脱走
王宮での暮らしに慣れ始めたある日の午後、塁はふと窓の外に広がる賑やかな街並みに目を奪われた。城下町から響く人々の声や行商人の呼び声が、微かにここまで届いてくる。
ヨーロッパのどこかの国のような街並みは美しく、その世界観に浸りたいという好奇心が沸き、塁のロマンチスト心がくすぐられる。
「なあ、ルース。街に出たりすることって、できないの?」
以前、何気なくそんな質問をしたことがあった。
ルースは一瞬だけ目を細め、答えた。
「申し訳ありませんが、現時点ではできません。
城下町は比較的治安がいいとはいえ、完全に安全とはいえませんので。ましてやあなたは陛下と瓜二つなお姿。もし人に見られたら、騒ぎになるどころか……万が一反国家勢力の者に見られた場合、命を狙われかねません」
その声はいつになく硬く、塁は「そ、そうなんだ」と肩をすくめるしかなかった。
だが――好奇心は消えなかった。むしろ、あれほど強く否定されたからこそ、余計に街の様子をこの目で見てみたくなってしまったのだ。
きっと店に並ぶ品物は珍しいものばかりで、噴水や公園では男女が愛の言葉を囁いているに違いない。日本とは異なる外国の...いや、異世界の趣きに想いを馳せる。
(少しくらいなら……大丈夫だろ。人混みに紛れてすぐ戻れば、誰にもバレない。迷惑をかけないよう、ちょろっと見たらすぐ戻ろう。俺には魔法アイテムもあるしな)
そう自分に言い訳しながら、塁は帽子を深くかぶった。伊達メガネとハンチング帽――普段はルースに言われて渋々身に着けていたものが、今日に限っては絶好の「自由への切符」に思えた。
ルースや侍従たちの目を盗み、人気のない廊下を選んで裏門へと向かう。途中、胸がどきどきと早鐘のように鳴ったが、それは恐怖よりも期待に近かった。
やがて裏門の陰に差しかかった時、門番に向かってあえてチラリと伊達メガネを下げた。
「な...!へ、陛...」
驚いた門番が声をあげそうになったが、人差し指を口に当ててニコリとそれを制する。我ながら大胆な行為だが、うまくいったようだ。アルバートがやりそうな仕草と不敵な顔つきをしてみたのだが、似ていただろうか?
城門を出ると、一気に街の賑やかな喧騒が大きく聞こえるようになった。
――外だ。
王宮の高い石壁を背に、眼前には石畳が続き、人々のざわめきが押し寄せてくる。
「……すげぇ、本当に異世界の街だ」
初めて足を踏み入れる城下町。目に映るものすべてが新鮮で、心臓の高鳴りが止まらなかった。塁は思わず笑みを浮かべながら、雑踏の中へと足を踏み入れていった。