第6話 魔獣
日曜日の午前十時四十分に海鹿島駅前で落ち合い、銚子電鉄を利用して笠上黒生駅へ移動、そこから徒歩でウオッセ21を目指し、到着したら昼食、後に夫婦ヶ鼻公園を散策して、フィニッシュは、銚子ポートタワーからのオーシャンビュー。そんなデートプランを、花井と浜辺は通話でのやり取りで取り決めていた。
「銚子ポートタワーには、引っ越してきたばかりのころに家族で行ったことがあるの。展望室からの景色がとても綺麗で、私、そのときに思ったんだ。次は好きな人と一緒にこの景色を見たい、って」
スマホ越しに耳を愛撫され、花井は地元の観光地に対する無頓着を易々と払拭し、銚子ポートタワーをスカイツリーと錯覚したかのような興奮を以て、「楽しみだね! 二日後が待ちきれないよ!」と歓喜の声を上げた。
自室の窓からのぞく月夜の移ろいに、愛しい人の幻影を浮かべる。幻影を月光が照らせば、影絵のようになって、シルエットは艶めかしく夜空を舞った。
夢想をむさぼりながら享楽する至福は、夜が更けていくほどに幸福の度合いを強めた。
まだ若く、話題には限りがある。それでも、どれだけ言葉を交わらせようとも、声が枯渇することはなかった。
恋の奇跡で成り立つ矛盾を素直に享受して、二人は恋愛を謳歌した。
夜の逢引きともいえる通話は、高校生の倫理観が許す限り続いた。
土曜日。ロッキーシリーズ上映会と銘打った催しが、井上の家にて行われた。それに出席した花井は、柿崎、島田、井上とともに六畳の部屋にこもった。
島田は、1だけで四回泣いて、4では嗚咽の余り過呼吸に陥る有様だった。井上も、「立て! ロッキー!」と叫びすぎて、5のころにはもう声が枯れている始末だった。
花井はというと、狂気の空間に身を置きながらも心ここにあらずで、感動を禁じ得ない名シーンの数々に目もくれず、唯、明日のデートを思い、桃源郷と化した内なる世界に浸り続けていた。
早朝から始まった上映会は、六作品を完走して、予定通りに夕方で終了した。二次会のクリードシリーズ上映会は、井上と島田だけが参加することとなり、花井と柿崎は帰路についた。
銚子駅への道すがら、二人は妙福寺に立ち寄り、その境内にある藤棚を観賞した。盛りを過ぎてなお、アメジストの数珠つなぎともいうべき房は美しかった。見入って、花井は浜辺を思い、「君の愛に酔う」とささやいた。
「誰の愛に酔っている」柿崎が言った。夕日を背に立ち、完璧なプロポーションが際立っている。「今日に限らず、ここ二週間くらいずっと、お前は心ここにあらずといった具合だ。恋に、酔っているんだろ」
ずばり真実を言い当てられて、うろたえながら、「どうして分かったの?」と返す。
「親友だ。分かるさ」
これ以上は隠し通せない、そう悟った花井は、「クラスメイトの、浜辺娃さんに酔っているんだ」と白状した。
柿崎は、整ったポーカーフェイスを少し歪め、「水臭いな」となじった。
「ごめん。彼女のいない君に対して彼女が出来たと報告することは、酷な気がして、言えなかった」
「くだらない気を使うなよ・・・・・・」
豊かな前髪をかきあげ、大きく息を吐く。それから、花井に歩み寄り、肩を軽く叩いて、微笑んだ。
「これからは、喜ばしいニュースはすぐに伝えてくれよ。お前がハッピーになるニュースを聞けば、俺もハッピーになるんだから」
花井に男色の気があったならば、迷わず全裸となり、柿崎の胸へ飛び込んだことだろう。それほどまでに、柿崎はいい男が過ぎた。
「ありがとう」ありったけの親愛を込めて、言う。「これからは、何でも話すよ」
風が吹いて、藤がさざめき、その花の音は健やかだった。こんなにも素晴らしい音色が存在する世界に生きていて、その上、愛しい恋人がいて、気の置けない友人もいる。恵まれていることを自覚して、抱いた念は偏に、感謝だった。
帰宅して、家族四人、食卓を囲む。主菜の、サザエのガーリックバター醤油焼きが放つ香ばしい香りに食欲を刺激され、花井はがっつくようにして胃袋を満たしていった。
「明日の九十九里観光、楽しみね」幾つか皿が空いたころ、佳織は言った。
「明日は朝の八時までに家を出るからね」と智昭が言って、陽菜が、「はーい」と返事をした。
花井は、話の旨が理解できず、首をかしげた。そうして、「明日の九十九里観光って、一体全体何の話?」と問うと、佳織は呆れたような顔をして、「明日は家族で出かけるって、前から決めてたじゃない」と言った。
ここに至ってようやく、二週間前から予定に入っていた家族旅行の件を思い出す花井だった。
花井は、両手を胸の前で振った。
「ごめんなさい。明日は別の予定を入れちゃった。僕抜きで行ってきて」
「そうなの? 残念」佳織は本当に残念がった。「潤。別の予定って、柿崎君と遊ぶの?」
「違うよ。明日は浜辺さんとデートなんだ」
そんな一言にさえ浜辺への強い愛情がにじみ出ていて、佳織の表情は陰った。
「浜辺さんて・・・・・・」自覚できないほど小さな嫉妬心が、声にとげを作っていた。「ちんちん、の子よね」
「やだな、母さん」花井は笑った。「浜辺さんにちんちんを見せてって言ったのは、もう二週間近くも前の話じゃないか。浜辺さんだってその件はとっくに許してくれているし、いつまでも古い失敗談を持ち出さないでよ」
「そんな馬鹿なことを言う兄とか、本当に最悪」陽菜は乱暴に席を立った。「ごちそうさまでした」
「応援するよ」陽菜がダイニングを出て行ってから、智昭は厳粛な声で言った。「潤と浜辺さんのこと、私は応援する」
「私だって、応援してる!」取り繕えないものを取り繕うとして、佳織は前のめりになった。「潤! お母さんも応援してるからね!」
「ありがとう。父さん、母さん」不自然に対する、安定の鈍感だった。「産んでくれて、ありがとう」
背中を押されて、俄然、活力がみなぎった。決戦は日曜日。選挙より尊い逢引きがそこにはある。
奮い立ち、席を立ち、バスルームへ。熱心に、くさいところが残らないように、体を清める。
入浴後は、歯をみがき、自室へ。まだ二十時だが、寝床に入り目をつむる。
「明日は絶対に寝過ごせないぞ。待ち合わせ時刻の三十分前には現地入りして、浜辺さんの到着を座して待たねばならないのだから。それが紳士の務めだからね」
そうつぶやいて、しかし眠りへの誘いは見つけられず、目蓋の裏を延々と見詰め、期待と興奮を持て余しながら、歓喜に湧く体を無理矢理に横たえ続ける。
夜のとばりが移ろいで、ようやく訪れた眠りは、健やかだった。楽しいことしか知らない子犬みたいな、花井の寝顔だった。
甘美な夢の残影にしゃぶりつき、布団の温もりに体をくねらせながら、花井はスズメのさえずりとノックの音を同時に聞いた。
「潤? 起きてる!?」佳織の声だった。「お母さんたち、もう出かけるからね! 朝ごはん、ラップしてあるから、ちゃんと食べて出掛けなさいね!」
夢現で、上体を起こす。大きなあくびをしながら、時計を見る。少し肌寒い朝で、布団から出るのには時間を有した。
カーテンを開ける。陽光に眩しさを覚え、目を伏せる。眼下に見えた車は、智昭の安全運転で、住宅地を亀のように進んでいった。
眩しさに目が慣れて、見上げた晴天に喜びが爆発し、眠気は消え去った。
「今日、これから、僕は浜辺さんとデートをする」
つぶやくだけで、全身に活力がみなぎった。花井は、即興でダンスを踊り、その激しい舞は五分ほどノンストップで続いた。
舞い終えたころ、尿意を催す。「しっこ、しっこ」と調子のよい声を出しながら、トイレに向かう。
便器の前に立ち、便座を上げ、下半身を露出する。そうして、目に映った魔獣の姿に、花井は悲鳴を上げた。
「なんじゃあこりゃああ!」
過去に類を見ないほど膨張した、噴火寸前の活火山といった出で立ちの、それ。
「なんじゃあこりゃああ!」
魔獣、元い、愛の如意棒は、露出したタートルヘッドで天を穿とうとするかのように、よどみなく猛っていた。
「朝立ち?」という声が自ずとこぼれるも、すぐに、「こんな凄まじい朝立ちがあるか!」と自ら否定する。そうして、理解の及ばない状態に呆然とし、花井は立ち尽くした。
悪戯に時間が過ぎて、唯、尿意だけが増していく。
尿意に危機感を刺激され、自身のほうけた脳髄に鞭を打ち、窮地を脱するべく思考を働かせる。
『このままおしっこをしたら、お腹どころか顔にまでかかっちゃう! 何とか先っぽを便器に向けないと!』
言うが早いか、愛の如意棒をにぎり、下に引こうとする。
「びくともしない!?」その言葉通り、いくら力を入れても全く動かない。「硬くて堅くて固くて、まるで鉄の棒だ!」
力尽くでの現状打破は不可能と判断した花井は、柔軟な思考を以て、押して駄目なら引いてみろ、と方針の大胆な転換を図った。
「母さんの姿を思い浮かべるぞ!」
得てして、猛った愛の如意棒というものは、母親の姿一つで簡単に鎮まるものなのだ。それが真理であるという確証を、花井は実績によって得ている。過去に何度も、女子との接触中、件の方法で危機を回避してきたのだから。
有言実行、佳織の姿を思い浮かべ、花井は事態の収束を確信した。しかし、愛の如意棒は一向に萎えなかった。
「何なの!?」過去の経験則が無に帰して、狼狽する。「何なの、このちんちん!? 僕のちんちんのくせに、どうして僕の思い通りにならないの!? 鎮まれ! 鎮まれ! 鎮まってよ、もう!」
膀胱の決壊が迫る、焦燥。追い詰められ、切羽詰まり、それでも、諦めない。花井潤、十六歳。座右の銘が、「あきらめんなよ・・・・・・(以下略)」である以上、思考を止めない。その精神性が、妙案への架け橋となった。
「一輪挿しだ!」
声を上げ、トイレを出て、可能な限り膀胱を刺激しない足取りでリビングへ向かい、キャビネットに置かれているカーネーションが挿さったロングサイズの一輪挿しを手に取った。それから、バスルームへ向かい、カーネーションを優しく抜き取り、中の水は排水溝に捨て、空になった一輪挿しを愛の如意棒にあてがう。
「駄目だ! これじゃあ垂れてきちゃう!」
一輪挿しを尿瓶代わりに使おうという公明もびっくりな策、その欠陥が露になって、万策尽きる。
シジミ漁に勤しむ人の声が遠のいて、全てをあきらめた。ふて寝するかのように、冷たいタイルで仰向けになる。そうして、花井は人体の神秘を見た。
「これだ!」九死に一生を得て、叫ぶ。「これなら垂れない、こぼれない!」
カリン様のところから神様のところへと伸びるような如意棒も、横に倒れれば水平なのだ。確かに、これなら垂れない、こぼれない。
本来であれば、赤面してしまって排尿どころではないトイレスタイル。それが、すんなりと、しっくりきてしまう強心臓。微塵の躊躇もなく、花井は膀胱の堰を切った。
筆者が尊敬してやまない漫画家、甘詰留太先生は著書にこう記している。「出すことは無条件で心地いいのだ!」と。正にその金言は真実であったと、花井の反応が物語っていた。
激しいしぶきが一輪挿しを内側から打ち鳴らし、和音を奏でるように善がり声が漏れる。ちかちかと火花が散り乱れ、手足が小刻みに震えた。豊かな湧き水は、尿道を愛撫し、心までをも愛撫する。やがて力みが取り除かれ、訪れる弛緩は、ローションのゆりかごに身を浸すがごとく、エロスだった。
一輪挿しの容量、その八割ほどを満たして、花井の尿は尽きた。
快楽の余韻にふやける肉体を起こし、尿の入った一輪挿しをトイレまで持っていき、中身を流す。それから、入念に水洗いをして、カーネーションを挿し直し、一息ついて、徐に、隆起したままの下半身を見下ろして、絶望する。
一難去ってまた一難、ではない。根本的な問題を解決しなければ、難は無限に続くもの。いかにして魔獣を鎮めるか、それが問題だ。だというのに、花井、冷めたハムエッグをチンしだす、まさかの棚上げ。朝食を食べている間に自然と鎮まるだろうという、楽観。
楽観、それ自体は否定されるものではないだろう。なにせ悲しみの多い世界だ。シビアなだけでは長生きできない。それでも、それでもだ。限度というものがある。朝食が終わった、朝シャンをしている間に自然と鎮まるだろう、朝シャンが終わった、ムダ毛の処理をしている間に自然と鎮まるだろう、ムダ毛の処理が終わった、歯磨きをしている間に自然と鎮まるだろう、歯磨きが終わった、髪型を整えている間に・・・・・・限度というものがある!
案の定、時の無慈悲に押しつぶされて、出来ることはもう、祈ることしかなくなっていた。
「何か、何かの神様。どの神様でもよろしいのです。魔獣を鎮めてください」無宗教な人間の、無為だった。「もうすぐ十時になっちゃうから!」
時もない、救いもない、苦境。
藁にもすがる思いで、緩めのボトムスなら隠せるかもしれない、という浅ましい考えを閃く。
ガウチョパンツをはき、淡い希望を抱きながら、姿見に自身を映す。
「だめだこりゃ!」
映った痴態に、絶叫した。ゆったりなはき心地を物ともせず、テントは立派に張られていた。
「キャンプに行くわけでもあるまいし、こんなテントを持参したら、変態だと思われて、浜辺さんに嫌われちゃうよ! そもそも、公道を歩いた時点で補導されちゃうよ!」
乱雑にガウチョパンツを脱ぎ捨てる。ついでにトランクスも脱ぎ捨てる。
花井は、四つん這いになった。地獄の袋小路、そんな形容がぴったりの絵面だった。
十時を、回った。諦めの境地で、花井は、スマホを手に取った。
短い呼出音の後、浜辺の意気揚々とした声が聞こえて、心は痛んだ。
「もう、お家、出ちゃった?」
「これから出ようとしていたところだよ」浜辺の声に憂いが差した。「大丈夫、花井君? 泣いているの?」
「泣いてなんかないよ」泣いていた。「泣いたりするもんですか」
「本当に、大丈夫?」
会話を長引かせた分だけ浜辺に心労をかける、そう判断できたから、花井は単刀直入に切り出した。
「ごめんね、浜辺さん。僕、今日のデート、行けなくなっちゃったんだ。本当に、ごめんね」
断腸の思いで発した声は、哀れなまでに儚く響いて、虚空に溶けた。
初デートを、ドタキャンする。それは余りにも重たい十字架で、花井の精神は埋没した。
「ごめんなさい!」謝罪を叫ぶことしか、もう出来なかった。「ごめんなさい!」
「そんなに謝らないで、花井君。行けなくなっちゃったのは、しょうがないことなんだから」行けなくなった理由、それを聞き出したい欲求に駆られるも、嫌われたくない一心で、理解ある彼女を演じる。「デートはまた今度にすればいいんだから、気にしないで」
示される理解、それが一入、傷心に染みた。
花井は、喘いだ。
「元気、なの?」
言われて、下半身を見下ろした。
「心配しないで、浜辺さん。とても元気だよ」
「それなら、いいの」
優しさに、居たたまれなくなって、「今日は本当にごめんね。それじゃあ、もう切るね」と口走る。
消沈をひた隠す、「うん。またね」の声に後ろ髪を引かれながら、花井は電話を切った。
スマホのボディに人の温もりが宿ろうはずもなく、それを分かっていてさえ、浜辺の余韻欲しさにスマホを抱く。そうして、無機質なディスプレイに、凍えた。
立ち上がり、姿見を直視する。主が沈み切ってさえ、魔獣は鎮まる気配すら見せない。
「おまえ、なんなんだよ!!」
涙は、悲劇の味がした。
オナ禁、十四日目。苦難の日曜日は、まだ始まったばかりだった。