蛍の光
だから、父の命令を破っても、母のいいつけを守らなくても、自分が「恐ろしい何か」を倒せば、
「むしろ、大いに褒められるだろう」
単純にそう考えたのです。
いや、そう考えて、自分の中の恐怖心を消そうとしたのです。
何分にもこの若君は優れた殿様になることを定められた子供です。父親を越える功績が必要だった……実際に必要と言うよりは、この子供にとっては必要なものだった、と言った方が正しいかも知れません。
そして、今日がその手柄を立てる日だと赤気味は信じました。そう信じ込んで、それを勇気の支えとしたのです。
しかし子供の勇気というものは、唐突に膨れ上がり、突然に萎んでしまうモノです。
若君は茂みから出てすぐに、眼前を仄暗い一筋の光が横切ったのを見て、悲鳴も上げられないほど肝を冷やし、剣を投げ出して尻餅をつきました。
……いいや、生憎なことにその光は君の思うようなもの、つまり、鬼火やら人魂などと呼ばれるものではありません。
臆病な蛍火虫が仲間を求めて灯す幽かな光でした。
御子はそのことにすぐに気付きました。そして尻餅をついたまま、気恥ずかしげに辺りを見回しました。その直前までに、散々人気のないことを確認し尽くしているというのに……。
件の蛍火虫はふらふらと飛んでゆき、ある一点に留まりました。
若君は闇に目を凝らして、動かずに点滅する光を見つめました。
目が闇になれた頃、蛍火虫の小さな明かりが照らすその場所に、扉の木目を認めました。
人工物です。建物の材です。
そここそが、決して近寄ってはならない、あの幽霊屋敷の扉に間違いがありませんでした。
若君はゆっくりと腰を上げました。腰は若君が思うような高さまでは上がってくれません。つまり、立ち上がれなかったのですよ。ならば這い進むより他に手段はありません。
ひどく長い距離のように思えた様子でした。実際にはほんの数十歩ほどの距離だったのですが。
ただ何分にも、気持ちがはやっているばかりで、腰はすっかり抜けきっていましたから、手足は頭の後を付いてきてくれないのです。時間が掛かって仕方がありませんでした。
当の本人は至極真面目に「ひたすらに前進している」つもりだったでしょうが、人から見れば相当に滑稽な様子だったに違いありません。
ずるずると体を引きずって、それでもどうにか蛍火虫が飛び立つ前に扉の前にたどり着いたのです。
若君は質素な木の扉に縋り付きました。崖でもよじ登るかのようにして漸く立ち上がり、扉に耳を押し当て、中の気配を探りました。
何かが聞こえるはず。音か声か。人ならぬモノの不気味な唸り声か。
もし聞こえたなら、これほど恐ろしいことはないはずです。誰もいない廃屋の中から、何者かの存在を匂わせる音がするなどとは!
恐ろしくて、恐ろしくて、心の臓が飛び出るほどに恐ろしくて……。
しかしそれほど恐ろしいのに、その音を聴きたい。そこに何者かがいるということを確かめたい。
若君は期待していました。大変に大きな期待でした。
しかし期待というものは大きければ大きいほど裏切られてしまうものなのです。
どれ程強く耳を押し当てようとも、若君の耳には、どっどっと打つ自身の心臓の拍動と、ざぁざぁと流れる血潮のざわめき以外は、何も聞こえないのです。
若君は大きく息を吐き出しました。
安堵の息であり、同時に落胆のそれでした。
肺腑の中身が全部抜けるほどの息を吐き出すと、体の力も抜けてしまったようで、若君はその場に座り込んでしまったのでした。
そして扉にもたれかかるようにして、空を見上げたのです。
暗闇の中に小さな星がちらちらと瞬いています。星はあくまでも冷た輝いていた……。
若君には、星々が自分を、
「見栄っ張りの小心者よ、己の力量を知らぬ愚か者よ」
と責め立てているようにさえ感じました。
若君はまた息を吐きました。体の力は益々抜け、首がかくりと後ろに落ちました。
脳天が扉の板に当たる軽い音がした。その直後、蝶番が小さな悲鳴を上げました。
――いや違う。錆び付いた金属の重く湿ったような軋みではない。
それは、良く磨かれて、油を差された、ちゃんと手入れがされている、良く動く蝶番の音でした。
例えば、人々の喧騒のある昼間のお城の中では少しも気にならない程の小さな音。人気のない夜の幽霊屋敷であったからこそ、聞き取れたのであろう、かすかな音。
若君は固唾を呑みました。
ここに扉がある。
果たして開くのであろうかと、そっと考えました。
見張りも置かれず、見回りもされない、しかし近寄ってはならない場所……戸も窓も鍵が掛けられて当然です。入り口が易々と開く筈など、あり得ない。
若君はゆっくり振り向きました。
この扉は閉まっているはずだ、と自身に言い聞かせながら、扉に手を掛けました。
『この扉が閉まっていて、開けることが出来ないと判ったら、すぐにこの場を離れよう。そして自分の寝室に戻って眠ってしまおう……』
つまり、それをその場から逃げ出す理由としたかったのです。
若君は心臓を高鳴らせて、引き手を引きました。蝶番が滑らかな音を立て、扉は……開きました。
若君の、驚きよう、そして怖れようと言ったら、他に比べるものがありませんでした。
飲み込んだ息を吐き出すことが出来ぬくらいに驚愕していました。
本来ならば、不信に思いはしても、恐ろしくなど思わぬはずでしょう? むしろ喜ぶべきです。
何分にもこの幽霊屋敷の謎を解き明かして見せようと、そして殿様に相応しい立派な人間であることを知らしめようと、大望を抱いてこの場に来たのですから。
子供らしい?
確かに考えの甘いところは子供そのものですが、この場合は、単に浅はかで愚かしくて情けないだけのことです。




