引っ越し
若い女性の涙ほど強いものはないといいます。
殿様は奥方の言葉を入れて、この古い離宮から出ることにお決めになりました。
新しく「小さな御屋敷」を建てて、そこに移り住もう、というのです。
そうは申されましても、あまり豊かでない国のまるきり豊かではない貧乏殿様のご普請です。
はい、殿様は資産をほとんど持っておられませんでした。都におられた頃の財産はほとんど主上に「返還」なさったからです。
確かに平民の方と比べれば、幾分か「持っている」部類に入りましょうけれど、都で権勢を振るっていた頃の、元の暮らしから考えたなら、ほとんど無一文と言って良い財政状態でした。
奥方様は財産がおありでしたよ。なにしろ主上の養女であられますから、嫁入りに際して十分な化粧領を与えられておいででした。
ですが、それを使うわけには行かないでしょう。
夫婦で住むからといっても、建前上は殿様の政務のための建物です。これは殿様の財力で腐心するのが普通でしょう。
それに、主上の娘の財産に手を付けなければならないほどの甲斐性なしであるなどということが、主上に知れたら、それこそ大変なことになるではありませんか。
どれほど大変なことになるのか、などということは、空恐ろしくて私の口からはとても言えません。
そんな訳ですから、どう足掻いても、都に住まわれていたときのような立派なお城などは建つわけがありません。
殿様は全てを家臣たちに任せました。
家臣たちは殿様の懐具合を熟知しています。逆さに振っても鼻血もでないほどの貧乏です。
そしてその懐具合を土地の人々に説明しました。
その上で、全てを民に任せることにしたのです。
土地の頭領が縄張りをし、土地にある石材を使うことになりました。
内装も土地の樹木で土地の指物師が作り、土地の織り子が土地の山毛玉牛の毛と山蚕の糸で敷物や掛物を織ることになりました。
建築の順番は、まず第一に奥方様の為の仮のご寝所から、と決まりました。奥方様が一日も早く古い屋形を出たいと仰ったからです。
急いで立てられたのは、いかにも田舎風な、小さな小屋でした。真新しい小屋に真新しい寝台が組み上がり、真新しい寝具が縫い上がると、奥方はすぐにその仮のご寝所にお移りになりました。
そして殿様は、古いお屋形に――幽霊屋敷に残られました。
何故、と?
建てられた仮のご寝所は狭く、仮の寝台も小さく、奥方一人が休むのが精一杯だったからですよ。……そういう寝所を作って欲しいと仰ったのは、実は殿様ご自身なのですけれども。
それから、形ばかりの塀と門が作られました。浅い空堀が掘られました。
堀には跳ね橋が架けられましたが、これは形だけで跳ね上がらないものでした。
家臣たちが控える部屋ができ、奥方様の衣裳部屋ができ、形ばかりの物見塔……というほどは高くない櫓ができました。
奥方の仮でないご寝所が建てられ、殿様の御座所も完成しました。
最後に、手頃な広間のある天守が建ちました。
それは殿様が昔住んでいた「都のお城」の十分の一すらもない小さな御屋敷でしたけれども、それでも、殿様が考えていた以上に立派で素晴らしい出来栄えでした。
大工たちの普請が終わると、指物師たちが大いに仕事をしました。あっという間に家具調度が御屋敷の中一杯にできあがりました。
それは殿様が昔住んでいた「都のお城」の調度品と比べたら、小振りで質素なものでしたけれども、それでも、殿様が考えていた以上に立派で素晴らしい出来映えでした。
指物師たちの仕事が終わると、次に織り子たちが大いに仕事をしました。ふわふわの敷物が床と廊下の隅々まで敷かれ、ふわふわの掛け物が窓と壁とを覆いました。
それは殿様が昔住んでいた「都のお城」の床や壁と比べたら……ああ、何度も同じことをしつこく言い過ぎですか? これは申し訳ない。大人である君にはこういう話はつまらないのでしょうね。
ともかく、手頃な広さで、質素で、それでいて思いの外立派な御屋敷ができあがって、殿様は大変お慶びにり、少々心配になりました。立派な仕事を成し遂げた人々に、その仕事に見合う報酬が払えなかったからです。
職人たちは申しました。
「私どもは私どものやりたい仕事をやりたいようにやりました。普通では考えられない楽しい仕事でございました。もしお殿様が私どもをねぎらってくださると仰せならば、どうか今のお殿様が払えるだけのおあしをくださいませ」
殿様は半分泣いたような顔をなさって、持っているだけの金貨を――小さな家を立てるのが精一杯の金高しかありませんでしたが――全て人々に与えました。
こうして総てができあがると、最初に立てられた奥方様の「仮のご寝所」は取り壊されました。
殿様は初め、この建物を何か別の用途に使おうとお考えだったようですが、奥方様が、
「新しくできあがった御屋敷と見比べると、あまりにみすぼらしい小屋ですから、とても使えません」
と仰ったので、勿体なくお思いになられながらも、大工たちに命じて解体させました。
そんな次第でしたから、奥方は最初にお住まいになった古い「幽霊屋敷」も当然取り壊すものだと思っておられた。
ところが殿様は仰せになったのです。
「あれは残さなければならない」
奥方様の驚かれたことといったら! 青いきれいな瞳の目玉が、溢れて落ちてしまうのではないかというくらいに大きく目をお開きになって、
「あんな恐ろしい魔物の棲む場所を、お残しになられると!?」
大きな声で仰せになられました。
奥方様の言われるのは当然のことでしょう。あの建物に住むのは恐ろしすぎるから、という理由で、新しい屋敷を建てたのですから。
すると殿様は、娘のように若い奥方に微笑みかけておっしゃいました。
「あの場所を壊せば、奥の言う『恐ろしい魔物』が住処をなくして、外に出てくるやも知れぬぞ」
奥方様は息を飲み込まれ、少しばかりお震えにななられました。
殿様は続けて、
「万一、住処を失った『恐ろしい魔物』がこの新しく美しい館を気に入って、入り込んで住み着いたなら、奥はどうするのだね? 立派なお城が建ったと領民たちが大喜びしているこの建物を、また取り壊すかね?」
奥方の震えはガタガタと音がするほどに大きかったと聞きます。震えながらうなずかれて、古い屋形を残すことにご同意なさいました。
とはいうものの、奥方様は余程に「人ならぬモノ」が恐ろしかったと見えます。以降、ご自身は件の建物ばかりか、ちらとでもその建物が見える場所には、決して近づこうとなさらりませんでした。
一方で殿様は、都から持ってきたわずかな家財のうちで、特に「思い入れ」のある物を、その小さな離宮に押し込めました。
荷物を運び終えたその後、扉という扉から「引手」を総て取ってしまわれました。
「中に収めた物を、外には出したくないのだよ」
殿様が仰せになったので、奥方は、
「殿様は忌まわしい物を総てあの建物の中に封じ込めてしまおうとしているのだ」
と、そのように理解なされた。
総てが済んでから、殿様はご家中に命じました。
「何人たりとも、決してあの建物に近寄ってはならない」
と。