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変態紳士によろしく  作者: はんすけ
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第7話 禁欲の代償

 失った幸福を指折り数える・・・・・・優しげに揺らめく銚子電鉄の車両をゴンドラに見立て、ヴェネツィアと遜色ない千葉県北東部の景観を浜辺と楽しむはずだった幸福・・・・・・明神町を練り歩き、港の色香が強まっていくなか、足音と声音の絶え間ない重なりが不意に恥ずかしくなって、同時にはにかむはずだった幸福・・・・・・銚子漁港に水揚げされた活きの良い魚介類、その豊かな海の恵みを用いて、あーん、をし合うはずだった幸福・・・・・・ウオッセ21を散策し、夫婦ケ鼻層を前に悠久の時を思い、僕たちの関係もこの地層みたいに愛を積み重ねていけますように、と一緒に願うはずだった幸福・・・・・・銚子ポートタワーからの展望に刺激されたロマンスを糧に寄り添い、昂った情愛を持て余し、水平線が太陽を飲み込んだ瞬間、生まれたての闇に隠れて初な口付けを交わすはずだった幸福・・・・・・指折り数えて、出来上がったこぶしを涙でぬらす。悔恨が源泉だから、どれほど泣こうとも、涙が枯れることはなかった。デートのドタキャン、その連絡を浜辺に入れてから四時間が経過していた。

 朝から何も口にしていない。それでいて、空腹も渇きも感じることはなかった。摂食中枢および摂水中枢に異常を来すほど、花井の心身は活力を失っていた。唯一か所、愛の如意棒を除いては。

 未だ治まらぬ、勃起。浜辺とのデートをご破算にした、この憎むべき現象に、花井は恐怖を抱きつつあった。

 布団に潜り込み、がたがたと震える。これほどまでに強い恐怖を感じるのは、中二の長夜にシャイニングを観たとき以来だ。

 「狂った魔獣を股間に飼う。いつまで続くかも分からない魔獣との共同生活。その魔獣さえ、いずれ僕の手を噛むかも」

 掛け布団を帳にした暗闇は、無限に続く悪夢のよう。

 恐怖と向き合い続けていれば、いずれ恐怖を克服することが出来る。そんな根性論、もうやめましょうよ!!! 心がもったいない!!!! コビーの情念論、それを、花井にも聞かせてやりたい。

 逃れなければ終わらない、恐怖。そんなものと四つに組んでしまった、悲劇。思考回路はハッキョウ寸前、今すぐ救われたいよ。しかし、救いなど・・・・・・あった。救いは、あった。布団からのぞいた顔の、悲哀に満ちた表情が、それを物語っている。

 例えば、鞭で打たれたとしよう。当然、痛みがある。その痛みをかき消すものは何か? そう、快感だ。異なる感覚によって状態が上書きされる、人間の真理。であるからして、花井の恐怖をかき消したものは、悲しみなのだった。

 「浜辺さん。僕、こんな体では、もう二度と、君に会えない。デートの約束、守れなくてごめんね」

 無想転生の境地よりも遥かに深い悲しみ。下半身のトラブルよりも、愛する彼女のほうが、大事。他者を思うは、孤独ではないという証明。断言しよう。救いとは、愛だ。

 「君を思い、魔獣と共に眠ろう」

 到達した、絶望的な安楽に思考をゆだね、花井はそっと目をつぶった。

 逃避の惰眠、その深い沼に片足を突っ込んだころ、スマホが鳴った。

 越冬を邪魔された亀みたいな体で布団から這い出し、スマホを手に取り、発信者を確認することなく通話に応じる。

 「よう、花井」スマホから聞こえてきたのは、柿崎の声だった。「今、君ヶ浜駅の近くで福原と和田さんに会ってさ。それで、お前も誘ってこれから四人で銚子ボウルに行こうって話になったんだけど、都合はどうだ?」

 慣れ親しんだ親友の落ち着いた声に、甘えん坊な心根を刺激され、花井は己の弱さをさらけ出した。

 「助けて。柿崎」

 それだけ言って電話を切る、小悪魔スタイル。

 花井は、再び布団に潜った。

 閑静な住宅街に、道行くカップルの笑い声が響いた。情交の色濃い声音に嫉妬を覚えて、花井は強く唇を噛み、心に思い浮かべる浜辺の偶像を慰めにして、無情な現実を耐え忍んだ。

 笑い声が聞こえなくなってからは、ひたすらに無音で、その澄んだ空間は、時の過ぎ去る残酷を浮き彫りにした。

 暑いくらいの陽気で、部屋中に照り返る光は、やがてサンスベリアまで届いた。春は、もう過去。ぬくい布団に毛玉が踊る。

 ドアチャイムが、鳴る。何度も何度も、執拗に。

 来ると分かっていたから、一階に降りてインターホンのモニターを見ても驚いたりはしなかった。

 「柿崎・・・・・・」モニターに映る必死な形相に、吐息を吹き掛ける。「柿崎・・・・・・」

 献身的な友情、その甘い芳香に誘われて、サンダルをつっかける。

 玄関のひんやりとした空気に、露出したままの愛の如意棒が刺激された。

 「来てくれたんだね、柿崎」玄関ドアを挟んだまま、言う。「嬉しいよ」

 自分の声が余りにも幼くて、顔に熱を帯びる。

 「あんなことを言われたら、駆け付けるしかないだろ」乱れた呼吸を整えながら、緊迫感を露にする。「大丈夫なのか、花井?」

 『僕は史上最悪レベルのかまってちゃんだ!』そういう自覚は、あった。『こんなにも柿崎に心配をかけて!』

 今更の、罪悪感。それでも甘える姿勢を崩さない、愛され気質。

 「心配してくれて、ありがとう」

 「礼なんていい。何があった?」

 「デリケートな問題が生じているだけさ」

 「姿を見せられないのは、そのデリケートな問題のせいか? ドアを開けるのは難しそうか?」

 良心で駆け付けてくれた親友に対して、門戸を閉ざしたままという不義理の極み。それで平然としていられるほど花井は薄情な人間ではない。その証拠に、もうサムターンに触れている。

 「僕は今、えげつないほど卑猥な姿をしている」指先を震わせながら、声まで震える。「君の目と心の安全は保障できない。それでも、このドアが開かれることを望むかい?」

 「愚問だな。鬼が出ようが蛇が出ようが構わない」

 そうして、亀が出た。

 外気に直に触れ、一層と猛り立つ愛の如意棒。そんな文字通りの恥部に注がれる柿崎の眼差しは、澄み渡るほど冷静で、花井のサガに妖しい快感を過らせたのだった。

 「僕のパトスを見てくれ。こいつをどう思う?」

 「今にも火を噴きそうだ」悪乗りなんてしない。「まるっきりファンタジーだ」

 柿崎が前進して、花井が後退する。

 玄関ドアを閉め、そのまま鍵も閉める。そういった動作の最中も、柿崎は愛の如意棒から目を離さなかった。

 透視能力を有しているかのような目に、恥骨まで視姦されている錯覚を抱き、花井は羞恥に悶えた。

 「親父さんとお袋さん、それと陽菜ちゃんは留守か?」

 「留守でなくちゃ、こんな格好で玄関までこれないよ」

 「お前なら有り得なくもないと思って聞いたんだ」

 「僕を何だと思っているのさ?」

 「変態」

 そんな意地悪をイケボで言われたら、ぞくぞくせずにはいられない。

 「家族が留守とはいえ、そんな有様ではリビングでおしゃべりというわけにもいくまい」柿崎は靴を脱ぎ、上がり框を越えた。「お前の部屋で事情を聞く」

 柿崎が階段を上がっていく。花井はその後に続いた。

 自室にて、向かい合う。花井はベッドに座り、柿崎は椅子に腰掛ける。まぶしくて、カーテンは既に閉じていた。人口の淡い光に満ちた六畳の密室。柿崎の常軌を逸した色気がこもって、花井の頬を一筋の汗がつたった。

 「早速、そいつの話をしよう」柿崎は愛の如意棒を指差した。「尋常ならざる膨張を果たした、じゃじゃ馬の話を」

 単刀直入な物言いに恥じらう権利を奪われて、花井はすんなりと真実を打ち明けた。

 「今朝から、勃起が治まらないんだ」そう口にしただけで、感情が激しく渦を巻いた。「今日は浜辺さんとデートの約束があったのに、勃起が治まらなくて、行けなかった! ドタキャンという取り返しのつかない無礼を働いてしまった! 浜辺さん、ごめんね! 許して!」

 パニックは涙腺を刺激する特上のスパイスで、涙は滝のように流れた。

 ベッドが、軋んだ。柿崎が花井の隣に座ったのだ。

 柿崎は、花井の背中をさすり、「落ち着け、花井。まずは勃起を何とかしよう」と優しく声をかけた。

 根気強い慰め、それが功を奏して、花井は二分ほどで泣き止んだ。

 「持続勃起症、という疾患がある」椅子に座り直して、言う。「それであるならば、今すぐ泌尿器科を受診しなくてはならない。治療が遅れれば遅れるほど、後遺症の残る可能性が高まるからだ」

 花井の顔が青ざめた。

 「痛みはあるのか?」

 花井は首を横に振った。

 「勃起の持続時間は?」

 「ニ十分くらい勃起して、ブレイクタイムを二分くらい挟んで、またニ十分くらい勃起する。それの繰り返し」

 腕を組み、うなる。

 「どちらも持続勃起症のスタンダードな症状とは一致しないな」

 「それなら、僕のこれは、何なの?」

 「あくまで、推測だが」

 「推測だが?」

 柿崎は、長い脚を組むなどして、悪戯に解を引き延ばした。

 「焦らさないで、教えて!」

 「オナ禁による、精子のキャパシティオーバー」

 上品な絖を思わせる柿崎の口、そこから飛び出したパワーワードに面食らった花井は、「精子のキャパシティオーバー」とオウム返しをした。

 「いや、オナ禁などと、有り得ない話か」今日、初めて、笑顔を花井に見せる。「生粋のオナニストであるお前が、オナ禁などするはずがない。出来るはずがない」

 盛りのついた猿あつかいを受けて、反抗心が沸いて、「僕、してるよ、オナ禁」と言った声には刺があった。

 「している? オナ禁を? あの花井が?」

 「しているよ。オナ禁を。この僕が」

 常日頃から冷静沈着な柿崎の、狼狽える様が愉快で、花井は満足気に笑った。

 「何日目だ?」滴る冷や汗をぬぐいながら、言う。「オナ禁」

 「浜辺さんと付き合い始めた日からだから、今日で十四日目だね」

 「二週間も!」叫んで、勢いよく立ち上がる。「馬鹿野郎! 金玉が爆発するぞ!」

 唐突に怒鳴られて、再び面食らった花井は、「金玉が爆発する」とオウム返しをした。

 徐に、姿見に目を向けた柿崎は、取り乱す己の姿を認識して、美しい切れ長の目、その目尻をそっとなぞり、深呼吸をした。

 「怒鳴ったりして、すまない」ゆっくりと、座り直す。「冷静さを失った」

 「君がそこまで取り乱すほど、オナ禁とは危険な行為なのかい?」恐々としながら尋ねる。「僕、初めてだから」

 「個人差が激しく存在する事柄である以上、一概に危険とは言えない」

 「個人差?」

 「常日頃からオナニーの回数を調整している男や、もともと性欲の弱い男ならば、十日ほどの無理のないオナ禁によって社会生活におけるパフォーマンスを向上させることが出来る。しかし、毎日オナニーに耽っていたような男が十日以上もオナ禁をすれば、心身に異常を来すこととなる」

 「僕は、僕は」

 「心身に異常を来している。その股間が、証拠だ」

 真実とは、得てして悲しいもの。花井は深く俯いた。

 「オナニーは男の生理だ」柿崎が言った。「生理とはサイクルだ。男の場合、そのサイクルの個人差が極端に大きい。五日に一回射精することがベストなサイクルである男がいる一方で、毎日射精をすることがベストなサイクルである男もいる。サイクルが乱れたならば、心身に異常を来すのは必然。自分に適した射精のサイクルを見極め、適時適度にオナニーをしていくことは健康管理の一環と知れ」

 躊躇ない断定口調に気圧されて、花井はうなった。

 「二週間のオナ禁、それは花井潤という男にとって究極の乱れ。治まらぬ勃起は、正しく、禁欲の代償」

 「それじゃあ、この魔獣を鎮める手段は・・・・・・」分かり切っていて、聞く。

 「精巣上体に溜まった毒を抜け、花井」

 「もっと、もっと具体的に・・・・・・」

 「禁を解き、金を解き放て!」

 これ以上、親友の口を汚すほど、無情ではなかった。

 永遠に思われた股間の悪夢、そこに兆した唯一の希望、自慰。

 希望をつかむために伸ばした手が、つかむ寸前で、止まる。やがて、その手は希望から遠ざかり、悪夢の淵へと戻っていった。

 「何を躊躇している? 俺の目をはばかるほど初ではあるまい」

 「出来ない、柿崎」両手で頭を抱える。「出来ないよ」

 予想だにしなかった展開。すぐさまイくものだとばかり思っていた。俺がしごいてやるしかないのか? という危険な考えが脳裏を過ぎる。しかし、それが親友の境界線を越えた先にある行為であることくらい、理解できていた。

 このような事態に至ってさえ、柿崎は冷静なのだった。そうして始まる、推測。冴え渡る、思考。

 「浜辺さんが、関係している」名探偵、柿崎であった。「浜辺さんと付き合い始めた日からオナ禁をしていると、お前は言った」

 ずばり真実を言い当てられ、崖っぷちで船越栄一郎に詰められているかのような気分になり、花井はすらすらと真実を語り出した。

 「オナニーにはオカズが必要だ。パソコンのデータにしろ、妄想にしろ、オカズは女性だ。浜辺さん以外の女性だ。すなわち、オナニーは裏切り行為だ。浮気だ」

 花井が言い切ると、今度は柿崎が両手で頭を抱えた。

 「馬鹿な・・・・・・」

 「そうさ! 馬鹿さ!」勢いよく立ち上がる。「浜辺さんを裏切らないためにオナ禁をして、結果、デートのドタキャンで浜辺さんを裏切ってしまった僕は、大馬鹿さ! 愚の権化、花井潤、ここにあり! さあ、笑ってよ、柿崎! 僕を笑って罵って! 柿崎! 笑ってくれ!」

 「笑いやしないさ」立ち上がり、嘲りの微塵もない目で花井を見下ろす。「迷走しているとはいえ、付き合っている子のことを真剣に考えているお前を、笑いやしない」

 優しい言葉が身に染みて、いきり立った感情はなだめられた。

 「興奮してしまって、ごめんね」

 花井はベッドに座り直した。

 無造作に視線を落として、カーペットに絡まる一本の毛をつまみ、それをゴミ箱に捨てる、柿崎。

 「浜辺さん以外の女性をオカズにすることが後ろめたいなら」出し抜けに、言った。「浜辺さんをオカズにすればいい」

 「君の血は何色だ!?」感情の起伏、その激しさを表すように、立ち上がる。「浜辺さんをオカズにしろなどと、よくもまあ言えたものだね! 清純な浜辺さんを辱めろなどと、よくもまあ言えたものだね!」

 「浜辺さんを辱める必要などない」飽くまで冷静な柿崎。「彼女のプラトニックな姿を思い浮かべ、恋慕の情だけを以てして射精すればいい。一切の淫らを排して臨むオナニーであれば、罪はない」

 まるで徳の高い僧のありがたいお言葉だった。柿崎に後光が差して見え、花井は思わず合掌した。

 「一切の淫らを排したならば、オナニーでさえ、プラトニックラブ」

 「悟りを開いたな」柿崎は微笑んだ。「花井! イけ!」

 両目を閉じて、愛する人を思い浮かべる。よく見知った、君ヶ浜高等学校の制服に身を包んだ浜辺娃。優しい笑みをたたえた、日常の1ページを切り取ったかのような、幻。それだけで、花井の愛情は、膨れた。

 「さらにデカくなりやがった!」

 聞こえてきた柿崎の驚嘆さえ、すぐに消え去って、花井の全てはプラトニック一色に染まった。

 子犬の頭をなでるかのような手付きで、愛の如意棒を握る。脈打つ純真な愛情を手に感じて、なおも慈愛の念が強まった。後は、手慣れたピストン運動を行えば、全てが終わる。そんな最終局面で、花井の手は、動かなかった。

 「何でだ!?」柿崎の悲痛な声。「しごけ! 一思いにしごけ!」

 「出来ない・・・・・・」花井は、両膝をつき、両手もついて、四つん這いになった。「出来ないよ・・・・・・」

 こぼれた一粒の涙が、カーペットに染みを作った。その儚い染みに、浜辺の瞳を重ねる。

 「断りもなく浜辺さんをオカズにすることは、例えプラトニックな幻を用いたとしても、一方的な性交渉に他ならない。僕は、浜辺さんのことが、本当に好きなんだ。彼女が、大事なんだ」

 「そこまで、思っているのか」柿崎は花井の背中を優しくさすった。「幸せだな、浜辺さんは」

 艱難辛苦の末に、ソポクレスも真っ青な展開に陥って、二人の気力はいよいよ尽き果てようとしていた。

 「花井」声が、こぼれた。「最後の提案がある」

 うつろな目で、見上げる。

 柿崎は、大きく息を吸い、吐き出す勢いそのままに、「浜辺さんに相談しろ」と言った。

 耳を疑い、ふらふらと立ち上がる。

 片膝をついていたため、ちょうど目の前に愛の如意棒がきた。それから目を逸らすことなく、柿崎は口を開いた。

 「正直に話すんだ。浜辺さんに、お前の現状を」

 「無茶苦茶だ!」絶叫。「オナ禁で勃起が治まらない、そんな珍事を聞かされた浜辺さんがどれだけ不快な気持ちになるか、考えてみろ、柿崎!」

 「落ち着け」

 柿崎が伸ばした手を、花井は払いのけた。

 「見損なったよ! 女の子に不快な思いをさせるようなことを提案するなんて! 君は人の皮を被った獣だ!」

 「恋愛とはコミュニケーションだ」罵倒を物ともせず、柿崎は澄んだ声を出した。「デリケートな問題であれ、セクシュアルな問題であれ、パートナーと問題を共有することが、恋愛だ。問題を一人で抱え込むことは、それこそ、パートナーへの裏切りに等しい。どれほどの痛みを伴おうとも、正直に伝えることこそが、誠意だ」

 柿崎は花井同様、童貞だった。しかし、彼の発言には説得力があった。これは、否定できない。

 「コミュニケーションを怠ったならば、恋愛は惰性に成り果てる。共有されることのなかった問題は、惰性の内で着実に燻り続け、些細な不和をきっかけに激しく燃え上がり、全てを焼き尽くす。花井。相手に伝えるという行為を決して軽んじるな。決して恥じるな。決して恐れるな。お前が抱える下半身の問題は、浜辺さんの問題でもあるのだから」

 愛の伝道師と化した柿崎。その熱弁は、花井の心をつかんだ。

 「真実を伝えた先に、僕は何を求めればいいのでしょうか?」自ずと、敬語になる。「浜辺さんに、何を求めればいいのでしょうか?」

 「お前は何を望んでいる?」

 質問を質問で返されて、それが苦になることもなく、素直な気持ちを答える。

 「オナニーの許しが欲しい」

 柿崎は、微笑み、花井の肩にそっと手を置いた。

 決心は癒しの霊水で、疲弊を取り除き、活力を漲らせる。花井はもう、スマホを手に取っていた。

 「今から、電話をするよ。デートをドタキャンしてしまった理由、ちんちんの問題を、浜辺さんとシェアする」

 ラインアプリを開いた、その瞬間に、ドアチャイムが鳴った。

 「そんな姿では来客に対応できないだろう。俺が代わりに対応してくるよ」

 「何から何まで悪いね」そう言って、急に心細くなる。「柿崎が帰ってきてから電話するのでは、駄目かな?」

 こういうところが、かわいくて仕方ないのだった。面倒見が良い悪癖で、柿崎の顔は綻んだ。

 「気持ちを整えておけよ。俺が戻ったら、電話だ」

 柿崎が部屋を出て、花井は、カーペットの上で座禅を組んだ。言われるがまま、気持ちを整えようというのだ。

 全ては、浜辺とのラブコミュニケーションを可能にする精神状態へと到達するために・・・・・・座禅は、続いた。

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