想像は無限に膨らむ
「来た来た来た来た、来たぁっ!」
戯作者マイヤー・マイヨールは古びた帳面と羽毛の乱れた鵞ペンを握りしめ、口角泡を飛ばしつつ、身をぐいと乗り出した。
聡明なる美しき若君――エル=クレール・ノアールと名乗っているが、おそらく本名ではあるまい、とマイヤーは想像しているのだが――の少々やつれ気味の顔の鼻先に、自分の鼻を擦り付けんばかりの、しかしギリギリ手前で自制して、
「幽霊ですか? 悪霊ですか? あるいは小鬼大鬼ですか?」
大声でまくし立てる。
詰め寄られている格好のエル=クレールは、申し訳程度に背もたれ付いた小さな椅子の上で、
「いや、それは……」
言い淀んで身を堅くした。
『どうしてもこの男は苦手だ。悪い男出ないことは解っているけれども……。それでも近寄られると全身の毛穴が粟立って、私の白髪じみた髪の毛が逆立っているのではないかという気がしてしまう』
エル=クレールの鼻先に、マイヨールの鷲鼻の先端が迫っている。
が、それはすぐに、猛烈な勢いで遠ざかっていった。
大男の剣術使いに襟首を掴まれた戯作者は、それでもなお、自分勝手に騒ぎ立てる。
「いやいや、土に還るのを拒んだ亡骸もいい! 白骨が……いや、腐乱死体!! いやいや違うぞ……」
その内容は、|若く美しい流浪の貴族《エル=クレール・ノアール》の語った話そのものではなくなっている。
マイヨールは自らが勝手な妄想した怪談話に興奮し、捕まった野良猫のように暴れながらもまくし立て続けた。
「そうだ! 胴薙ぎに真っ二つにされた死に損ないが、腕の力だけで床を躙り来るのも画になる!」
その可愛げの無い大きな野良猫の襟首を、大男――ブライト・ソードマンは片手一本で吊り上げている。つり上げたまま易々と壁際まで運搬した。
田舎の安宿の唯一の続き部屋の、貧相な板張りの壁の際には、丸椅子が二つ並べられている。
一つは、つい先ほど、つまり興奮してエル=クレールの近くまで文字通りに飛んでゆくまで、戯作者マイヤー・マイヨールが座っていた空席。
もう一つには人が掛けている。包帯で体中を巻き止めた少年だった。
「ヨハネス・‘’イーヴァン”・グラーヴ!」
ブライトは不機嫌な声音で少年の名を呼んだ。
「はい、大先生!」
イーヴァン少年は師匠から重要な教えでも受ける弟子のように、背筋をぴんと伸ばす。
「これを押さえておけ」
空いた方の椅子の足元の床にマイヨールが落とされた。
乱暴に扱われた思い荷物が木の床に落とされたときそのものの音がした。
「はい、大先生!」
強かに腰を打ったらしいマイヨールが、何事か叫びながら手足をばたつかせる。
つい先ほどまでブライトに捕まれていたその襟首を、今度はイーヴァン少年が掴んだ。ただし、ブライトとは違って、両腕で、である。
イーヴァンはマイヨールの身体を自分の足下に引き寄せた。
それだけのことで、マイヨールの尻は、彼自身ではその場からほんの指の幅一つ分も動かせなくなった。
イーヴァンはブライトほどは大柄ではない。しかもたいそうな怪我人である。
マイヨールにはそれが不思議であった。少年が自分を押さえつけている方法を見ようと、頭や身体をねじって足掻いてみたが、己の後ろ襟を見るのは容易ではなかった。
「流石ですね。イーヴァン君は力がある」
エル=クレールが無邪気な乙女のように手を叩いて感心すると、イーヴァン少年は頬をぱっと輝かせた。
それを見たブライトが、何故か忌々しげな小さな舌打ちをした。
エル=クレールに、それが自分が彼以外の人間に笑顔を向けたことに起因する、などということが判るはずがない。
判るはずがないということがまた忌々しく、再度小さく舌を打ったブライトは、日に灼けた無精髭まみれの顔面をむくれさせた。
その恐ろしく機嫌の悪い顔を、なおも往生際悪く身体を揺すっているマイヨールに向けた彼は、マイヨールが握り閉めている帳面とペンを乱暴に取り上げた。
戯作者が大仰な悲鳴を上げた。
「ああ、なんてことだ! 旦那、後生だから返してくださいな! そのネタ帳はあたしの商売道具だ。そいつがなきゃ、あたしは商売あがったりになっちまう! ああ、お願いだ、ソードマンの旦那! そいつは旦那にとってのお刀と同じなんですよ。
ねえ、旦那。いや、ソードマン大先生! 先生だって、万が一お刀を取り上げられっちまっちゃぁ、途端に生きた心地がしなくなるでしょう?」
再び暴れ出したマイヨールの鼻先に、ブライトの骨張った巨大な握り拳が突き付けられた。マイヨールの身体は、ぴたり、と制止した。
「ああ、ええ、そうでしょう。ええ、判ってますよ。確かに旦那なら、刀なんていう長い棒っきれなんぞなくったって、その拳骨一つで、あたしの髑髏ぐらいは粉微塵になさっちまうでしょうよ。
判ってます、判ってますよ。旦那ほどの大名人になれば道具なんてものがなくったって、岩を砕き、大地を裂いて……」
「よく回る口だ」
ブライトが拳を開いた。
瞬転、節くれ立った長い指が、マイヨールの下顎を掴んでいる。
「貴様の声が耳に入ってくると反吐が出そうなくらい苛ついてくる。黙るつもりがないなら、顎骨もろとも舌を引き抜いて、二度と言葉を吐けないようにしてやるが?」
静かな声だった。
だが、彼の指はマイヨールの頬肉に食い込み、顎骨を軋ませている。
戯作者は出せる限りの力で上顎と下顎をぴたりと重ねた。そして笑った。無理に笑った。だが、巨躯の剣士を見上げる目に浮かんだおびえの色は消せなかった。
おびえを隠せなかったとしても、唇を硬く閉ざしたことそのものは、ブライトの手をマイヨールの顎から離れさせるのには十分な材料にはなった。
ブライトはマイヨールから手を放し、マイヨールの帳面と鵞ペンを床に放り投げた。
帳面とペンは床を滑ってゆき、閉じた扉に当たって止まった。
マイヨールをにらんでいるブライトの顎が、その帳面とペンを指している。
『それを拾って扉から出て行け』
といっているのだ。
『冗談じゃない! 身性を明かしたがらないクレールの若様から、どうやらご自分の身の上らしい話を、ここまで引き出したんだ。オチも聞かずに引き下がれるものか!』
マイヨールはブライトはこの若様に懸想している、に違いないと見ている。
恐ろしく嫉妬深くて、恐ろしく頭が切れて、恐ろしく腕の立つ、この変態性欲持ちの剣術使いをどうにかしなければ、若様から話の続きを引き出せない。
マイヨールは、泣きそうな顔を作ってブライトを見上げた。
しかし彼はすぐに、己の顔面の表現力がブライトの表情とその心の内を少しも動かさないことを悟った。
いや、動かすことは出来た。……マイヨールが期待しない方向に。




