新緑の森の君へ11
部屋にいたのは宰相のみだった。メラニア・マクレガーの姿はない。
「娘は少々取り乱しておりまして、席を外させました。突然衛兵に取り押さえられたのです。無理もないことでしょう」
そう語る口調にはいつもの歯切れがないように見えた。さすがの宰相もここにきて、何を口走るかわからない娘をこれ以上野放しにできないと判断したのだろう。
焦っているのであれば好都合だ。私はさっそく口火を切った。
「衛兵に拘束されるのは当然のことだ。彼女にはユーファミアの殺害容疑がかけられている」
「何を馬鹿な……! 娘を、我がマクレガー家を愚弄する気か!?」
「だがその前に。ユーファミアが家出と偽装され王宮から連れ去られた件について、真実を詳らかにしたい」
「まだそのようなことを。そんな事実はないと、王太子妃選定会議でもその他の場でも決着したはずです。ユーファミア嬢は自ら家出をしたと、本人も認めたではないですか」
「認めたのではない、否定できなかっただけだ。だがここに証拠がある」
そして私はカイエンから譲り受けた契約書をマクレガー宰相に見せた。
「これはメラニア・マクレガー侯爵令嬢が用意し、ユーファミアにサインさせた雇用契約書だ」
「雇用契約書ですと? なんのことですかな。あぁもしかして、我が領での仕事を斡旋した件で、契約書が存在していたということですかな。しかしそれはユーファミア嬢が納得してサインしたものでしょう。現に彼女は王宮を辞した後、我が領の孤児院で働くことを希望していたのですから」
「なるほど、つまり宰相は、この契約書の存在を知らないということだな」
「私が知るはずはないでしょう。おおかた娘がユーファミア嬢を安心させるために用意したのでは……」
「ではなぜ、ここにそなたの名前があるのだ」
「なんですと!?」
マクレガー宰相が目を見開き、私が突き出した契約書を奪い取ろうとした。それを咄嗟に防ぎ、大事な証拠を守る。
「手は出さないでもらおう。大事な証拠を破棄されてはたまらない。ここにあるのは間違いなくそなたのサインだな」
「出鱈目だ! 確かに私の筆跡に似せてはあるが……っ」
「そして下に、ユーファミアのサインがある。わかるか、宰相。ここにはそなたと、ユーファミアのサインしかないのだ」
「だから私は、そんなサインは……」
「そなたのサインなのか、そなたの娘がサインを偽造したのかはどうでもいい。ここには、ユーファミアのサインしかない。未成年の彼女がひとりでサインした契約など無効だが、それよりも重大な事実に、そなたは気づかないのか?」
「――!!」
顔色を変えた宰相は目を見開いたまま固まった。貴族を統べる位置に立つ彼が初めて私の前で見せる戸惑いの表情だった。
「宰相地位にある者が、未成年にサインをさせたという実績がここにはある。そしてこれは、ユーファの失踪が家出だったのか、騙されての誘拐だったのかを正しく世に証明してくれるだろう」
「……出鱈目だ! 私はサインはしていないし、娘が偽造したという証拠もない!」
「ユーファとカイエンが証言できる。先ほどのパーティ会場で引き摺り出された魔道士の証言もある。これらが明るみに出れば、それだけでそなたたちマクレガー家の醜聞は免れまい!」
宰相の筆跡を真似たのが娘のメラニア・マクレガーであることは事実だろうが、それを正しく証明できるかとなると苦しい。だが先ほどのパーティでの惨事の上に、宰相のサインが入った契約書の話が出回れば、ひとつの憶測が簡単に浮かび上がる。
「マクレガー宰相は娘を王太子の婚約者にするために、邪魔なユーファミアを違法な契約でしばり、王宮から連れ出した。それだけでは足らず、彼女を亡き者とするよう命令したのもーー」
「ーー何を望む」
両目を片手で覆った宰相が低く唸った。私が待っていた瞬間だった。
「ユーファミアの婚約者内定の後押しと、メラニア・マクレガーの追放が条件だ。それができればこの契約書は闇に葬り、私が国王となった後も、そなたの宰相位を約束しよう。もちろん、今後の私たちにも協力し続けてもらうぞ」
ユーファミアはすでに義理の実家となったバルト伯爵家の後援を受けているが、王太子妃選定会議で宰相と近衛総長、内務長官の支持を得られていない。その強靭な一角である宰相がこちらに寝返れば、彼女の足場はかなり良くなる。それは私の治世にもプラスだ。
彼を宰相位から引き摺り下ろすのは得策ではなかった。だからこそあの森で、マクレガー家の騎士が狼藉を働いた証拠そのものを存在ごと消し去った。残しておけばそれを切り札にもっと楽にマクレガー家を糾弾できただろう。だがこちらの証拠も甘い状況で、そこまで欲張るのは危険だった。
「……娘は修道院に入れます」
時間を置いて搾り出された言葉に、私は小さく頷いた。娘の罪を糾弾させず領地に引き上げさせるのは、宰相にとってぎりぎりの妥協点だろう。マクレガー家にはメラニアの下に弟がいる。疑惑を持たれた姉が社交界に残っている限り、弟にも悪影響を与える可能性が高いことを、こんな状況でも彼は計算したようだ。
「交渉成立だな」
左手を掲げ火魔法を発動させる。鮮やかな炎が契約書をたちまち覆い尽くし、跡形もなく消し去った。物的証拠は何一つ残らないが、宰相がこれ以上反撃してこないことはわかっていた。マクレガー宰相という男は、頑なで融通がきかないところも多いが、道理のわからぬ者ではない。
「……ありがとうございます」
証拠を消し去ったことへの礼か、娘を最悪の状況から救ってもらったことへの礼か、はたまた社交辞令か。そこまでは読み切ることができない。この狸と私は今後もやりあっていくことになるのだろう。胃のあたりが重くなったが、彼以外に宰相位を任せられる人材がほかに思いつかないのだから仕方がない。そもそも論として、カイエンやメラニア・マクレガーのことをまったく疑わず信じ切っていた時点で、私の人の見る目のなさは残念ながら確かだ。そこを補ってくれる人材としても、この男は適材だった。
すべてが片付き、一瞬天を仰いだ。これで堂々とユーファの元へ駆けつけられる。だが夜はだいぶふけた。ユーファはもう眠ってしまったかもしれない。
踵を返そうとすれば、「殿下」と声をかかった。振り返れば顔をあげた彼宰相の、疑り深い瞳とぶつかった。
「マーレイ男爵領をご存知でしょうか」
「マーレイ……確かジレイド伯爵領と隣接する場所だったか」
「えぇ。互いの先代の時代に飢饉に見舞われたかの領を我が家が支援した縁で、我が家に懇意にしてくれている家のひとつです」
「そのマーレイ領が何か?」
「ジレイド領へと続くかの領のはずれに森があるのですが、先日、そこで奇妙な現象が起きたそうです。森の一部で火災が発生し、かつ自然に鎮火したのだとか。その火災の跡は、円を描いたように森の一部だけに広がっており、さらに、焼き尽くされた円の中心には2体の屍体が転がっていました。あまりに損傷がひどく、人か獣かもわからぬ有様だったとか。周辺住民に行方不明者がいないため、おそらく四つ足の獣だろうと処理されましたが」
「……」
「発生当時は落雷があった記録も雨が降った記録もなく、周辺住民が火災に気づくこともありませんでした。しかしながらただの自然発生した火災としては不自然なのです。円を描くように焼けこげた跡も、骨すらも溶かすほど原型を留めない火力も。そう、まるで———誰かが魔法で焼き尽くしたかのようだ」
「……何が言いたい」
「マーレイ領は王都から馬車で1日近くかかるところです。地形も悪く、早馬で移動したとしても半分にまでは短縮はできない。あの日、殿下の生誕の式典の翌日、あなたは夕方の時点で王宮にいらっしゃいました。夜半にはユーファミア嬢が王宮に戻ったとの報告があります。我々はユーファミア嬢がマクレガー領に向かう途中で連れ戻されたとしか聞いていません。殿下はいったいどこでユーファミア嬢を見つけ出されたのか———」
「アンリ・マクレガー。控えよ。おまえにその資格はない」
王族にのみ受け継がれる秘事を知るのは王族のみ。そう圧をかけて冷ややかな目線で彼を制すると、あれほど聳える壁のように思えていた男が、なぜか小さく見えた。
この男は確かに優秀だが、彼の上に立つのは私だ。成人を迎えた今、この者を前に畏怖の念を抱くことはもうない。
娘をとるか、一国の宰相である立場をとるか。難しいその決断を、彼はすでに下していた。私は今度こそ踵を返す。部屋を出る私の背後で、彼が頭を垂れ、忠誠の姿勢を示した気配を背中で感じた。