婚約破棄はこちらから。証拠は三つです。
「婚約者であるギルベルト殿が、妹君であるミレイユ嬢と不義を働いていました」
ラザールは、いつもと変わらぬ感情が一切混ざらない口調で、淡々とわたくしにそう告げた。
後日、廊下で見かけた二人の姿から確信が生まれるまで三秒。
その後の行動まで三分。
この国の王女である、わたくしセラフィナ・エウフェミア・ド・ロゼールと、公爵家嫡男であるギルベルト・アンリ・ド・モンリュックとの婚約が決まったのは半年前。
いつかは来るだろうと思っていた。
けれど予想よりも早くもたらされたその情報。
わたくしは自室に戻り、予め用意していた書類を取り出した。
婚約契約書、守秘義務契約、貞節誓約書——すべて署名済み。
結婚式の二ヶ月前、彼に『愛の証』と言って署名させた書類だ。
彼は内容をろくに読まなかった。男というのは、そういうものだ。
ミレイユが以前から吹聴していたのを知り、準備していたものが、こんなに早く役に立つとは。
わたくしは淡々と、父のもとへ向かった。
父——この国の王にして、血統と制度を何より重んじる人。
「わたくし、セラフィナとギルベルト様との婚約は、本日をもって婚約破棄成立いたします」
書類を机上に置く。
父の瞳が、書類からわたくしへ移った。
「……根拠は」
「証拠は三つです。第一、この署名。彼の筆跡で間違いございません」
わたくしは契約書の末尾を指で押さえた。
インクに混じる、薄い金の粉——『誓約紋』。教会の公証だ。偽造は不可能。
「第二、貞節誓約。破った瞬間、指輪が黒く変色します」
左手を上げる。
婚約指輪の宝石は、すでにどす黒くなった指輪を外し、目の前の机に置く。
父の指が、ぴくりと動いた。
「第三——『真実の鏡』です」
従者が銀枠の小さな鏡を台座ごと運び込み、床へ置いた。
鏡面に触れた者の『直近の行為』だけが、ぼんやりと浮かぶ魔道具。
調停や裁きで、証拠として使われる。
「……確認なさいますか?本人たちに」
返答より先に、廊下の向こうで甲高い悲鳴が上がった。
「いやぁぁぁっ!」
——来た。
扉が乱暴に開き、妹ミレイユが飛び込んでくる。
後ろから、汗だくのギルベルト様が追いすがった。
「何を言ってるんだ、誤解だ!」
汗を垂らしながら彼は、わたくしではなく父の顔色ばかり見た。
——ああ、この男は最後まで『王家』と結婚したいだけ。
「誤解、で押し通すおつもりですのね」
「お姉様、お願い……ほんの遊びだったのよ。ね? ね? 王家の恥になるから……黙って……」
わたくしが淡々と言うと、ミレイユは一転、甘ったるい声を出した。
足掻きの第二段。取引。
自分が悪いと認めず、損得だけで口を縫おうとする。
ギルベルト様も追随するように早口になった。
「金なら出す。いや、そうだ、君が望むなら公爵家の持ち分も譲る。婚約はそのまま——」
「第三段に移りましたわね」
わたくしは微笑んだ。
「次は脅し、あるいは『王女を狂女に仕立てる』ですわ」
「な、何の話だ!」
彼の声が裏返る。
ミレイユも同時に口を尖らせた。
「だって……お姉様はいつも冷たいもの。お父様に好かれてるのをいいことに——」
「——ああ。やはり」
わたくしは軽く頷いた。
「性格が悪い姉に虐げられた可哀想な妹。として、物語を作るおつもりでしたのね」
ミレイユの瞳が泳ぐ。
その瞬間、ギルベルト様が妹の腕を掴んだ。
「余計なことを言うな!」
「痛いっ!」
「俺たちのことは、誰にも言うなと——何度も言っただろう!」
——口が滑った。
その瞬間、廊下の空気が変わった。
扉の向こうから複数の足音。近衛。従者。侍女。
——この場に偶然居合わせた者たちの、息を呑む気配。
父の執務室は、いつの間にか『観客席』を得ていた。
従者が一歩前に出て、小型の記録魔道具を掲げる。
「陛下。脅迫と暴行の音声記録でございます。先ほどの言葉、全て記録されております」
「う、嘘だ……!」
ギルベルト様が蒼白になる。
ミレイユは『誰かの目』を意識した途端、膝から崩れた。
「待って……待ってよ、お姉様……!」
周囲の侍女が、思わず口元を覆う。
逃げ道は消え、父が立ち上がった。
声は低く、静かだった。
「姦通は死罪。王家に連なる者の名誉毀損も重罪だ。……愛で済む罪か」
「そんなっ! お父様!」
「陛下! 私は、私は……!」
ミレイユが金切り声を上げて泣き、ギルベルト様が取り繕うように叫ぶ。だが、その叫びは薄い。
わたくしは、ただ書類を整え直した。
制度は、整然としている。感情では揺れない。
——その日のうちに、裁きの場が整えられた。
白い石造りの調停室。
判事は無表情で、監査官は数字を読み、教会の神官は淡々と誓約紋を確認する。
わたくしが、提出した。
契約。誓約。指輪。真実の鏡。音声記録。
それだけだ。
判決は、驚くほど簡潔だった。
婚約破棄。
家領没収。
爵位剥奪。
王都追放。
——ミレイユは修道院送り、名を捨てる。
読み上げが終わる前に、ギルベルト様は泣き喚き始めた。
だが誰も耳を貸さない。ここは『制度』が支配する場所だ。
判事席から、先ほど判決を言い渡した裁判官——いえ、裁判官ラザール・ユスト・ド・ロシュフォールが降りてきた。
わたくしの提出書類を一枚も無駄にしなかった男。
「セラフィナ王女殿下」
彼はわたくしの前に膝をついた。
「あなたの勝利は、偶然ではない。準備と判断の積み重ねだ。……よろしければ、その隣に立つ許可をいただきたい」
「そうですわね……」
わたくしは静かに返す。
「条件がありますの。わたくし、浮気は許しませんことよ?」
ラザールは笑わない。
けれど、目だけが柔らかくなる。
「当然です。あなたの信頼を失うくらいなら、最初から跪きません」
鎖の音がした。
元婚約者と妹が、別々の場所へ連れ出される。叫び声が遠ざかる。
論理とは、最強の武器なのだ。
王都の噂は速かった。
「王女殿下、冷酷ではなく——聡明だったらしい」
「王家に喧嘩を売ると、こうなるのね」
空は、驚くほど晴れていた。
わたくしは紅茶を一口飲み、窓辺で笑った。
——静けさは、奪い返した。
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