新緑の森の君へ8
既に日はとっぷりと暮れていて、夜が始まっていた。主人のいない部屋にも夜の帷がひっそりと降りている。開けてすぐのところにユーファミアのベッドがある。私が鳴らすベルの音を聞き漏らさないよう、扉のすぐ近くにベッドを動かしていたことは聞いていたが、目にしたのは初めてだった。
導かれるようにベッドに腰を下ろすと、そのはずみでふわりと香りが立ち上った。何度も嗅いだことのある、新緑の森の澄んだ空気の匂い。どれだけ石鹸を変えても、香油をやめさせても、この香りは消せなかった。今もまた私の鼻腔をくすぐり、ぽっかりと空いた胸の穴を侵食していく。
初めて立ち入るユーファミアの私室に、彼女がいない。昨日の早朝に王宮を去ったと聞かされた。2日経った今、彼女はとっくに王都を出ていることだろう。行き先はマクレガー領とのことだが、跡を追うことも、追手を向かわせることも禁じられた今、彼女を求める術がない。
ここにくれば、彼女の思い出に浸れると思った。けれど現実は彼女の残り香に胸がふさがれ、苦しさは増すばかり。
(ユーファミア、いつだっておまえは私を救ってくれた)
王命とも呼べる依頼で親元から切り離され、この6年間、文句ひとつ、要求ひとつ言うこともないまま、その身をすべて私に捧げてくれた。それでもなお足りないと求める私は、どれほど欲深いのか。
だがそれでも彼女を諦めきれない。彼女に思い人がいるとしても、それを叶えてやることなどできない。
(もう一度、彼女に、ユーファに会わなければ)
呼ぶことが許されなかった愛称を口にしたとき、私の行動は定まった。
ユーファに許しを乞おう。その上で私の思いを打ち明けるーー。心の中で幾度となく紡いだ言葉は、ただの一度も彼女に直接届けたことがない。この妄執とも言える醜い思いをぶつけたら、清廉な彼女は私を怖がり、再び逃げてしまうだろうか。
自嘲を込めて笑うと、感傷的な思いが少し揺らいだ。そうだ、まだできることはある。先ほどのメラニア・マクレガーの発言と、沈黙を保ったカイエンの能面のような表情を思い出す。気心が知れていたと思っていた2人の、見事なまでの手のひら返し。彼らは私でなくユーファの味方をしたのだと言った。
だが一連の流れには不自然な点がある。あの義理難いユーファが、国王夫妻やバルト伯爵に挨拶ひとつせず家出するのはおかしい。彼女が実家に宛てた手紙も、半年前が最後だという。あれほど教授陣にかわいがられた彼女が卒業式への出席を促されないはずはなく、それをなんの断りもなく無視しようとしているのも、彼女の律儀さに反している。
冷静に考えれば次々と浮かんでくる不可思議な点。だがどれだけ訝しんでも、彼女を追う手段を封じられていては意味がない。
(どうすればいいーー)
じりじりと時間だけが過ぎていく中、私はユーファの部屋のベッドで必死に考えていた。
やがて、ひとつの天啓のような考えが閃く。他人の魔力を感知することはできない。ただ、自分の魔力はある程度わかる。自身が愛用している品などがしっくりくるのは、自分の魔力の残渣がそこに残っているためだ。
ユーファの魔力は追えないし、そもそも彼女は魔力を持たない。だがもし、彼女が私に関する持ち物を持っていたとすれば? 私が、私自身の魔力を追うことで、それを見つけられる可能性がある。
だがこの方法は、あくまでその物質が近くにある場合のみ可能だ。いくら自分の魔力とはいえ、そして私の魔力量が当代一とはいえ、物理的距離がありすぎては無理だ。加えて自分の最低限の衣服以外の一切を置いていったというユーファが、私の魔力が残る物を持っていることが前提となる。
針の穴に糸を通すような、奇跡のような状況が揃えば可能となる理論。けれど迷っている暇はなかった。何も持たない無力な私が、再び彼女と会うためには、これしかもう方法がない。
私は祈るように、自身の魔力の気配を辿った。
そしてーー。
自分の魔力の発露を感じた瞬間、私は転移でいた。