プロローグ
ホラーというジャンルには、幽霊や怪異といった“非現実”を扱うものが多くありますが、私が本当に怖いと思うのは「人の記憶」や「思い込み」、あるいは「説明できない現象が、説明されないまま続いていくこと」です。
だからこの物語では、派手な演出よりも、“じわじわと濡れていく足元”のような恐怖を大切にしています。
読み進めるうちに、あなたの足元が濡れていないことを、どうか願っています。
都会って、異常があっても、誰も気にしない。
夜中に聞こえる怒鳴り声も、昼間に道路に落ちてる靴片方も、
「関わらない方がいいな」って、目を逸らす。
誰かが急に消えても、「引っ越したのかな」で終わるし、
同じ場所に何日も花束が置かれてても、
通り過ぎるだけで、由来なんて調べようとしない。
東京に限らず、どこの街でもそうだ。
「異常」に慣れすぎてて、怖がることすらしなくなってる。
でもね、そういうのって、確実に“におってる”。
ごく普通の風景の中に、ほんの少し、湿った“異物”が混ざってる。
誰も気づかないだけで、
毎日飲んでるコップの水の底に、それは沈んでたりする。
水って、不思議な存在だと思う。
どんなに澄んでいても、底のことはわからない。
ただの液体のくせに、私たちの命を握ってる。
誰かの死体を流し、誰かの記憶を浸し、
過去も罪も、何もかもを“無かったこと”にしてしまえる。
そして怖いのは、水が“覚えてる”ってこと。
私たちが忘れても、水は忘れない。
何年たっても、あの日の温度や、湿った言葉や、震えを、
どこかに閉じ込めたまま流れ続けてる。
そう思うと、水って“墓場”みたいじゃない?
でも、誰もそれに気づこうとしない。
飲んで、流して、当たり前のように扱ってる。
私たちは、水にずっと見られてるのかもしれないのに。
――私は今、小さなルポ記事を書いて暮らしている。
フリーライター。
有名でもなんでもない。
それでも、たまに届くんです。
「ちょっと聞いてくれませんか」っていうメールや、封筒が。
半分以上は、ただの愚痴か、誰かへの復讐だったりするんだけど……
今回の件は、ちょっと違った。
送られてきたのは、複数の写真と、短い文。
“あの部屋のこと覚えてる?”
正直、最初は「またオカルトか」って思った。
でも、その部屋には妙に見覚えがあった。
管理会社に聞けば「その部屋はもう人が住んでいない」と言っていた。
私は、最初の一歩を間違えたんだと思う。
本当は思い出すべきじゃなかったのに、
気づけば、取材ノートとカメラを持って、
その“あの部屋”に向かっていた。
雨でもない、風でもない、
誰もいないはずの部屋の中から、確かに――
水の音がした。
ここまで読んでくださったあなたに、心から感謝します。
この物語はフィクションですが、私自身が日々感じている“現実の歪み”や、“何気ない違和感”を詰め込んで書きました。
たとえば、電車の窓に映る自分が、ほんの一瞬だけ“違う顔”をしていた気がする瞬間。 たとえば、なぜか濡れている部屋の隅に、誰かが立っていた気がする記憶。
誰もが持つ「説明できない記憶」は、もしかしたら水のように、静かに、どこかへ流れついているのかもしれません。
この物語が、あなたの中の“濡れた記憶”に、そっと触れることができたのなら幸いです。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。