四人家族
「その、義母上様と兄上様達の肖像画を、肘掛け椅子とは反対側の壁へ掛けるように、と、父は仰せになりました」
「ふん……]
ブライトの瞼がゆっくりと持ち上がった。
「肘掛けの付いた椅子に座ると一番よく見えるように、か」
あらわになった瞳の色は、何故か悲しげであった。
「お前さんの父親は、本当に酷い父親だな」
瞼よりやや遅れて、ブライトは口角を持ち上げた。
それを見たエル=クレールの唇が、彼と同じような平坦に近い曲線を描く。
悲しげな、寂しげな、辛く痛々しい微笑だった。
この二人の間では、互いの表情を視ることで、会話が成立した。
二人は、よほどに気をつけて見なければ微笑とは解らないような、小さな表情の変化だけで互いの胸の内を悟った。互いの微笑は、心の内で相手の孤独を慰め、心の内で慰めに感謝を返した。
この部屋に彼ら二人きりで会ったなら、話はそこで終わっていただろう。その後に何も説明を付け加える必要はない。
だが、ここにはもう一人が居た。
イーヴァンと名乗り、そう呼ばれている地方貴族の庶子ヨハネス=グラーヴは、締め付けられるような疎外感の中にいた。
なぜ椅子が四つなのか。
なぜ肖像画が肘付き椅子の正面に掛けられるのか。
なぜ大先生は若先生の父上を「酷い親」と言うのか。
なぜ若先生はそれを否定せず、抗議もしないのか。
なぜこの二人は言葉無しに心を通じ合わせられるのか。
「さっぱり解りません」
イーヴァン少年は思いきって疑問を口に出した。また殴られるかも知れないと思いつつ、それでも言葉にせずにいられなかった。
疑問が解消されなければ、自分だけがいつまでもこの疎外感の中に置かれ続けるに違いない。
ブライトは目玉だけを動かした。彼にとってはイーヴァンがむくれている理由の方が不可解だった。不審の感情を片方の眉を大きく持ち上げて表した。
「何が?」
表情にも、短い言葉にも、険がある。
「何がといわれますと……うまく説明が出来ませんけど……つまり……何から何まで、全部が解りません」
イーヴァンは、むしろ胸を張って言った。
ブライトは鼻嗤いすると、大げさに頭を動かして、あきれた顔と声をエル=クレールの方へ向けた。
「物語の解説を話の途中でやるようじゃぁ『語り部』としちゃぁ三流以下だ」
「それは今日自覚しました。私は心底『語り部』には向いていません。それに私には一流の『語り手』になるつもりはありませんし」
エル=クレールは完爾として笑った。ブライトは彼女に一瞬微笑を返したが、すぐに表情をあきれ顔に戻して、イーヴァン少年に向き直った。
「それと、ネタバラシを『語り部』に要求する方も『聞き手』としてはド三流だ」
イーヴァンは、
「僕は一流の『聞き手』になりたいわけではありません」
少々強い語気で言い、彼は大先生から送られてくる恐ろしげな視線を身体全体で避けるようにして背筋を正した。そうして少年はエル=クレールに真っ直ぐな眼差しを向けた。
「教えてください。なぜ若先生のお父上が大先生から『酷い親』呼ばわりされねばならぬのですか?
若先生のお話を聞く限り、僕にはとてもお優しい方にしか思えません。
だって、幼子の頃の若先生が、言いつけを破ったことをお叱りにならなかったばかりか、怪我がないかとご心配をなさっておいでたではありませんか」
エル=クレールはイーヴァンの視線をまっすぐに受け止めるように、彼に正対した。ただし、眼差しは少年の身体を突き抜けて、遠い彼方を見ているかのようであった。
「ええ、そうです。君の言うとおり、父は優しい方でした。優し過ぎる人でした。
ただ、領主であるとか、為政者であるとかいう人種は、時に非情でなければならないと言います。父にはそういう部分はありませんでしたから……。
そもそも、あの方には広い土地を収める殿様の素質はなかったのかも知れませんね」
「ならば何故、若先生は大先生が『酷い親』と言ったのを、否定なさらないのですか?」
少年は、強い口調で問う。
エル=クレールは微笑んだ。微笑む以外の、他の表情を選べなかった。
「ある一つの方向にに見せた『優しさ』が、別の方向から見れば『辛い仕打ち』となる……ということもあるのですよ」
「どういう意味でしょう?」
イーヴァンの口調は更に強くなった。理解力が足らない自分が情けない。その情けなさを表に出してしまう己の修行の足りなさ、というよりは、人としての幼さが、口惜しくてならない。
エル=クレールは大きく息を吸った。
できれば口にしたくない言葉を、それでも語らねばならないというのなら、わずかばかりの覚悟が必要だ。ほんのわずか、監獄塔の急階段を一段飛ばしで駆け上がるほどの覚悟が。
「つまり父は……あの方は先の奥方とその子供達を……おそらく後の奥方とその子供と同じように……愛していた」
エル=クレールは、まるでマイヨールに語って聞かせていた時のように、わざと他人事の体で言った。
「あの方は、彼等の為の『秘密の家』に、彼等と自分が使う机と椅子を用意したのです。
姿のない古い家族と自分とが向き合っていると感じるために、自分が座る椅子の正面に彼等肖像画を掛けました。
そして、寸暇を惜しんで彼等と語らう時を設けて……」
言いさして、エル=クレールはふっと天井を見上げた。
目尻から溢れそうになっていた液体を、無理矢理鼻の奥に落とし込もうとしている。
「……そのことを、後の家族が知れば、今度はそちらが悲しむだろうことを、あの方が想像し得ないはずがありません。
あの年を取った殿様は、誰に対しても優しい方です。
自分の秘密の家族の『存在』を知った誰かが悲しまないためには、その場所を知られないようにしなければならない、隠し通さなければならない、とお考えになったのでしょう。
ですから、全ての人々に、その場所には近付くなと命じたのです。誰の口からそのことが若く新しい家族に漏れ伝わらないとも限らないのですから」
エル=クレールは彼女には珍しい下品さで、音を立てて洟をすすり上げた。そうしなければ、あふれた涙が頬を伝って落ちてしまう。
「あそこは、私が行って良い場所ではなかった。私が居てはいけない場所だった。
父は何も言いませんでしたけれど、言わないからこそ、愚かな子供には痛いほどに良く判ったのです」
エル=クレール=ノアールは深く息を吐くと、目と鼻の頭を真っ赤に充血させながら、
「あの場所にいるかぎり、私は父にとって必要のない存在だった」
とびきり上等の笑顔を作った。
が、その笑顔は、すぐに当惑顔に変わった。




