彼はもういない
夜は深く、王都を包む空は濃い藍に沈んでいた。
王宮の高塔――執務室の窓辺では、燭台の炎が小さく揺らめいている。
アルバートは机に向かい、羽ペンを握っていた。
けれど、筆先は書面の上で止まったままだ。
視線は紙ではなく、思考の底へと落ちていく。
今日、ルイが王家の儀礼服を纏った。黒と金を基調とした衣装がとてもよく似合っていた。その姿を見て、どうしようもなく嬉しかった。涙が出そうで、必死で堪えた。
(王家の服装をまとって、僕のそばにいる)
ルイは“彼”ではないし、僕のことを覚えてはいない。しかしあの日ルイがこの世界に来てから今日まで、アルバートは確かにルイが“彼”であることを感じていた。
優しさと、そこから見え隠れする責任感、瞳に宿る強さ。
だからどうしても、アルバートはルイを兄弟として見てしまう。そんなアルバートを、ルイが拒絶しないのも嬉しくて、同時に安心した。
そして嬉しいはずなのに、時折どうしても苦しくなり、震えそうになる。
(……僕は強くない。“彼”だったら、こんな時どう気持ちを整理するのだろう......)
あの日、玉座の間で“彼の魂を宿す者”を――ルイを初めて目にした時の感覚は、今も鮮明だ。
それは安堵でも、驚きでもなかった。心臓を鷲掴みにされたような痛みだった。
***
その日、朝から胸の奥は落ち着かなかった。いや、昨晩から緊張で一睡もできなかった。
今日、異界の扉が開き、“彼”が戻る――そう予定されていたからだ。
(本当に、彼の魂なのか?)
(異界の器では、どんな姿をしている?)
(僕のことを……少しでも覚えているだろうか)
自分でも笑ってしまうほど、思考はぐるぐると回っていた。今日のこの日のために準備を進めてきたのは自分だというのに。
理屈では理解している。“彼”はもうこの世界の存在ではない。
呼び戻されるのは、あくまで“彼の魂”を宿した別の者――。
それでも、心のどこかでは、ありえない奇跡を期待してしまう。
もしも彼が、ほんの一瞬でも懐かしい眼差しを向けてくれたら。
もしも、声の響きにあの頃の温度が宿っていたら。
そんな淡い幻想が、静かに胸の奥を蝕んでいた。
(……くだらないな。そんなわけがないのに、夢など見ている場合ではない)
自嘲気味に息をつく。
予定の刻が近づき、時計の針が音を立てた。
心臓が鼓動を速める。
どうしようもない不安と緊張、淡い期待。
――そして、予定の刻を過ぎても彼は現れなかった。
謁見の間の空気が急に重く感じる。
静寂の中で、不安だけが膨らんでいく。
やがて扉が叩かれ、息を切らした執務官が現れた。
「陛下、召喚に成功しましたが……転移座標がずれ、“殿下”は王城外に落ちた模様です」
「……何だと?」
言葉の先で、血の気が引いた。
どんな状態で、王城外のどこに落ちたんだ。
安全な場所に落ちているのか?
本当はその瞬間、玉座を投げ出してでも駆け出したかった。
だが、何の準備もない状態で皇帝が外へ飛び出すことはできない。何重もの制約が、アルバートをこの部屋に縛り付ける。
(……頼む。どうか、無事でいてくれ)
不安が顔に出てしまわないよう心を押し殺し、アルバートはルースを呼びつけた。
「至急、“彼”を探せ。レオナルドの部下を同行させろ。……時間が惜しい。走れ!」
ルースが一礼して去ると、静寂が戻った。
拳を握りしめる。
爪が手のひらに食い込むほど強く、しかしそれでも焦燥は止まらない。
(もう再び失いたくないんだ)
彼が僕を覚えていなくったっていい、ただ、無事でいてくれ。
***
そして、ようやくその時が来た。
扉が開かれ、ルースに伴われて“彼”が姿を現した。
その姿を見た瞬間、アルバートの思考は一瞬で凍りついた。
(……まさか)
光が差し込む中、ゆっくりとこちらへ歩みを進める“彼”。
その顔を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
(……あぁ、やはり……)
血が逆流する。心臓が暴れ出す。
目の前の青年の姿は、まぎれもなく“彼”そのものだった。
声をかけようとした瞬間、喉が震え、息が詰まった。
思わず駆け寄りそうになり――。
しかし、ルイの視線がこちらをとらえた瞬間、アルバートは動きを止めた。
彼が自分を見るその瞳に、懐かしさや歓喜はなかった。
驚きと困惑、そして少しの警戒。
“彼”ではない。その現実が、胸の奥に冷たく刺さる。
(……そうだ。わかっていたじゃないか。彼はもう――)
アルバートは息を整え、微笑を形にした。
震えそうになる唇をかろうじて制し、ゆっくりと玉座に腰を下ろす。
心の奥で、自らに言い聞かせる。
――僕は...私は皇帝“アルバート・サンセティア”。
ヴァロウが話しかけてくる。答えなければ。頼むから、誰もこの震えに気づかないでくれ。
「ここは――サンセティア帝国。五百年の歴史を持つ国家だ。そして私は、その第十九代皇帝、アルバート・サンセティア」
その声は完璧だった。
誰が聞いても、それは威厳ある“皇帝”の声。
けれど、その裏で、胸の奥に隠した感情が静かに疼いていた。
――覚えていなくてもいい。
――せめて、もう一度、生きて、僕のそばにいてくれ。
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