞在しようと思うんじゃが、雨子は構わんか?」

 良く噛んで、飲み込んだ。

「うちは、旦那さまのおそばにおれるんやったら構いまへん」

 そう断言してから、恥ずかしくなったのか彼から目を逸らす。

「そこで、じゃ。朝はここでゆっくりと過ごして、昼に外食をしようと思っておる」

「がい、しょく?」

 チラッと彼の顔を窺い見る。

「日照雨。お主、ファミリーレストランに行きたいじゃろ?」

「……えぅ?」

 どう返答して良いものが分からず、奇妙な声を上げてしまう。視線は泳ぎ、なぜだか顔が熱い。

「滞在する言うても、この街の人間に興味がある訳ではない。今日見たく、ただ歩いておっても良いが。どうせなら雨子の行きたいところに連れてってやろうと思っての」

 彼は今一度、尋ねる。

「ファミリーレストランに行きたいか?」

 日照雨は彼とは目を合わせずに、こくこくと小さく頷いた。

「それじゃあ決まりよの。明日はファミリーレストランで昼食を済ませた後、妖怪殲滅と行くか」

「せんめつ……。そないに厄介な妖怪がおるんどすか?」

「いんや、単に世間知らずな馬鹿がのさぼっておるだけじゃろうよ」

「せやったら、わざわざ手を出さんでもええんとちゃいます?」

 素朴な疑問に対する返答は、沈黙だった。慌てて、口を開く。

「え、えと……すみまへん」

「いやいや、謝ることはない。どう説明したものかと考えておっただけじゃよ」

「……ほんまに?」

「ほんまに」

 はひゅぅと日照雨は息を吐き、胸を撫で下ろした。

「ともかく詳しくは言えんが、雨子は明日の昼食の準備はせんで良いことだけわかっておれば構わんよ」

「でも、なんでうちが、ふぁみりーれすとらんに行きたいゆうん、知っとられとったんどす?」

 首を傾げ、尋ねる。

 彼は茶碗に付いた米粒をまで平らげると、満足そうに息を吐いて、茶碗とちゃぶ台に置いた。

「日照雨のことなら大概わかる」

「ほんまに?」

「今日は疑り深いの。わしが信じられんか?」

 日照雨は、ぶんぶんと首を大きく横に振る。

 その仕草に彼は口端を上げて笑いながら、立ち上がった。

「さて、食器くらいは下げるか」

「あ、うちがやりますさかい、置いといてください」

 慌てて立ち上がろうとする日照雨の頭にポンと手を置いて、座らせる。そのままくしゃくしゃと頭を撫で、彼は食器を持った。

「残さず全部食べなさい」

 見当外れな指摘に、しかし反論することもできず。日照雨は頬を膨らませながら、髪は乱れたままで、ご飯を頬張った。


 日照雨は食事が終わるとすぐ、食器を洗うために台所へ向かった。

 流し台には、彼の使用した食器が既に水に浸かっている。かたわらの冷蔵庫の前には、既に狐の姿に戻った彼が、前足で器用に飲み物を漁っていた。

 彼女は思わずその光景に笑みをこぼす。彼女の気配に気づいたのか、振り返った彼と視線が合ってしまい日照雨は紅潮して俯いた。

「お主も何か飲むか?」

「う、うちは構いまへん」

「そうか」

 日照雨は食器洗いを始める。とは言え、調理器具の類は料理の最中に片づけていて洗い物は二人分の食器だけ。

 ちゃちゃっと済ませてしまい、タオルで濡れた手を拭いた。

「これで終わりやね」

 部屋の襖から顔をひょこっと出して、畳の上に伏せている彼に尋ねる。

「旦那さまはお風呂入られます?」

 彼の尻尾がパタパタと振られる。

「そうどすか。昔はうちと一緒に入ってくれはったのに……」

 落胆のため息をついて、頭を引っ込めた。とてとてと、風呂場に向かう。

 浴槽を洗い、蛇口を捻って湯を注ぐ。温度調整はお湯と水の蛇口を巧みに操って行い、もちろん、湯が適量になっても自然に止まってくれるようなことはない。

 湯の温度を整えてから、彼女は部屋へと帰ってきた。

 本棚から適当に本を一冊選び、彼を背もたれにするようにして畳の上に座る。

 開けたままの襖から、浴槽に注がれるお湯の音が微かに聞こえてきていた。

「やっぱり、たまには入られたらええんとちゃいます?」

「清潔さを保つのに、わざわざ風呂に入る必要はないからの」

「むー」

 本を開く。平仮名や振り仮名が多く、幼く漢字に不得手な彼女のための物であることがわかる。

 ページを捲る音と湯の注がれる音だけが、しばらくの間流れた。

 日照雨は本の世界に没頭していた。目を大きく開いて、文字を読み進めている。

 彼の尻尾が、彼女の頬をこちょこちょとくすぐる。

「ふぁ? ……あ、お風呂!」

 物語の世界から引き戻された彼女は、慌てて立ち上がった。本を棚に戻して、隣の箪笥から服とバスタオルを一枚ずつ取り出す。小走りに、風呂場へと向かって行った。

 きゅっ、きゅっ、きゅっ、と蛇口を閉める音がした。

 彼は小さく息を吐いて、目をつぶった。

「ふぁあぁぅ……」

 声が聞こえて彼は目を開く。少し眠ってしまっていたらしい。

 だぼっとした大きめのTシャツに身を包んだ日照雨が、部屋に帰ってきたところだった。

 既に睡眠欲に駆られている彼女は、大きく欠伸をしながら倒れ込むように彼に抱きついた。

「寝るのか?」

「んい、ねむいです……」

 彼の体に頬を擦りつける。負荷のかからない姿勢を探すように、もぞもぞと動き出した。しばらくして、動きが止まる。

「おやすみなさいませ、旦那ひゃま……」

 言うや否や、日照雨は穏やかな寝息を立て始めた。

 彼は、彼女の体が冷えてしまわないよう、尻尾を掛け布団のようにして全身を覆う。

 部屋が、自然と暗くなっていく。

「ゆっくりと休め」

 彼の声は真っ暗な部屋の中に響いて、消えた。

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