賢者の振りをする愚者の行いというものは
この瞬間、少年の胸を締め付けていた得体の知れない疎外感が、一度に吹き飛んだ。
身体も心も、羽毛のように軽くなった気がする。
うれしさのあまり、イーヴァンは椅子から飛び上がって、
「それでは、若先生のことを姉上様とお呼びしてよろしいでしょうか!」
エル=クレールの足下に跪き、薔薇色に輝いたずぶ濡れの顔で彼女を見上げた。
「図に乗るな」
低く鋭くい声はブライトが発したものだ。
彼の大きな掌が高く持ち上げられ、少年の頭の上にゆっくりと降りてきた。
『殴られる!』
反射的にイーヴァンは身をすくめた。ところが彼の頭には痛みも激しい衝撃も落ちてこなかった。
少年の頭を大人の大きな掌が乱暴に撫でている。
「死んだ人間のことばかり思い出すのは、たしかに考え物だ。だがな、きれいさっぱり忘れっちまうのはもっと悪い」
「は?」
不可解げに不安げに、イーヴァンは「大先生」を見上げた。
彼は怒りも呆れも嗤いも微笑もなく、ただ、暗く静かな瞳で少年の目を見つめ返した。
「もし貴様の本物の姉上が聞いたら、間違いなく気ィ悪くするようなことをするのは止めておけ、と言っているンだ」
「あ……」
イーヴァンは己の察しの悪さを痛感した。
胸の奥が熱く痛む。親子ほども年の離れた異母姉・ヨハンナの白い顔が見えた気がした。
険しくて、淋しげな、もう死んでしまった人の顔――。
「……はい」
少年は必死に顔面へ歪んだ笑みを作り上げて、小さく頷いた。
「理解ったら、貴様はさっさとテメェの部屋へ戻って、とっとと寝ちまえ。
貴様がどうしても俺たちを師匠呼ばわりしてぇってンなら、最低限稽古を付けてもらえる程度には体を治せ。
話はそれからだ」
ブライトは掌を拳に変え、イーヴァンの脳天を軽く小突いた。ブライトにしてみればすこし触った程度のことだったが、キーヴァンのあちこちひびの入った骨格にとっては相当な衝撃だった。
彼は奥歯を噛み締めて耐えた。
「はい、大先生!」
弾かれた板撥条のごとく立ち上がると、ヨハネス・“イーヴァン”・グラーヴは、二人の剣士にそれぞれ一礼し、狭い続き部屋から退出した。
足を引きずる少年の足音が階下の彼方へ消えて行くのを聞きながら、エル=クレールが、
「あなたのおかげで、可愛い弟を得損ねてしまいました」
僅かに皮肉の混じった声音で良い、わざとらしく唇を尖らせて見せた。本気で拗ねているのではないことなどブライトには判っている。
「弟が欲しいなら、本物を頼みゃいいだろう。行き方知れずの、お前さんの母親を探し出して、さ」
彼は無精髭の生えそろわない頬に厭味のない本物の微笑を浮かべた。
しかし、エル=クレールが心からの笑顔を返そうとしたその時、
「まぁ弟に限ったことじゃなく、もっと広い意味で【可愛い年下の男の子】が自分の身内に欲しいってンなら、俺様が一番手っ取り早い方法を提案させてもらうがね」
ブライトの笑みの質が変わった。
爽やかさがない。男臭い。つまりはイヤらしい。
エル=クレールは嫌な予感を感じながら、
「手っ取り早い、とは?」
一応、訊ねてみた。
返答は彼女が想像してしまったものそのものだった。
「お前さん自身が、今日から十月十日後に、俺様の可愛い息子を産ンじまうってぇことさぁ」
ブライト・ソードマンが本気で自身の下履の腰紐をほどこうとしている。
エル=クレール・ノアールは、心からの笑顔を彼に向け、
「却下します」
彼の頑丈そのもの頬桁に、見事な弧を描く左フックを喰らわせていた。
ブライト・ソードマンがこの続き部屋から逃げ出したのは、言うまでも無い結果である。
この章、了




