夕日の宙《そら》
「おっ、うお……っ!?」
誰もいないと思っていた背後から突然、背中を押される。なんとかバランスを取ろうとよろめくが、あっけなく俺の身体は屋上の縁を越え、宙を舞った。
一体誰だ、と振り返る間もなかったが、落下の瞬間、身体が斜めにひねられ、視界の端にその“犯人”のシルエットだけは目に映った。
違いない。俺は屋上から突き落とされたのだ。
世界がひっくり返る。視界が白く弾け、風の轟音も、地面に叩きつけられる恐怖もない。
……意識は、そこで途切れた。
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突き落とされる数時間前。
俺――沢村 塁は、大学にいた。
通うのは私立大のスポーツ科学部。名前だけ聞けば「体育会系のイケイケ学生が集まる学部」と思われがちだが、塁はそのど真ん中から外れていた。
染めていない黒髪の短髪。平均的な身長。筋肉隆々でもなければ、特別に整った顔立ちでもない。言ってしまえば“普通”を体現したような男だった。
なぜスポーツ科学部に入ったのか、と問われれば明確な理由はない。体育の成績が悪くなかったことと、教員免許を取れるカリキュラムに「体育教師もいいかもな」と漠然と考えただけ。そんな程度の動機だった。
ちなみにいうと、俺と異なり親父はゴリゴリの体育会系だ。特に好きなスポーツは野球。だから俺の名前は...これ以上言わなくてもわかるだろう。
この日の授業は夕方に終わった。キャンパスの外は、そろそろ沈みかけの夕日が校舎の窓を赤く染め始めている。
季節は秋。いや、もう冬と言っていいかもしれない。頬を撫でる風は冷たく、肌に刺さるようだ。
「ふぅ、ちょうどいい時間だな」
「お、沢村。また夕日見に行くのか? ロマンチストかよ」
「うるさい。……一日の終わりに見ておくと、締まった気がするんだよ」
軽口を交わして友人と別れ、塁は慣れた足取りで理学棟へ向かう。
理学棟の屋上は、大学内で唯一「立ち入り禁止」が形骸化した場所だ。ほかの棟の屋上は厳重に施錠されているが、理学棟だけは古くなった鍵が壊れていて、ずっと開けっぱなしになっている。学生の中ではちょっとした「隠れスポット」だった。
タン、タン、タン……。階段を上がる足音が、コンクリートの壁に乾いた反響を返す。
扉を押し開けると、屋上一面を照らす夕焼けが視界いっぱいに広がった。
「今日も、いい色だな」
大都会とは言い難いこの街にあって、大学の屋上からの景色は十分に高層のそれだった。今日の空はオレンジに赤が混ざり、端には薄紫が差し込んでいる。
(……でも俺、何やってんだろうな)
講義を受け、友人と笑い、アルバイトをこなす。順風満帆に見える大学生活のはずなのに、塁の胸の奥では、いつも何かが欠けている気がしていた。
他人と同じように生きるだけで、そこに意味を見いだせない。自分には“本当にすべき大切な何かがほかにある気がする。”――そんな空虚さが心を重くしていた。
(ま、これくらいの年齢特有の何かなのかもな)
屋上のフェンスは一面を囲っていたが、一か所だけ大きく欠損していた。しかもそれは、ちょうど夕日が正面に見える位置。まるで誰かが、ここから夕日を見るために壊したかのようだ。
「昔のOBかOGか。俺と同じで、夕日好きだったんだろうな〜」
夕日に照らされながら、一人つぶやいた時――。
「きゃああああああっ!」
鋭い絶叫が響いた。女の悲鳴。それは軽い驚きの声ではなく、切迫した、命の危機を感じさせる声だった。
「……!?」
下からだ。フェンス越しに身を乗り出し、視線を彷徨わせる。だが屋上の縁が邪魔でよく見えない。
普段なら絶対にやらない行為。だが「屋上の夕日穴」と仲間内で呼んでいるフェンスの欠損部へと身を乗り出し、塁は下を覗いた。
そこで目にしたのは、複数の男たちによる乱闘だった。
倒れている女性と、それに寄り添う女性。そのすぐ近くで殴り合っている人影の中には、見慣れた友人の顔もある。
「ええっ……なんであいつら……!? 止めないと!」
塁が慌てて身を戻そうとした瞬間――
とんっ。
背後から、押される感覚。
(お、おい、うそだろ――っ!?)
塁の身体はバランスを失い、フェンスの欠損部から虚空へと放り出された。
人生で初めて、そしておそらく最後に、宙を舞ったのだった。