人の影
ともかくも、若君は頭を上げ、目を開いたのです。
とは言っても、凛々しく上を見上げられた訳ではなく、雄々しく目を見開けた訳でもありません。
そっと頭を上げ、ゆっくり目を開いたのです。
縮こまっていた体の中から、針より細く瞼の隙を開けて、自分の体の外側にある世界を、恐る恐るのぞき見た――。そんな具合です。
その世界は、薄暗い闇に包まれていました。
目を閉じる前と同じ、暗闇に。
若君は落胆しました。しかし直後に気付いたのです。
違う、と。
同じではない、と。
自分が畏れ、戦いた、あの真の闇は、そこになかった。
ぼんやりと、何かが見えるのです。つまり、どこからか、僅かに光が漏れてきているのです。
先ほどの机の上の灯にあって、もう消えてしまった、あの儚げなか弱い光とは違う、もっと別の光が、どこかにあるのです。
そして、ほんのりと、ぼんやりと、何かが見える。
まるで人の影のような形のモノが、確かに見えた――。
間違いなく、若君はそれを見たのです。
御子は眼をこれ以上は開かぬと言うほどに大きく開きました。
一人の淑女の姿がそこにありました。
若君にとっては、まるきり見知らぬ顔でありました。
見知らぬご婦人は、おおよそそ地獄には相応しくない柔和な面差しで、古風に髪を結って、古風な身なりをしておいででした。
お顔は真っ白でしたが、これは古風な化粧のためでしょう。昔風の、都会風の、鉛の白粉をべったりと塗る化粧です。そして唇も昔の流行の黒みのある深い赤で塗られ、頬は明るい薔薇の色に塗られていました。
年の頃はおそらく若君の母君、つまり殿様の後添えの奥方よりも、幾分かお年が上のように思われました。
若君はこの婦人に声をかけようとして、はたと気付きました。
ぺたりと尻餅をついている自分の視線と同じ当たりに、このご婦人の優しげな微笑があるのです。
たとえこのご婦人がしゃがんでいたとしても、その高さに顔があるはずがありません。若君同様に尻餅をついておいでなのだとしても、それでもまだ高さが合いません。
ご婦人が若君よりも遙かに背が低い、とも考えられました。それほどの小柄であれば、そして床に座っておいでだというのなら、その高さにお顔があっても不思議ではありません。
しかしそのご婦人の身なりと申せば――胸元より上ほどがぼんやりと見えるだけでしたが――豪華で……ええ、かなり古風というか、流行遅れの意匠ではありましたが、とても洗練されたものでした。
ご身分の高いご婦人であることは間違いありません。
そんな方が、腰を抜かして立てぬ腑抜けた若君のように、はしたなくぺたりと尻餅をついた状態で、そのくせ柔和に上品に微笑んで居続けられるとは、とても考えられません。
若君は考えました。
この高さにお顔があるためには、例えば床がそこだけ一段低くなっているとか、あるいは腰より下が床の下に「埋まって」いるか、あるいは胸より下の部分が「無い」状態でなければなりません。
下半身が無い――!?
若君は自分の考えに驚き、思わず後ろに飛び退きました。
尻餅をついていたのに、どうやって飛んだのでしょう。まったく不思議なことなのですが、尻餅をついたままの格好で、どうやってか後ろに飛んで下がったのです。
狭い部屋です。若君の背や後頭部には椅子や机の脚がぶつかりました。木の脚が木の床を引っ掻いて、耳障りな大きな音をたてました。
ところが件のご婦人は眉一つ動かさないのです。元のままに、柔和に微笑んでおられます。
不可解でしょう? 若君は何度も瞬きをし、幾度も目の辺りを袖で擦り、そのご婦人を見つめ直しました。
じっと見つめていると、ご婦人の両隣に別の人影が浮かんできました。
二人の少年でした。
ちょうど若君と同じくらいか、少しばかり年上と見受けられました。
一人の少年の顔立ちは、薄闇の中でもはっきり見て取れました。顔色がご婦人と見まごうほどに真っ白だったからです。
彼は額の広い、利発そうな面立ちでした。
もう一人は目を凝らしに凝して、ようやっとその姿をおぼろげに見て取ることが出来ました。どうやらよく日に灼けているご様子で、ともすれば闇に紛れるほどに、黒い顔をしていたのです。
彼は眉の太い、逞しげな面立ちと見えました。
一目見ただけでは、まるで印象の違う少年達でした。
ですが若君には、彼等がどことなく似ているように見えました。
目元口元の形というか、顔の作りというか、雰囲気がどことなく似通っているのです。
この少年達は兄弟に違いない――。
若君は自分の考えに得心して、暗闇の中で幾度か首を縦に振ったものです。
そして兄弟に違いない二人の面差しは件のご婦人によく似ていました。
いえ、暗がりではっきり見て取った訳ではないのですが、若君にはそう思えてならなかったのです。
さすれば、この三人は母子に違いない――。
直感でした。何の根拠もありません。
ですが若君にはこの三人が、仲の良い親子以外には見えませんでした。それほどによく似ているように見えたのです。
そして不思議なことに、ご婦人は別として、二人の少年たちが、別の誰かに似ているようにも思えてきたのです。
どこかで見た、見知っている顔。
城下の人々の誰かか?
お城で働く人々の内の誰かか?
剣友、学友の誰かか?
否、否、否、否。
そうではない。
もっと、近しい、もっと見慣れた、もっと、もっと……。
ふっと、若君の脳裏に浮かんだ顔がありました。その顔に、思い浮かべた若君自身が驚いて、思わずその人の呼称を声に出してしまいました。
「御父様――?」
途端、まばゆい光が若君の目玉に突き刺さりました。
若君は思わず身構え、腕をかざして光を遮ってから、瞼を細く開いて、光の差してきた方角を見ました。
光の中に、人の影が立っていました。
いや、立っている人影が、光を携えていた、と言う方が正しいのです。
その人は角提灯を高くかざしました。
人影はぐっと長く伸びて……。




