開けられない扉
いいえ、いいえ。その古い扉は、間違いなく扉でした。出入り口でした。
取っ手のあるべき場所に、丁度取っ手が填るのに良さそうな穴があったのです。
板壁に仕立て直したというのなら、そんな穴は塞いでしまうでしょう。
もし、初めは塞いでおいたのに、つい最近詰め物が落ちてしまったとでもいうのなら、その詰め物が床に転げているはずです。
あるいは大分前に詰め物が取れてしまったのなら、代わりの物で塞ぐでしょう。
この掃除と手入れの行き届いた館の主が、「壁」に穴が開いていることに気付かず、穴が開いたままの「壁」に手を入れないことなど、考えられません。
若君は知らなかったのです。
父君である年寄りの殿様が、このちいさな館の扉と言う扉全部から、取っ手を全部取り去ってしまったと言うことを、です。取り去られた取っ手の穴は塞がずにおけ、という命令を殿様がしていらしたことを、です。
殿様は理由があるから穴を塞がなかった。
若君はその理由を知りませんでしたが、それでも、穴は必要だから開いているのだと、考えつきました。
そしてわざわざ開けてあるからには、それなりの意味がある筈だと類推しました。
若君は身をかがめ、その「取っ手が填るのに丁度良さそうな穴」を覗き込みました。
扉の向こうには薄闇が広がっていました。
ボンヤリと「何かが置かれている」らしい影が見え、その影の向こうで、何かが揺れているのが判りました。
その影が何であるのか、揺れている物が何であるのか、目を皿のように見開いて見ていたとき、あることに気付きました。
そう、見えた。見えたという不可解。
星明すらも届かない、と思っていた場所です。
今までいたところでさえ、運良くそこにいた、一匹の蛍火虫の僅かな輝きの御蔭で、どうにか物の形が見えるばかりの暗闇でした。
その虫の明かりすらも届かぬ「筈」の、何も見えぬ「筈」の深い闇が、そこにある「筈」でした。
若君は慄然としました。しかし出来うる限り冷静に物を考えようと努めました。
『もしかしたら、別の蛍火虫がこの「扉」の先にもいるのではあるまいか?』
冷静に考えて思いついたのはこの程度のことでした。その思いつきも、すぐに否定の思いつきでかき消えました。
『蛍火虫の光は冷たく揺らぐものだけれど、「扉」の向こうの影の色はむしろ仄かな暖かみを感じる』
つまり、別の、虫や星や月のような冴え冴えとした光ではない、なにかしらの熱を帯びた光源があるに違いありません。
夜夜中に、熱を帯びた光を発するのは、自然光でないでしょう。火が燃えているのです。それ即ち、何者かがそこにいるということを表しています。
何者かとは「何者」か?
この建物の「主」か?
いいえ、この小さな家の「主」は……そう、父君です。年寄りの殿様です。
だってそうでしょう?
この幽霊屋敷は、一応はお城の堀割の内側にあるのですよ。敷地の隅の隅、端の端とは言っても、それでもお城の中にあるのです。若君にとっては「家の中」とも申せましょう。
ですから、この百姓家のような幽霊屋敷のような、奇麗に整った小さな家の家主は殿様意外におりません。
普通の家の家主ならば、夜中に「家の中」を歩いて回ったところで、おかしな話ではありません。
ですが、やんごとなき御方というものは大層不便な生活をしているのです。都を追われた年寄りの殿様は、手水場に行くときでさえ、二人か三人は近侍の者を従えて行ゆかねばならないのが決まり事でした。
この殿様は守られなければならない御方で、同時に見張られなければならない御方でしたから。
ですから、殿様が例え自分の「家」の「お庭先」であったとしても、母屋であるお屋敷から外へ出るというときに、誰一人お側に控える者がいないと言うことは有り得ません。
もしもこの引き手のない「扉」の向こう側に人がいて、それがこの幽霊屋敷の主人で、即ち今その場にいる若君のお父上である年寄りの殿様であったなら、若君がその場にたどり着くずっと以前に、若君の目にも近侍の一人や二人が見えてしかるべきなのです。
あるいはそちらの者の方が先に若君を見付けていてもおかしくはないでしょう。
しかし若君はそのような人影は一つも見ず、また誰からも見とがめられることなく、幽霊屋敷の中に入り込んでいます。
すなわち、あそこに人がいたとしても、それは御父様ではない。
では、殿様からこの屋の管理を任されている、家来の誰ぞか?
この離宮の掃除をし、建物の繕いをする役目を仰せつかった者が居り、主命によりここに寝泊まりしているということは、充分考えられることでした。
そう考え至って、若君は安堵の息を吐きました。
『御父様の家臣であるならば、自分にとっても家来であろう。ならば、何の怖れることも無い』
そう考えたすぐ後に、御子はにわかに不安を覚えました。
この忠義者の家来が……。
おや、君? 何か不振がありますか?
ええそうですよ。件の殿様のご家来衆はみな忠義者だった。一人残らず忠臣でした。
ああ、君の言うのはもっともです。
確かに、現実には二心のある者も、少なからずいたことでしょう。殿様のお立場を考えれば、そう思った方が正しい。
殿様を彼の地に追いやった都の主上と、密に繋がりを持っていた者が、殿様の周りには……と言うことは当然彼の子供の周囲にも、幾人もいたことは、おそらく違いありません。
例えば……そう、奥方であるとか。
ああ、なんと恐ろしいことを私は考えているのか。
夫を見張る妻、妻を信用できない夫。互いの心持ちを互いに、そして周囲に、ほんの少しも感じさせない夫婦。
その夫婦を、この世で一番のおしどり夫婦だと信じていた浅はかな子供。
万一これが事実そうだったとしても、なんておぞましい。考えるだに気分が悪くなる。
……ああ、有難う。この宿の井戸水は、格別に美味しい。飲めば心が洗われるようです。
さあ、話を続けましょう。
あの頃のあの子供はにはこんな感情は無かったことでしょう。少なくともこの頃のまだ幼かった若君の目には、みな忠義者と映っていたのですから。
良く言えば真面目すぎるが故に疑うことを知らなかったということでりましょうが、それにしても浅はかに過ぎました。
ですが、どうか仕方ないと思ってやってください。
何分にも子供のことです。……本当に、仕方のないことです。




