小さな灯
汗ばんだ掌の内にすっぽりと収まった小さな湯壺からわずかに顔を出した細い灯芯の、その先に心許なく点っていた赤い光は、疾うに消え失せていました。
いいえ。食卓が揺れた所為ではありません。
若君の手の内の油灯からは、金属の油壺と灯芯の重さ以外は感じ取れませんでした。
燃料が尽きていたのです。
あの幽かな光は、若君の不注意で食卓が揺らされることがなくとも、ちょうどあの瞬間には消える定めだったのです。
そして、あたりは、真の闇に包まれました。
右も左も、前も後ろも、何処を見ても、闇。
しばらく揺れ動いていた机や椅子達も、震えることと音を立てることを止めてしまいました。
灯芯がら立ち上っていた煙が絶え、油と煤の匂いも消えました。
若君の手の中の金属の器は次第に熱を失い、やがて氷のように冷たくなって、指先を凍えさせました。
その冷たさはあっという間に背筋まで伝わり、脳髄を凍り付かせたのです。
見えず、聞こえず、感じず。
何もない、闇の中に、自分一人。
振り払ったはずの恐怖が、振り立てたはずの勇気を、あっという間に追い出して、若君の全身を支配しました。
手の先、足の先がビリビリと痺れ、感覚が失せてゆきました。
肉体が重く思われました。若君は、身体が闇に締め付けられ、押し潰しされていると感じたのです。
手足が動かない、声も出せない、何も出来ない――。
泣き叫ぶ? 手足をばたつかせて、床を踏み付けて、むずがる赤子のように?
そんなことが出来るはずがないでしょう。
できるのは、陸に打ち上げられた公魚のように、ただ口を開けて喘ぐことのみ。それが精一杯でした。
いいえ、それすらも苦しいことでした。
息が詰まって、死ぬ。
いや、もう死んでいるのかも知れない。
そうだ、そうに違いない。
肺臓は呼気を取り込むことを拒絶し、心臓は血潮を送り出すことを拒絶し、脳漿は考えることを止めてしまった。
私は死んでいる。
若君は、それが現実であると確信しました。
そして死んでいる筈の脳味噌の中を、グルグルと回ったのは……不安でした。
ああ、懺悔の祈りの間も無かった。
とすれば、魂の行く先は辺獄か煉獄か。あるいは一息に地獄の奥底へ堕ちるのか。
子供らしくない思考です。
ああ、この子供は幼い頃からなんという陳ねた大人のような子供であったのありましょうか。
またなぜこれほどに、大人のように振る舞わねばならないと思い込まされて育てられたものでありましょうか。
哀れなことに、若君は正しい道だけを教え込まれていました。
立派な大人になること、聡明な名君になること、正しい為政者になること、そして周囲に心配も疑念も抱かせない大人になること。若君が学んだのは……教え込まれたのは、それだけでした。
反して、お粗末な大人のことも、愚昧な暗君のことも、驕慢な政治家のことも、決して教えなかった。
大人達はこの危うい子供を正しくない道には近づかないように守っていたのだ、と言ったなら聞こえはよろしいが、その実彼らは若君に道から外れることを恐れ、禁じていただけのことです。
ただただ、彼らは禁じるだけした。
正しいことが何故正しいのかを教えてくれませんでした。
当然正しくないことが何故正しくないのかを教えてくれるはずがありません。
人々は何故、道から外れてしまったときに戻る術を教えてくれなかったのでしょう。
何故、「律せよ」「悔い改めよ」というばかりで、律しても反省しても、褒めも許しもしてくれなかったのでしょう。
ああ、そのようなことは、今となってはどうでもよろしい。
ともかく、この時この子供は、子供らしくない考えにたどり着いてしまった。事実はそれだけです。
そしてその救いのない考えに至ってしまった哀れで愚かな若君は、無性に悲しくなったのでした。
恐ろしいのではなく、悲しいのです。怖いのではなく、淋しいのです。
なぜなら、地獄には知り合いは一人いない筈なのですから。
考えの甘いお人好しの若君は、自分の周囲にいた人々は皆おしなべて善人だと思っていました。善人である彼等が死んだとしても、地獄に堕ちて来る筈がないと、考えたわけです。
若君は思いました。
誰も知った者のいない場所で、永遠の責め苦を、永遠に独りきりで受けるのだ――と。
若君は思いました。
もしかしたら今すでにその責め苦を受けているのかも知れない――と。
若君は思いました。
誰もいない闇の中に、独り置かれるという責めを、今まさに受けているではないか――と。
若君は思いました。
この闇の中には恐ろしい風貌の地獄の獄卒共が潜み隠れていて、自分を睨み付け、声もなく嘲笑っているのではあるまいか――と。
人のような、獣のような、蛇のような、猛禽のような、虫のような、影のような、正体の知れないそんなモノドモに、自分は、今、取り囲まれているのかも知れない。
自分の知らない何かがそこにいるのだ、そう思うだけで、背筋が冷たくなったのです。
震えが来ました。
足の先から、頭の天辺まで、ブルリと震わせたその後で、不意に若君は思いました。
『この闇の中に、本当にそんな者たちがいるというのなら、この目で見てやろう』
突然のことです。何のきっかけも脈絡もありませんでした。
正義感? 義務感? いいえ。そんな物ではありません。強いて言えば興味――そう、不意に、本当に不意に純粋に興味を抱いたのです。
それは、この「幽霊屋敷」を探検してやろうと考えたのと同じ種類の感情です。興味本位の、身勝手な、ただの思い付きでした。
それまで、しゃがみ込んでうつむいて、自分の身体を抱きしめていた若君は、ただその思い付きのために頭を上げました。震えて瞼を閉ざしていた子供は、その思い付きだけのために、薄く目を開ける決心をしました。
怖いもの見たさ? ええ、そうとも言えましょう。
そして若君は、目を開けたところで闇以外のものがあるはずはないと考えた……。
……いや、それは違います。
逆です。全くの逆です。
たとえ地獄の住人でも良いから、自分以外に何者かがそこに存在していること、そのことを確かめたかったのですよ。
自分は一人きりではないと思いたかったのですよ。
あの闇は、それほどに心細く、寂しいものでした。




