新緑の森の君へ1
カーティスの物語開始です。殿下の煩悩が多すぎて、これだけで長編にできるんじゃ?っていうくらいの長さになっています。
まるで子鹿のようだと思った。それが、私が彼女を目にした印象。
私は生まれつき魔力が多い。王族に時折生まれるという魔力過多の子ども。成人するまで自分の魔力のコントロールが出来ず、体内で魔力暴走をおこし、放置すれば死に至る。だが無事成人すれば、禁忌とされる魔法を手にし、王国に安寧をもたらす存在。王国のために、民のために、数代に一度与えられる天からの御使い――などなど言われるが、私からしたら呪いに近い。ひとたび暴走がはじまれば、頭痛やら吐き気やら痛みやら、とにかく耐え難い症状に一気に襲われる。小さい頃はほとんどなかったその症状が出始めて2年。ここ最近は魔道士たちの治癒魔法も効きづらくなってきた。そもそも論だが治癒魔法では魔力暴走は抑えられない。ただの対処療法なのだから仕方ない。
こんな呪われたような症状だが、ひとつだけ解決方法がある。それが「魔力なしの者」の存在。その者が暴走した私の魔力を吸い取ってくれれば、効きづらい治癒魔法に頼らずとも、私の症状は一気に安定するらしい。私のような魔力過多な王族が生まれる御世には、その者も必ず生まれるらしいが、いかんせん見つけるのが困難だ。この国では誰しもが量はともかくとして魔力を持っている。貴族は特に魔力が強い。だからこそ魔力ゼロの者がいるとすれば平民であることが多いと、過去の文献にも記されている。その思い込みが、該当者を見つけることをさらに遅くした。
ようやく現れた私の救世主――それは私と同い年の、可憐な少女だった。
魔力過多な王族が生まれる御世には、その者も必ず生まれる。だがその性別は決まっていない。そして暴走した魔力を沈める方法は――その者と口づけをすること。溢れかえった王族の魔力を、魔力がない者が吸い取るのだ。空っぽの器に、多すぎる魔力を渡すことで、魔力を平定させる。その方法が口づけ。
命を救ってもらう立場のこちらとしては贅沢が言えない。たとえ相手が筋骨隆々の猛者であろうと、皺くちゃの老婆であろうと、口づけは治療だから耐えなければならない。そう言い聞かされていたが――。
(これは、想定外だろう!?)
細い身体を震わせながら、潤んだ瞳でこちらを不安げに見上げる少女――ユーファミア・リブレ子爵令嬢を見たとき、思わず顔を顰めた。いや、顰めるフリをした。そうでもしなければ赤面したのがバレてしまうと、慌てて表情を取り繕った結果だ。
彼女の不安気に揺れる濡れた瞳で思い出したのは、毎年向かう離宮の森で出会った子鹿だった。10歳を過ぎた頃から父に連れられ狩に行けることになった私は、その面白さにたちまち夢中になった。
そんなあるとき出会ったのが、母鹿にまとわりつく子鹿だった。
小さな耳をぴん!とそば立て、母親に頬擦りするその姿は、狩を楽しむ私の目にも愛らしく映った。子育て中の動物には弓を向けてはならないのが狩猟の掟。だから見守ろうと思ったのに、向こうもこちらに気づいたのだろう、親子でさっと逃げ去ってしまった。
印象的な出会いではあったが、私はすぐにその光景を忘れた。その後も狩りに興じたし、翌年も嬉々として参加したのだが。
その子鹿を、王宮で思い出すことになるとは思わなかった。可憐で、おとなしい少女の濡れた瞳にさらされ、私はずいぶん横柄な態度をとってしまったと思う。
(思えばあれが最初の失敗だった)
物心ついたときから未来の王太子として崇められていた私の周りには、同年齢の少年・少女が常に集まっていた。そのほとんどが高位貴族。この中から未来の側近や伴侶を見つけるのだと言い聞かされて育ってきたが、この年にして子どもらしさよりも打算が滲む彼らに、心が揺れることはなかった。尤も私自身もなかなか冷めた子どもだったから同類だ。
そんな私の前に現れた、子爵家という下位貴族の令嬢。あらゆるものを取り繕うその方法すら知らない無垢な少女は、私の周りにはいなかった種族だ。
(彼女が、私の魔力暴走を抑えてくれる唯一の存在。彼女が私に口付けてくれるーー)
想像した瞬間、彼女の柔らかそうな唇に視線が釘付けになった。顔中に熱が集まるのがわかり、ごまかすように顔を背ける。
(――というか、無理だろう!?)
何が無理と説明できるわけではない。そもそも無理も何も、そうしてもらわなければこちらは命も危ないという状況だ。思わず口元に手を当てれば、触れた自身の唇までもが熱を持っていることに気づき、心臓がどくん、と跳ね上がった。
(そもそも、キスって、どうやるんだ?)
新緑の森で見た、小鹿のような瞳の少女に、自身が唇を重ねる姿を想像する。どうするも何も、魔力暴走を起こした自分は息も絶え絶えで、己から口づけできる状況にはない。にもかかわらず、そんな斜め方向の問いを思い浮かべては答えに行きつかず、結局苦悶の表情を浮かべるよりほかない自分を、緊張しきったユーファミアが絶望の眼差しで見ていたことに気づく余裕はなかった。
そして間の悪いことに、その日の夜、魔力暴走が起きる。
息切れと全身を何かに締め付けられる痛みと熱感と、あらゆる責苦に苛まれながら、意識を喪失することは許されない。そんないつもの激しい波に呑まれた私の周りには、侍従や魔道士たちが群がっている。枕元で母の悲鳴のような声が響く。
そんな中、ふと空気が揺れたかと思うと、目の前に清しい気配が現れた。うっすらと開いた視線の先で、焦茶の髪がふわりと広がる。見覚えのない光景に本能が何かを訴え、必死に目を見開くと、雨に濡れたような震える瞳とぶつかった。
「お願い。息子を助けてやってちょうだい。もう魔道士たちの治癒魔法も効かなくなってしまったの」
母の声すらも遠くなりかけたのは、私の意識が、目の前の彼女に吸い寄せられたから。
あぁ、そうだ、私はこの人を待っていたーー。
不意にすとん、と胸に落ちてくる感情があった。彼女が、私の唯一無二の存在だと、朦朧とするはずの意識の中、なぜか鮮やかに広がっていく。
(手を伸ばせばいい、そして彼女と口付けを……)
そう素直になりかけた瞬間、「殿下」と彼女が呼びかけた。
その声に、ずくり、と身体の内が刺激された。呼吸すらもままならない状況で、一瞬忘れかけた現実がどっと自分の上に降りてくる。ここは私の寝室で、周りには人が大勢いる。枕元には母の姿も。
この状況で、彼女とキスをしなければならない。
初めて意識した女性との、初めての口付けを、こんなに大勢に見られながらしなければならないなんてどうかしている。もっとこう、理想的なシチュエーションとかあるだろうと、思わず喘いだ。
(待ってくれ……!)
そう声にしたはずだった。せめて周囲の人間を全員……せめて母だけでも下がらせたい。初めてのキスが母親の見ている前っていうのはあんまりだろう!
だが、私の息も絶え絶えな声は、たった一言紡ぐことすらできないでいた。
「……てくれ」
掠れた私の声を聞いたユーファミアは、一瞬驚いた顔をしたかと思うと、何かを決意するように、固く目を閉じた。
「今すぐ、お楽にしてさしあげます」
(違う! 助けてくれと言ったわけじゃない! いや、違わないが! キスすることに異論はまったくないが!!)
せめて人払いを、と口にできるだけの元気があるはずもなく。
喘ぐ私の唇は、自分のものとは違う初めての熱に覆われた。
魔力暴走を例えるなら、焼け付くような熱感と痛みだ。だから私自身、この身体は燃えるような熱を発しているのだと思っていた。
だが彼女の唇を受け止めた瞬間、その温かさと清涼さに、ふわりと包まれた。実際の私は血の気がなく、手足も身体も冷え切っていて、ただただそれを包んでくれるぬくもりを欲していたのだと気づいた。
優しい熱とみずみずしい感触。鼻腔をくすぐる甘やかな石鹸の香り。ふと伸ばした手が触れた華奢で滑らかな身体と髪。すべてが愛おしくて、大切で、ずっと触れていたい。なんならこのまま溶け合いたい。どうせこの狂おしいような意識の空間には2人しかいないのだ。何をしても許されるはずーー。
恍惚とした空気の中、あまりの心地よさについ身じろぎする。その際「……んっ」と声が漏れた。思った以上に響く自身の声に驚くように目を開けると、至近距離でまっすぐこちらを見つめる濡れた瞳があった。
気づいた瞬間、ぴしりと身体が固まる。冷や水を浴びせられたような意識の中、変わらず唇を覆うこの感触は、紛うことなき彼女と私の熱ーー。
「おいっ、いつまでそうしているんだ!」
思いとは裏腹に、手が彼女を押しやる。違う、本当はこんなことをしたいわけじゃない。あの細い身体をもっと強く抱きしめたいのだと、虚しさを追いかけるように手が空中で惑う。
「カーティス! 意識が戻ったのね? 気分はどう?」
「母上、なぜここに……!」
咄嗟にそう口を突くも、そうだったとクリアになった意識が現実を捉える。ここは自分の寝室で、周りには大勢の人間が詰めかけていたのだったと。先ほどまで自分と彼女の2人だけの世界だと思っていたが、そうであるはずがなかった。
「いったいなんだ! なんで皆いるんだ!」
そう叫んだのは完全に八つ当たりだ。
「あなたが魔力暴走を起こしたから、治療のために集まってくれたのですよ。いつものことでしょう」
ほっとするのとやや呆れるのと。母の声にはそんな気色が混ざっていた。
「信じられん……以前は魔道士3人がかりで治癒魔法をかけ続けても、回復するまでに1時間近くかかっていたというのに。ほんの2分足らずでこの結果とは!」
母の筆頭事務官であるバルト伯爵が感嘆の声をあげると、母が追随した。
「そうだわ。これもすべてあなたのおかげよ。ユーファミア嬢と言ったわね? カーティスがこんなに早く回復するのは奇跡的なこと。どうかこれからも息子の側にいてあげてね」
一国の王妃に初めて見えたであろうユーファミアはたちまち混乱したようだった。その姿がなぜだか気に食わない。
(おまえが気にするのは私だろう。私だけに乱されればいいものを……)
ベッドから起き上がりながら思わず舌打ちする。わかっている、完全に八つ当たりだ。
「頭痛がする。皆出ていってくれないか」
「まぁ大変! 後遺症かしら」
「母上もです! 私は大丈夫ですから、ひとりにしてください」
「いや、殿下。このまま魔道士と医師の診察を受けていただきますぞ。新しい治療を受けられたのですからな。御身に異常がないか確認せねば……」
「だから! 私は大丈夫だと言っている! 出ていってくれ……おまえもだ」
唸るように投げつけたその言葉に、彼女が一瞬肩を振るわせた。違う、そういう意味で乱されろと思ったんじゃない。そう声をあげたかったが、既にぬくもりを失った私の唇は鍵でもかけられたかのように動かなかった。バルト伯爵に肩を抱かれて部屋を後にする小さな背中を、追い縋るように見つめるよりほかなかった。
まぁ、いろいろ大変だったということで。