自然体の若者達
マイヤー・マイヨールの姿が視野からなくなると、ブライト・ソードマンは笑い涙が溢れ出た目尻を古風な胴着の袖で拭った。
それでも笑いは止まらない。腹を抱えて振り返った。エル=クレールは小首を傾げて彼の顔をじっと見ている。
この男装した若い姫君は、自身の語った話でマイヨールに一泡吹かせてやろう、などとは微塵も思っていなかった。ただ、求められるままに、本心から「自分が意外に思った話」を語ったに過ぎない。
それ故に、彼女は自分の「精一杯の誠意」が彼の戯作者に伝わらなかったことが不思議であり、また残念で仕方がなかった。
ブライト・ソードマンは、この人を疑うことを知らず、また自身が庶民とはずれていることも知らない、見た目ばかり大人びた少女の性格が、愛おしくてならない。
「ウチの姫若様はこうでなくっちゃぁならねぇや。自然体ってぇのは何より強ぇえからな」
愛おしさが口を突いて出た。
「自然体、ですか?」
エル=クレールの首の傾いだ角度が大きくなった。
ブライトが自分の言動の何を指して自然体と評しているのか、さっぱり解らない。そのさっぱり解らない言葉が、彼の自分に対する愛情を泉源としているのだということになど、理解が及ぶ筈がない。
むしろ、一ダース以上年上の彼が、自分を子供扱いにし、小馬鹿にしているように思えた。
ブライトは座る者が去って空になった丸椅子を不調法にも足で蹴り、エル=クレールの真正面まで動かし、どかりと座った。
大きな両の掌で挟むようにして自身の頬を叩き、嗤い顔を吹き飛ばしたブライトが、
「さぁて、あの三文だが……もう少し引っ張り伸ばして聞かせて貰おうか」
まじめな顔で言うものだから、エル=クレールは益々混乱した。
「手短に、と仰ったのは、あなたご自身ですよ?」
エル=クレール・ノアールは、誰に対しても敬意ある丁寧な言葉使いをする。明らかに身分の低い相手であっても、苦手な戯作者に対しても、つい数日前まで自分を殺そうとしていた少年剣士にも、そしてここ数年の間自分と一緒に旅をしてくれている正体不明の剣士に対しても、敬語で語る。
故郷にいたときから、彼女の言葉遣いはいつも誰に対してもそんな具合だった。貴族の――世が世なら帝都の主であったかも知れない――身でありながら、階級の上下など関係ない口調を崩さなかった。
不思議な姫君である。
その丁寧で、且つ呆れた口調で彼女は抗議した。抗議はしたのだが、ブライトが自分にしてくる「提案」は、総て拒否の余地が残されていないのだと、今までの経験からよく知っている。
だからブライトが抗議に対して返答する前に、
「年寄りの殿様は……」
と語り始めた。
直後、ブライトが続く言葉を遮った。
「あの禿助もいなくなったことだ。もう濁す必要もなかろう。――つまり、お前さんの年寄りの父親がどうしたって?」
途端、
「えっ!?」
大げさに驚き叫んだのは、イーヴァン少年だった。
彼は戯作者が出ていった後も、自分に振り分けられた窓際の椅子に、律儀に納まっていた。
その椅子から――驚きのあまりなのか、怪我ために足元が覚束無かったのか――転げ落ちた。四つん這いの格好に受け身を取ったが、そこから立ち上がることができない。床を赤子のように這いずって、ようやくブライトの隣まで来た。
少年の慌て振りを面白そうに眺めていた「大先生」は、
「お前もおめでたい鈍さだな。あの禿助の物書きですら、それぐらいのこたぁ感付いてたろうに」
「そうですか?」
二つの落胆の声は、イーヴァンと、エル=クレールから発せられた。
エル=クレールは口を尖らせて、
「私は、上手く誤魔化して、隠しおおせたと思っているのですが……」
口惜しそうに言う言葉尻に重ねて、イーヴァンが、
「ええ、そうです。若先生は、ご自分の身の上のお話だなんてことは、ちっとも仰らなかったですよ!」
心底驚き、また、深い疑念を持ってブライトに反論した。
ヨハネス・グラーヴという父親と同じ名を与えられたこの少年は、両親の死後、唯一の家族であった腹違いの「姉」からはイーヴァンと呼ばれるようになり、自身もその名を用いていた。
ただ一人の「姉」が、死んだ父の領地と身分、そして名前を継がされて、ヨハネス・グラーヴという男名前を用いていた故である。
この「姉」をも失って天涯孤独となった少年は、全くの赤の他人である「エル=クレール・ノアールと名乗る若い貴族」に心酔した。「姉」と戦って、打ち倒した相手であるのに、だ。
エル=クレールは、年頃は自分とあまり変わらない用に見えた。それなにに、所作は洗練されていて、死んだ「姉」のような大人を思わせた。
体つきにしても、自分よりも線が細いくらいだというのに、いざ剣を取っ手戦えば、自分よりも遙かに剣術が巧みであり、強い。
イーヴァンはエル=クレールと戦って破れている。
完敗だった。
こちらは真剣をすっぱ抜いて「相手を殺すつもり」で挑んだというのに、相手は木切れの模造刀を鞘に収めたまま「相手を助けるつもり」で応戦した、というのに、だ。
敗北した少年は『この人に教えを請いたい』と真剣に願った。
願って、頼み込んで、しかしやんわりと断られた。
当然だ。
エル=クレールからしてみれば、イーヴァンは自分とあまり変わらない年頃であり、自分よりも少しばかり大柄で、実践剣術、つまり生きた人間を斬ったという「場数」はおそらく自分よりも多いに違いないのだ。
断られたイーヴァンは、矛先を変えた。
自分を倒した「剣術の匠」が戦って歯が立たないという人物……つまりブライト・ソードマンに頭を下げた。そうすれば自分とエル=クレールとは「姉弟弟子」の間柄になるという思惑もあった。
ブライトは少年の願いを拒絶しなかった。弟子にするとも言わなかった。
イーヴァンがブライトを「大先生」と呼ぶのも、エル=クレールを「若先生」と呼ぶのも、イーヴァンが勝手にやっていることだ。
そう呼ばれる度にいちいち否定するのを面倒臭がった怠惰な剣術使いと、彼の「提案」を拒めないエル=クレールは、呼ばれるままにしている。
ブライトは妙に楽しげに、
「自然体が二匹に増えやがった」
呟いて、エル=クレールを見た。
エル=クレールは彼に何故か逆らえない。
「どうやら私には物を語ると言うことが旨くできないようですね……」
彼女は落胆を苦笑で覆うと、今一度語り始めた。




