お輿入れ
その殿様の場合、本当に文字通りの都落ちでした。
どれほどのしくじりをしたか、と訊ねるのですか?
ならばお答えしましょう。
いいえ、殿様は断じて何の失敗もなさっていません。
むしろこの方は、帝都には絶対に必要不可欠な、重要な人物だったのです。
ただ、新しく御位に就いた主上が、その人を「自分の都には不要な人材」と断じただけのことです。
主上に対してこのような言い様をしては不敬に当たるかも知れませんが……その新しい主上は、すこぶる優秀な方でした。またその自負も持っておられた。ですから、何に付けても先代の方とは違うやり方をなさりたかったのでしょう。
だからといって、その殿様本人の首を刎ねることや、家名を断つことまではできなかった。
実を言いますと、その人は一頃は大変な権勢を誇っていらっしゃったのです。
新しく御位に就かれた主上がまだ即位なさる以前には、その人の前に出る度に地にひれ伏すようなのお辞儀をなさったというほどだったそうです。
その勢いが失せたのは、殿様の奥方が茶会で薄荷のお茶を飲んだ途端に卒中を起こして亡くなられた少し後のことでした。
ご次男が石ころ一つ無い馬場で落馬し、愛馬の蹄で頭を踏み割られてなくなられたもう少し後のことでした。
ご長男が新品の装束に残っていた待ち針を指先に刺した後に、得体の知れぬ病に罹られて、苦しみ抜いてお亡くなりになった後のことだと聞いています。
……君が何を言いたいかを想像するのは、この感の鈍い私にも容易いことです。
ですが、これは事故です。総ては不幸な事故でした。
ただ当時も、君のように考えた人が多かったのは確かです。
何分にも、奥方様が倒れられたその場所に主上の寵姫が居合わせており、ご次男と馬首を並べておられたのが太子であり、ご長男は第二皇子の学友でありましたからね。
ですからその時に色々様々な噂が立ったのも、仕方が無い事でしょう。
そういった「根も葉もない」噂を、わざわざ噂の中心人物に注進注進する者がいるから、余計にややこしいことになってしまう。
ただでさえ殿様はご家族総てを失われた悲しみの中におられるというのに、他人を疑いたくなってしまうような話を聞かされれば、身も心も疲れ果ててしまうのが道理でしょう。
殿様は心労で御髪などが真っ白になられました。。
そして目に見えてやせ細られました。
ええ、そもそもお若いというわけではありませんでした。でも老け込むようなお年でもなく、枯れ痩せるようなお年でもなかったのですよ。それが、年齢相応以上に老け込んでしまわれたのです。
その様子を知ったご聡明な主上が、転地療養を命じられたというわけです。
はい。元々の所領と都の家屋敷を総て取り上げた上で――。
ですが、新しい主上はとてもご聡明な方であられました。
殿様から本当に総てを取り上げてしまったら、未だ彼を慕う人々が、大いに不平を言うに違いない。
口で言うばかりか、剣を持って抗議する者が出る可能性がある。
それも一人や二人ではないだろう。
その程度のことは当然すぐにお察しになった。
そういうわけで、その殿様は件の「名誉」の土地を代替地として領することになったのです。
ですからこの領地替えは、決して左遷などではありません。名誉の勇退なのです……少なくとも、形の上では。
ご聡明で用心深い主上は、それでも足りないと思われたのでしょう。もう一つ、とても価値のあるものを殿様にお下しになった。
一人の美姫です。絶世の美女です。
主上はご自身の寵姫の娘を、畏れ多くもご養女となさった上で、殿様の妻となさしめました。
このことで主上のご心配通りに、大いに不平を言う愚か者がいくらかはいたそうです。直接間接に殿様に働きかけて事を起こそうと考える胡乱者もいたと聞きました。
しかし当の殿様が、財産を失ったことに関してはまるきり落胆などしていなかったものですから、何も起きようはずがありません。
ええ、殿様はむしろそのことを喜んおられたのです。
妻に先立たれ、ご子息二人までも失った殿様は、見れば彼等を思い出すに違いない先祖伝来の家宝などに、小指の先ほどの未練もお持ちではなかった。そんな物はむしろ捨ててしまいたいと思っておられた。
もっといえば、殿様にとっては、長く家族で暮らした都そのものが悲しい思い出の器に他なりません。
景色の何処を見ても、妻の顔を、息子たちの姿を、そして彼等の哀れで無惨な亡骸を、ありありと思い出してしまうのです。
領地替えの前には、殿様は大変気落ちなさっておいででした。
都を離れたい、家族のいるところへ行きたいと、主上に訴えたこともあったそうです。
ですが遠回しな死への願いは叶えられませんでした。
なぜ、ですって?
そんなことをしたら、彼の一族に起きた不幸は、主上が謀ってしたことだなどという「下らぬ流言」が飛ぶに違いないではありませんか。
ですから主上は殿様の寿命が短くなるような願いはお聞き入れにならなず、もう一つの方の願いのみを聞き入れた。
そうですよ。殿様が全部を召し上げられ、新しい土地へ行くことになったのは、全部殿様のご希望です。殿様が主上に願い出て、それが適ったのです。
他の者がなんと言おうとも、それが真実です。
殿様は都を離れることに何の不満も抱いておられなかった。むしろ遠くへ離れられることを喜んでさえおられた。
それがまごうことなき真実です。
ただ、主上の養女を後妻にあてがわれたことには、少しばかり不満があったのかもしれません。
何分にも若い奥方というのは、殿様の亡くなられたご長男と同じ年頃でしたから。
そのうら若い娘子が、親ほども年齢の離れた老いた男鰥の所に嫁がされた上に、故郷を離れた遠い田舎に押し込められるなど、哀れでならない。
……例え彼女が養父から与えられた「監視役」の職務を忠実にこなしているだけだとしても、殿様は奥方を本当に可哀相に思っておいででした。
ああ、その人の名前のことは勘弁してください。いつの時代の、どんな立場の人であったかも、です。
例え殿様ご自身が願った領地替えであっても、外から見れば都落ちの左遷です。ご家中の方々にとっては恥とも言えましょう。
とうの昔に無くなった方です。死屍に鞭を打つのはあまりに可哀相だと思って頂けませんか?
それが駄目なら、代わりに、まだ生きているこの私を哀れんで、どうか訊かないでおいてください。
これは昔話です。そう、遠い所の昔話。
色々な経緯があって、深い山奥の、古い城跡に立つ寂しいお屋形……「幽霊屋敷」に閉じこめられることになった、お優しくてお寂しい殿様のお話。
そう思って聞いてください。