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第8話 ラブコミュニケーション

 銚子の禅マスター、ここにあり! そう名乗りを上げても誇張ではない境地に、花井は到達していた。既に心は清流となり小宇宙へと流れ出ている。無限に広がる漆黒のキャンパスを煌めかせる天の川は、紛れもなく彼のエモーションだ。秩序を持ち、それでいて融通無碍な、煌めき。随所快活の悟りが光源であれば、無念を取り戻すのは必然で、後はもう、浜辺と全てを共有するだけ。

 「戒めの不憫よ。縛るものなど何もないというのに。オナニーを請う、唯それだけ。浜辺さんに真実を捧げる、唯それだけ。人の業もまた、仏ドライブ」波紋一つない湖面を思わせる声が、自然と溢れ出ていた。「境はない。あるのは解け合う、ハート&ソウル」

 スマホに手を伸ばす。母親の乳房を求める赤子みたいな手付きだ。柿崎が戻るのを待たず、今すぐ決着をつける構え。無念ゆえに、ひとりでできるもん!

 スマホが有する重みは、物質の俗そのもの。それを感じ取ってなお、明鏡止水の境地は微塵も揺らがない。

 浜辺に電話をかけるために必要な動作、その最後のタップが行われようとした瞬間、ドアがノックされた。

 「花井」柿崎の声だった。「来客だ」

 「来客など捨て置いてくれ。今の僕は、浜辺さんと通話するだけの存在だ」

 「その浜辺さんが、来客だ」

 ビッグバン相当だった。小宇宙を木っ端微塵に消し飛ばすビッグバン。そんな現実の一撃によって激しく動揺する様は、花井の禅が上辺を繕っただけの胡坐でしかなかったという事実を如実に現わしていた。

 「どうすればいいの、柿崎!?」女の心証に執心する俗物らしい感情に支配されて、半狂乱となる。「こんな有様のちんちんでは、浜辺さんをもてなせないよ! そもそも、なんだって浜辺さんが僕を訪ねてくるのさ!? まさか、デートをドタキャンされたことに怒って、お別れを言いに来たのではあるまいか!? そうだとしたら、僕はもうお終いだ! 浜辺さんは僕の太陽だぞ、柿崎! 太陽が永遠に陰るのであれば、魂は凍て付き、二度と熱を発することは叶わない! そうだろう、柿崎!? ああ! 出来ることならば今すぐにでも浜辺さんの足下に身を投げて、その美麗なおみ足に触れながら懺悔したい! しかし、彼女の足下に身を投げることはおろか、彼女に姿を見せることすら許されない、我が身の痴態! おお! これを悲劇と言わずして何が悲劇か!? 救いはないのですか!? 柿崎!」

 「取り乱すな、花井。まだ取り乱すような状況じゃない。今、俺と話しをしているように、浜辺さんともドア越しで話しをすればいい。そうすれば、下半身の問題は度外視できる」

 事ここに至ってさえ、微塵もうろたえない柿崎なのだった。恐らくは、地球滅亡の一分前でさえ、彼が落ち着きを失うことはないだろう。銚子のクールビューティーガイ、ここにあり!

 親友に与えてもらった安心感は、感情の起伏、その急峻な下り坂を浸す潤滑油となった。熱烈の頂から、ローション塗れのウォータースライダーと化した坂を一気に滑り降り、冷静の麓へと降り立つ。そうして発した、「浜辺さんは、いずこに?」という声は、果てしなく冴えていた。

 「玄関で待ってもらっている」

 「柿崎。僕のほうから改めてお願いします。浜辺さんを、僕の大事な女性を、ここまでエスコートしてください。この通りです」

 閉じられたドアに向かって深々と頭を下げる、不毛。その不毛を汲み取るのが、友情だった。

 「頼まれよう」盲目の聖者であるかのような声だった。「花井、覚悟を決めておけ。浜辺さんと問題を共有する覚悟を。浜辺さんが訪ねてきてくれたことを、鴨が葱をしょって来たと考えるんだ。これはピンチではなく、チャンスだ」

 後には、柿崎の足音が続いた。行進曲のリズムを刻み、親友の勇気を奮い立たせる。

 足音が遠ざかり、訪れた無音の世界で、花井は一心にドアを見詰めた。次第に、神経が研ぎ澄まされていく。

 「この薄い木製のドア一枚を挟んで、浜辺さんと向かい合うのだ・・・・・・」

 伸ばした指がドアに触れる。そんな微弱な触感にさえ性感を激しく刺激され、花井は喘ぎ、膝をついた。

 「下半身を露出したままで・・・・・・」

 背徳に染まるリアルは、妖しいスリルそのもの。激しく身を焦がすのは、必然。それでも、淫らを排したいという真心から、燃え上がる煩悩に対して必死の消火活動を行う。

 煩悩が鎮火したころ、階段を上がってくる足音が聞こえた。上品な足音だった。浜辺のものだと、花井は無意識レベルで理解できた。

 自ずと、床に耳をつけていた。そうして、床を踏む浜辺の足に思いをはせる。煩悩は、再燃していた。

 「床を伝わってくる振動の大きさからして、浜辺さんの体重は51キログラムほどと推量される」花井はささやいた。「浜辺さんの身長は160センチメートルくらいだから、ボディマス指数を用いた場合、標準体重より5キログラムほど軽量であることが分かる」

 誤りのない情報だった。

 「靴下を着用しているようだ。振動の吸収具合から、薄手の綿の靴下だと推測できる」

 これもまた、誤りのない情報だった。

 「浜辺さんの靴下になりたい」

 もはや変態紳士ではなく、変態だった。

 ロマンを与えてくれる足音、その官能的な調べが、花井の自室の前で止んだ。

 ドアがノックされる。繊細で可憐なノック。

 「花井君。浜辺です」

 緊張が露な声に、花井はようやく己の罪深さを実感し、破廉恥な推量と推測をくやんだ。

 床から耳を離して、勢いよく立ち上がる。

 「浜辺さん」真っすぐな瞳をドアに向ける。「今日は、デートをドタキャンしてしまって、ごめんなさい」

 「それは、いいよ・・・・・・いいの」

 拙い言葉は、本心の表れだった。

 気まずさはなかった。しかし、気恥ずかしさはあった。二人はしばらく口をつぐんだ。

 お互いの表情すら読み取れないシチュエーションは不安を強め、沈黙の苦は否応なく増した。

 無策なまま、声帯を震わせる花井。

 委縮した声帯が奏でる音は萎んで擦れ、「勃起・・・・・・」と口ごもる以上のことは叶わなかった。

 「何? 花井君?」言いながら、ドアに耳を当てる。「何て言ったの?」

 促され、再び、「勃起・・・・・・」と口ごもる。

 「ほっき? 花井君、ほっきって、ホッキガイのこと?」

 ここで一度、浜辺を擁護しておきたい。今のは計算ではなく、本気です。カマトトぶる余裕なんてない。彼女も花井同様、こんなシチュエーションは初体験なのだから。

 ホッキガイ発言、その清純な精神性を汚したくない一心で、花井は声帯を奮い立たせた。

 「そうです、浜辺さん! ホッキガイです! ウオッセ21で活きの良いホッキガイを食べたかったな、って、そう言ったのです!」

 無茶な誤魔化しは、ドアに弾かれて、空しく消えた。

 浜辺の顔が、赤くなった。

 「ごめんね、花井君!」急いで思考を取り払い、感情のままに口を動かす。「勝手にお家に押し掛けちゃって!」

 唐突な謝罪に慌てふためき、両手を胸の前で激しく振る。

 「僕、浜辺さんが来てくれて、すごく嬉しいよ!」会話が途切れることを恐れて、必死に言葉を紡ぐ。「ところで、僕の家、よく分かったね。住所、教えたことがあったっけ?」

 「井上君に聞いたの」恐縮した声。「勝手に聞いたりして、ごめんね」

 「構わないよ、浜辺さん!」再び、無意味なジェスチャー。「僕の個人情報は浜辺さんのものだよ!」

 行き過ぎた思いやりは、時に人を追い詰める。現に浜辺、返す言葉が見つからない。

 「そういえば、浜辺さん!」泳ぐことを止められないマグロみたいに、喋ることを止められない。「僕のラインアカウントも井上君から聞いていたよね。井上君と仲が良いんだ!?」

 「一年生の時に同じクラスだったの。こっちに知り合いが少なかった私を気遣ってくれて、仲良くしてくれた大事な友達」

 「そうなんだ。井上君、良い人だよね」

 「うん。良い人」

 価値観を共有して、二人はこの日、初めて笑い合えた。

 「花井君、元気そうでよかった。今朝、電話で話したときは心配になったけど、いつも通りの花井君だ」

 少しだけ和やかになった彼女の声が、心に染みた。

 感慨が深まるのに比例して、ドア越しに話し続ける居た堪れなさは強まった。そうして、繰り返される不毛な謝罪。

 「ごめんなさい、浜辺さん。こんな状況になってしまって、ごめんね」

 「大丈夫だよ。事情は少しだけ柿崎君に聞いたから、気にしないで」

 「柿崎は、何て説明したの?」

 「花井君は体の一部分に目に見える異常が出てしまって、それが恥ずかしくって人前に出れなくなっちゃったんだって、説明してくれた」

 「その説明は、パーフェクトだね。さすが柿崎、銚子で一番の口上手」

 「異常って、病気ではないんだよね?」

 「心配しないで。病気じゃないよ」

 「それじゃあ、怪我?」

 「怪我でもないよ」

 「ニキビが出来ちゃった、とか?」

 下卑た好奇心からではなく、慈愛の憂慮によってなされる質疑。それが理解できたから、花井は答えに誠意を込めた。

 「顔面がニキビに覆いつくされたって、浜辺さんとのデートを諦めたりはしないよ」

 「それじゃあ、それじゃあ、髪の毛!」困惑して、それでも砕けた調子をキープする様は、初な少女であることの表れだった。「髪の毛、切り過ぎちゃったとか?」

 「ツルピカになったって、浜辺さんとのデートを諦めたりはしないよ」

 それじゃあなんなんだ!? と叫びたくなる衝動を抑えて、熟考する。彼が今、抱えている身体の問題・・・・・・分からない! そう、分かりっこないのだ。オナ禁によって勃起が治まらなくなっている、そんな真実に推理で辿り着ける人間など存在するわけがないのだから。ホームズやポアロやマープルが総力を結集したって、迷宮入り確定の案件なのだから。

 浜辺を不可解の迷宮から救い出す手段は、当事者の自白しかなかった。だというのに、深々と項垂れ、口をつぐんでしまう花井。全くもって度し難い。しかし、罪悪感を抱いているのだから、過度に責めるのは酷というもの。彼もまた、初な少年。

 「花井君。詮索されるのは、嫌?」未熟な推察を発揮して、口を開く。「嫌なら、私、これ以上は聞かないよ」

 思いやりに、今度は花井が追い詰められた。断崖絶壁の縁に立ち、残された道は二つ。真実を抱えて浜辺の懐に身を投げるか、真実を抱えて孤独な崖下へと身を投げるか。

 選択は困難を極め、助けを求めるかのように伸ばした指が、ドアの木肌を引っかいた。

 「大丈夫、花井君?」不快音は、不安を強めた。「どうかしたの?」

 些細な機微さえ察し、案じてくれる人がいる。ドアの向こう側に、いる。いてくれている。

 愛情に応えたい、そんな真心が脳を支配して、ようやく一歩、前に踏み出せた。

 木肌のひんやりとした涼をタートルヘッドに感じ得て、透視するような眼差しを向ければ、彼女の像が手に取るように分かった。

 「臆病の皮を脱ぎ捨てました。浜辺さん、長く不安な気持ちにさせてしまって、ごめんね。そうして、心配してくれてありがとう。僕の現状、真実を、聞いてくれますか?」

 「花井君の話なら、私、何でも聞くよ」

 危うい、生娘の発言だった。その短絡を戒めたくて、花井は語気を強めた。

 「軽はずみは危険だよ。真実とは、不浄極まりない猛毒なのだから」

 「猛毒・・・・・・」

 「そう、猛毒さ。君の純情を芯から破壊する危険性を孕んだ、猛毒さ。だから、浜辺さん。君には熟考の果てに、真実を聞くか否か、判断してほしいんだ。望まれないのであれば、僕は生涯、真実を胸の内に秘めていく」

 太陽が西に傾き始めていた。

 「聞かせて」

 果てしなく凛とした声だった。怖いもの見たさではない。ちゃんと地に足がついている。

 尊重せざるを得ない、そう判断できるだけの分別は、花井にもあった。

 「先々週の月曜日、君と付き合い始めたあの素晴らしい日から、僕は、オナ禁をしているんだ」

 真実のカタルシス、それは清潔ゆえに無慈悲な咆哮で、全幅の依存を愛する人に浴びせかけた余韻は、有する小さなサディズムをも激しく燃え上がらせた。

 強烈な情念に浸りながら、花井は浜辺の反応を、黙して待った。

 「花井君」短い沈黙が、破られた。「あなきん、って何?」

 「スカイウォーカーじゃないよ、浜辺さん!」予期しなかった反応に、サディズムは失望と共に消失し、残ったノーマルな愛情はツッコミの声をほっこりと暖めた。「オナ禁だよ、オナ禁!」

 「おなきん・・・・・・」幼い響きだった。「おなきんって、何?」

 ここでもう一度、浜辺を擁護しておきたい。今のは計算ではなく、本気です。カマトトぶる悪意なんてない。清潔な環境で育った16歳は、オナ禁なんて単語、初体験なのだから。

 浜辺がオナ禁を認知していない事実、それを無垢な声で察して、花井は言葉を失った。

 『オナ禁、その下品なワードが全人類の共有する概念であるかのように錯覚していた、浅薄! 結果として、浜辺さんを汚してしまった、許されざる非道!』心の声は饒舌だった。『大罪も甚だしい! 僕は人間じゃねえ! 万死に値する!』

 強すぎる悔恨で、少年の面持ちは激しく歪んだ。

 「ねえ、花井君。おなきん、って何のことなの?」

 重ねて問われ、再び断崖絶壁の縁に追い詰められる。残された道は二つ。真実を吐き出し心を獣に染めるか、真実を飲み込み人の心を保つか。

 「獣としての生か、人としての死か、それが疑問だ」

 そう呟いて、苦慮をする。苦慮をして、何を苦慮することがあるか! と思い至る。浜辺さんをこれ以上汚すくらいなら、僕は勃起の治まらない体で生涯を終える! と思い至る。

 「浜辺さん」儚くも力強い声が出た。「オナ禁のことは忘れて。美しい君が知るようなことではないから。浜辺さん。僕はね、僕の体はね、真っ当な社会生活を送れるものではなくなってしまったんだ。浜辺さんとも、もう、会えない。こんな淫らな体では、もう、会えない。浜辺さん。大好きだよ。大好きだから、これ以上、君を汚したくない。浜辺さん。これでもう、さようなら。ずっと、ずっと、大好きです。さようなら。さようなら」

 言い切ってから、ベッドに身を投げ、全身を掛け布団で隠す。そうして、花井は声を押し殺し、泣いた。

 残酷なまでに傷だらけな空気。それを慰めたのは、ゆっくりと開かれるドアの軋みだった。

 「花井君」

 暗闇に包まれながら聞いた声は、極楽から届く観音様の息吹みたいだった。余りにも優しい響きに、辛抱堪らなくなって、花井は泣き声を漏らした。

 浜辺は、ベッドのすぐそばに立った。

 「勝手に部屋に入って、ごめんなさい。でも、私、どうしても花井君のそばに居たかったから」

 たどたどしい思いを必死に繋ぎ合わせて言葉にする。そんな健気が染みて、花井は増々泣いた。

 「大好き、って言ってくれて、ありがとう。私も、花井君が、大好き。大好きだから、花井君のことが、知りたい。話したいこと、話さなくちゃならないこと、何でも、話して。私、花井君の言うことなら、何も怖くないから」

 花井は、涙をぬぐった。そうして、掛け布団から顔を出す。

 カーテンの隙間から入り込む陽光が、後光みたいになって、浜辺の美貌を引き上げていた。薄茶色のカットソーに真っ白なロングスカート、それらを華奢な体に纏い、学校ではポニーテールにしている髪を下して、完璧に体現するアジアンビューティー。ほのかな化粧も上手だ。元々がハイレベル、そこから更に引き上げられたのだから、美貌が神々しい域に達するのは必然だった。

 花井は、自ずと合掌していた。

 「花井君の顔だ」見詰めて、微笑む。「優しい気持ちになれて、すごく落ち着く、花井君の顔だ」

 「僕、浜辺さんと、ずっと一緒にいたい」尊い本心が、言葉になった。「大好きだから、毎日でも会いたい。浜辺さん。僕の現状を、聞いて。浜辺さんの協力がなければ、現状を打破することができないんだ」

 「聞くよ、花井君」正座して、一層と真摯な眼差しを向ける。「言って」

 「勃起しているのです」花井は、言った。「今朝からずっと、勃起が治まらないのです」

 ホッキガイのくだりがクッションになっていた。それでも、完全には吸収しきれない。正座の状態から立ち上がり後退る、その動作を1秒未満で果たした事実が、衝撃の大きさを物語っていた。

 「勃起を、知っていますか?」

 「知っています」乱れる呼吸が、声を湿らせた。「中学生のとき、性教育の授業で習いました」

 「初めて、学校教育に感謝します」

 「男の人のアレが、アレして、アレになる、アレですよね?」

 恥じらう浜辺が愛おしくて、花井は笑みを浮かべた。涙はもう、止んでいた。

 「そうです。男の人のちんちんが、陰茎海綿体に血液を溜めて、獣になる、ファンクションです」

 「どうして、どうして今、エッチな話・・・・・・」

 ここでは浜辺を擁護しない。少しだけカマトトぶっている。

 「さっき君に聞かせた、オナ禁、という悍ましいワード。あれはね、オナニー禁止、の略なんだ」女の腹の内なんて概念としてすら理解していない花井は、一語一句まで丁寧に話すのだった。「約二週間、330時間以上、僕はオナニーをしていない。それ故に、精液が溜まり切ったちんちんは猛り狂い、勃起が治まらない塩梅となって、今に至るのです。今日のデートに行けなかったのも、この場で君に下半身を見せられないのも、全ては、オナ禁の弊害」

 愛は愛ゆえに淫ら。それが真理なのだと、花井は悟った。羞恥も恐怖も愛の一部分で、それらは淫らをより濃厚な蜜に変える触媒。ならば愛する人もろとも蜜まみれになればいい。正に、simple is vestというわけだ。

 ブレーキは大破した。より素直に、より赤裸々に、より濃密に、彼女と蜜まみれになろうとする。

 「鎮めるためには、オナニーが必要です。しかし、僕にはオナニーが出来ない理由がある。その理由というのは、浜辺さん、君なんだ。君を想えばこそ、オナニーは禁忌となるんだ。エッチな動画やエッチなお姉さんの妄想を用いてオナニーを行うことは、恋人への裏切り。かといって、恋人をオカズにすることもできない。無許可であれば、一方的な性交渉に他ならないからね。こうして僕は、禁の袋小路に迷い込み、人生最高の一日になるはずだった今日という日を暗黒に染め上げて、大好きな人に痴態をさらすことと相成ったんだ。これが、真実です。嘘偽りない、僕の真実。君のことを大切にしたい、その一心で破滅を迎えた、truth story」

 発露の終わりには、凪のような静けさが広がった。

 静けさに呼応する形で、黙する浜辺の表情は何の起伏もなく、唯、果てしなく平坦な絶海の面だった。

 豪気の魔法が解けて、花井は等身大の臆病さを発揮し、受け身に回った。

 君のことを大切にしたい、そんなパワーワードを浴びてさえ、ときめかなかった浜辺。ときめかない所か、ドン引きしている。無理もない。シチュエーションが最悪すぎたのだ。

 浜辺は、賢い女だ。自ら損切りができる女だ。それでも、花井潤という株を握りしめ、笑みをしぼり出す。情にほだされた? 違う、そうじゃない。かわいい、という思いが、気持ち悪い、という思いを遥かに上回っているのだ。かわいければ何だって許せる。これは、愛の真実である。

 「率直に、言って」かわいさ余って、かわいがる。「私に、どうしてほしいの」

 マゾのサガを刺激されて、花井は物欲しそうに身をよじった。

 「オナニーの許可が、欲しいです」

 「具体的に、言って」経験豊富な三十路を思わせる声。「許可って、何」

 「浜辺さんの気持ちが知りたいです!」絶叫。「僕が他の女性を用いてオナニーをすることで、浜辺さんがどう感じるのか、知りたい! 僕が浜辺さんを用いてオナニーをすることで、浜辺さんがどう感じるのか、知りたい! 僕は、浜辺さんが傷付かない方法でオナニーがしたい! それだけなんです!」

 懸命なアリアが断末魔となって響き渡り、後にはイタチの最後っ屁ともいうべき甘えた眼差しだけが残った。

 男の懇願を見下ろして、女の瞳は初霜が降りたみたいに輝いた。

 破廉恥を覆う布団に、そっと触れる。

 妖艶な唇が、うごめいた。

 「私で、して。私だけで、して」

 花井は、勢いよく上体を起こした。ずり落ちた掛け布団が、愛の如意棒を隠すギリギリのラインで止まる。

 「今、何て?」マゾが裏返った。「もう一度、言ってみて、浜辺さん」

 「オナニー、して」サドも裏返った。「私だけで、して」

 史上最大級の、福音。鼓膜を揺さぶられて、花井の心に生じたものは、昇天を約束する翼。そうして舞い踊った幻の天空は、文字通り、天国だった。

 「ありがとう! 浜辺さん!」歓喜で、声帯が震えた。「僕、するよ! 浜辺さんで、浜辺さんだけで、するよ!」

 有言実行を地でいって、愛の如意棒を握りしめる。そのまま滑らかな成り行きで、性のピストン運動、開始。

 「何をしているの!?」ネコ科の動物並の速度で布団から手を放し、叫ぶ。「ナニをしているの!?」

 「ナニって、オナニーじゃないか」性のピストン運動、停止。「浜辺さんでしていいって言ったから」

 「違う、そうじゃない!」また裏返ったわけではない、本気の拒否だ。「私でしてって、そういう意味じゃない! 想像の私でしてって、そういう意味! 一人きりでしてって、そういう意味!」

 「そうだったの!? ごめんね! 早とちりしちゃった!」嘘は言っていない。「安心して! 今度はちゃんと理解したから!」

 そうして、見詰め合い、恥ずかし合う。

 花井の手は、未だ、愛の如意棒にそえられたまま。恥ずかしいは、気持ちいい。頬の紅潮した浜辺も、美しい。自ずとピストン運動が再開されても何ら不思議ではない状況。

 「私、帰るね」察して、言った。「それが、いいよね」

 「気を使わないで、浜辺さん」社交辞令ではなかった。「僕、速いから。一階でくつろぎながら、待ってて」

 「ありがとう。でも、やっぱり今日は帰るよ」まともな判断は、ブレなかった。「ゆっくり、やって」

 小走りで、ドアへと向かう。その後姿に、声をかけた。

 「浜辺さん」

 ノープランで呼び止めて、振り返った彼女の顔に見入れば、言葉はしぼり出すものではなく、あふれ出すものなのだと知れた。

 「来週の日曜日、僕とデートをしてください。僕も、好きな人と一緒に銚子ポートタワーからの景色を見たいんだ」

 素直な気持ちの融け込んだ空気に触れて、ほぐれた笑顔は、愛情そのものだった。

 「うん。来週、一緒に行こう」

 声も体も弾んで、彼氏の部屋を後にする。正しく、終わり良ければ総て良し、なのだった。

 可憐な残り香が、六畳の部屋を楽園に変える。花井は、深く息を吸い込んだ。

 布団を抜け出して、露になる全裸。もう、いつだってイケる。

 パソコンを、起動した。偽名を与えたエロフォルダを右クリック。

 「浜辺さんは言った。私だけで、して、って言った。僕は、浜辺さんだけで、する。浜辺さん以外の女性ですることは、この先、永遠にない。僕の精は、僕の愛は、浜辺さんだけのものだから」

 右クリックからの、削除。ゴミ箱からも、削除。弱冠16歳にして果たした、エロの断捨離。正しく、純愛だった。

 ドアが、ノックされた。

 「浜辺さん、帰ったよ」柿崎の声。「問題を共有できたんだな?」

 「できたよ」ドアを開け、握手を求めた。「全てね」

 後はもう、説明不要。手と手で通じ合う、かすかに、ん、色っぽい。

 「君が親友でよかった」これだけは、しっかりと言葉にしたかった。「君が親友でよかった」

 「俺も同じ気持ちだよ」これだけは、しっかりと言葉にしたかった。「俺も同じ気持ちだよ」

 握り合ったものを放して、同時に、はにかんだ。

 「済むまで待っているかい?」

 「いや、帰るよ。急かしてしまうのは忍びないからな」

 人間が出来すぎている、そんな親友にかけられる言葉は、もう、「リビングに龍泉堂の最中があるから、どうぞ、持って帰って」だけだった。

 「ありがたい。最高の礼だ」背を向け、手を振る。「花井。グッドナイト」

 そうして、一人きり。

 清潔な心持ちで、両膝をつく。絡めるような指で、愛の如意棒を握る。

 彼女の名をささやいて、彼女を想う。官能的な姿である必要はない、清楚な身なりで微笑む彼女を思い浮かべるだけでいい。

 これ以上は大きくなりようがないだろうと思われた愛の如意棒が、更に膨張し、その浮き上がった血管や神経の末端にまで、愛情が宿った。

 限界を超えて、ずる剥ける包皮。露も露なタートルヘッドが、思いやりの潤滑油を以てして、滑り、瞬く。

 今日という日を台無しにした下半身にさえ、得も言われぬ愛おしさを感じ得て、花井は、彼女の陰核を扱うように、自身を愛でた。

 「君を想うは、自らを想うと同義」

 もっともらしい真理を吐き出して、真っ白になる。快感に心身を委ねるだけになる。彼女の名を叫び続けながら。

 欲望に支配されながらも、手先が秩序を損なうことはなく、くちゃくちゃと奏でる性の音色は、フィニッシュの呼び水として純粋な役割を果たした。

 一際大きな声が出て、放たれたのは、熱情。

 ティッシュなど間に合おうはずもなく、空を舞ったそれは、微塵の汚れも有していなかった。

 愛を放出し、それでいて、愛に満たされる、矛盾。男性らしからぬ心境を持て余し、訪れない賢者タイムに困惑し、それでも、浜辺への愛情が強まっていくことは、嬉しかった。

 慈しむようにして、愛の如意棒を見下ろす。縮み、萎み、タートルヘッドは包皮のなか。もはや魔獣とは呼べない、無垢な子ウサギのよう。

 橙色の光に目を向ければ、狂おしいほどに明日が待ち遠しく、会いたい、逢いたい、そう願えば自ずと、陰のうの皺をなぞっていた。

 二回戦があるのは、必然。三回戦、四回戦と続くのも、また必然。今宵、催されるのは、奇跡の七連戦。

 いずれ、精は枯れる。しかし、浜辺への愛が枯れることは永久にない。長い夜を迎え、花井はそう確信できた。

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