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あれから5年。私は今、王太子宮の一角に居を頂いている。
殿下の元に初めて伺候した年の秋、王立学院入学を前に、殿下は王妃宮から独立して自分の宮を与えられた。それに伴い私の部屋も王太子宮に移された。場所はーーー殿下の部屋の隣だ。
殿下の魔力暴走はいつ起きるのかまったく予測がつかない。夜中に叩き起こされることもしばしばだった。始めは王妃宮の客間の一室を与えられていたが、私が呼ばれたどり着くその時間が惜しいと、割とすぐに殿下の居室の近くに部屋を移された。そして殿下の独立が決まったとき、私の部屋は殿下のすぐ隣になった。この部屋は一見独立した部屋に見えるが、内実は続き部屋になっている。本来なら王太子妃―――殿下の未来の妻が使うべき部屋だ。
本来の造りは、殿下の部屋と妃殿下の部屋がそれぞれあり、その間にお2人共用の寝室がある。なお、一応それぞれの部屋にもベッドは備わっている。
その共用の寝室に、殿下は普段から寝泊まりされていた。内扉でつながったすぐ隣が私の寝泊まりする妃殿下用の部屋というわけだ。
この内扉を使うのは夜中だけ。殿下の魔力暴走が夜、寝静まった後に起きてしまった場合だ。ここに来て数年は、魔力暴走が起きるたびに側仕えの者が私に知らせにきており、皆に見守られながら殿下にキスをしていた。3年が立ち、15歳を迎えた頃、殿下が唐突におっしゃった。
「夜にわざわざ全員が集まるのも煩わしい。ユーファミアだけで十分だ」
殿下の症状は私がキスをすれば1、2分ほどで治ることは実証済みで、後遺症などもないことから徐々に皆の心配事も減少していた。とはいえ警護の観点から言えば到底許されることではない。もし私が殿下を害そうと思えば、魔力暴走で抵抗できない彼を簡単に封じることができてしまう。
だが殿下はその杞憂を一笑に付した。
「ふん、ユーファミアにそんな気概などあるものか。あれにやられるほどまで私は落ちぶれていない」
事実、心身ともに成長著しい殿下は、12歳の頃のように意識を混濁させるほどの魔力暴走はほとんど起こさなくなっていた。王立学院でも既に高等魔法を履修済み、自身の魔力のコントロールも桁違いに上達して、今では突然魔力暴走を起こしても、ベルを鳴らして隣に眠る私を呼び出せるほどの余裕が持てるようになっていた。
ベルが鳴れば、居室の手前の控室で待機している夜勤の使用人や近衛の騎士たちにも聞こえる。何かあればいつでも簡単に私を取り押さえることができる状況で、殿下の意見は認められることになった。
だから私は今夜も、未来の妃殿下の部屋で眠る。とても豪奢で、私の身には相応しくない部屋。
ベルの音がいつ鳴っても聞き漏らさないよう、ベッドは内扉のすぐ隣に移動させている。この部屋に来て、熟睡することがなくなった。いつ殿下に呼び出されるかもわからない状況で、ゆっくり眠ることもできない。否、それだけが理由ではない。
すぐ隣で、カーティス殿下が眠っている。薄い扉1枚隔てた先で、彼はどんな夢を見ているのか。そう思うだけで胸が熱くなって、火照る頬に目が冴え冴えとしてくる。
そう、あの美しい殿下と幾度となく唇を重ねるうちに、私はすっかりその虜になってしまった。今でも耳に残っている、初めて殿下の治療に当たった夕方のこと。
天使のような美しい少年が、顔色を失くし、息も絶え絶えに呟いたかに聞こえた、「助けてくれ」という言葉。
あの瞬間から、私は殿下に囚われてしまった。そして今もまた、その魅力に雁字搦めになっている。
たとえ彼が、私を蔑んでいたとしてもーーー。
その事実に、胸がつきん、と痛んだとき。チリリン、という高い響きが耳を突いた。
はっと身を起こし、内扉へと急ぐ。ここにはドアベルが取り付けてあって、私が殿下の休む寝室に入ったことが、控室で待機している使用人たちに伝わる仕組みだ。この音が鳴らなければ、使用人が私を起こすべく、部屋に突入してくることになっている。もっとも、今まで一度も聞き逃したことはない。
「殿下、大丈夫ですか?」
ベッドに影がないことを見てとった私は、そのまま部屋を見渡した。長椅子に身体を預けているカーティス殿下を見つけて駆け寄る。夜の12時を回っているのにまだ休んでいなかったらしい。あちこちに執務の手伝いと思しき書類が散らばっていた。
「大、丈夫だ……問題ない」
魔力暴走を起こしても会話ができるくらい成長された殿下は、崩れそうになる身体を片肘で支えていた。跪いて見上げると、美しい藍色の彼の瞳が揺れる。
大丈夫だと、最近の殿下はいつも言う。どう見ても大丈夫ではないのに。その言葉には、なるべく私を避けたいという強い意志が感じられて、私は思わず「申し訳ありません」と呟いた。
「治療をさせていただきます。申し訳ありません」
今一度謝罪の言葉を口にし、崩れそうになる殿下を支える。片肘を外して、そのまま長椅子に彼の身体をそっと押し倒す。幸い良い位置にクッションがあり、彼の背中を斜めに支えてくれた。よかった。このままこちらに崩れ落ちてこられたら私には支えきれない。12歳の頃の天使のような細身の少年は見事に脱皮し、力強く優雅な翼を身につけた、類稀なる美青年に成長しつつあった。身体も逞しく成長し、近衛の騎士たちと剣術でよい勝負ができるほどの強靭さも身に付けている。けぶるような金の髪と、物事の深淵を見渡すような深い藍色の瞳は健在だ。
今では魔力暴走を起こしても、その瞳を開けられぬほど体力を奪われることもない。私は膝立ちになり、殿下の美しい顔を見下ろした。夜中であっても、私は夜着を身に付けていない。今着ているのは修道女の制服に似た形の、首元まで詰まったワンピースだ。以前は夜着を着ていたが、夜に何度か殿下の魔力暴走の治療に呼ばれた際、殿下から「見苦しい格好で私の前に現れるな、不敬だ!」と叱責されたこともあり、以来、夜でも平服を着て寝ることにしている。王妃様がそれではあんまりだと、柔らかめの綺麗なワンピースをわざわざ用意くださったが、殿下のお気に召さなかったようで、いろいろ試して、今の形に落ち着いた。王宮の寝具は実家のものなどと比べてずっとよい造りなので、寝巻きが少々堅苦しくても寝苦しさは感じない。そもそも夜熟睡することもほとんどないのだから、この格好でも問題なかった。
私は目を伏せ、静かに殿下の唇にキスをした。その皮膚の冷たさにもすっかり慣れた。差し込んだ舌先が燃えるように熱いことにも、そこから流れ込んでくる熱い息吹にも。以前と変わったことがあるとすれば、途中で唇を離し、何度か口付けし直す方法を覚えたことだ。初めて殿下にキスしたときは、完治するまで絶対に離してはいけないのだと思い込むかのように、ずっと唇を塞いだままだった。身じろぎすらせずにいたものだが、それでは身体がきつかったため、あれこれ試しているうちにこういうスタイルになった。これならどんなに不自然な体勢であったとしても、どうにかやり過ごすことができる。
殿下の唇を啄むようにもう一度唇を深める。すると、流れ込んでくる熱い息吹とともに、私の舌に触れるものがあった。殿下の舌が動き出したことにびくりとして動きを止める。すると、動かなくなった私の舌をくるむかのように、殿下の舌が私の方に差し込まれた。
「あ……」
いたずらな刺激に、一度離れた唇が再び埋め尽くされる。私の後頭部に差し込まれた手が、私たちの交わりをより深くしていく。冷たい、熱い、じわじわと伝わる彼の熱。なぜかしびれる私の胸。
なぜかまなじりがわけもなく震えてくる。私は泣きたいのだろうか。そんなことを考える。
「何を、考えている」
不意に届く低い声。
「何も……何も考えてはおりません」
そう応えながら、今は治療中だったと、唇を戻す。殿下の唇は既に十分温かかった。息が上がっている気配はない。
もう十分だろうと、私は唇を離した。長い長い私たちのキスが終わった。
「殿下、ご気分はいかがですか」
「……悪くない」
「でしたら、私の役目は終わりですね。側付きの皆様に報告して参ります」
「……」
立ち上がる私から殿下はふいっと顔を逸らした。
「あの、殿下。お身体に障ってはいけませんので、今日はもうおやすみになられてはいかがでしょうか」
「おまえに指図される謂れはない。……どうせ眠れないからな」
「もしや、睡眠がとれていらっしゃらないのですか? 医師には相談されましたか?」
「そうではない。そもそもおまえが気にすることではない。もう戻れ」
「……っ。差し出がましいことを申し上げました、失礼いたします」
深く礼をした後、私は外へと続く扉を押した。そこは控室になっていて、側仕えの者たちが報告を待っていた。私は大事ないことを告げ、廊下に出た後、自らの部屋へと戻った。
最近は魔力暴走の頻度も減ってきている。こうして一度発作が起きた後は、少なくとも1週間ほどは絶対に起きない。今夜はゆっくり眠れる状況だ。
だけどどうして眠ることなどできよう。今この唇が、私が敬愛する殿下とつながっていた。横たわる彼にキスをし、彼に舌を差し入れ、それを受け入れた彼もまた、私に唇を返してくれたかのように思えた。意識が曖昧な状況の殿下には、もちろんそんなつもりはなかったとしても。
いつからか、私が一方的に行う治療から、今日のように彼の反応が返ってくる事態へと変わっていた。初めは戸惑いの方が大きかったが、今ではそれを待ち望んでいる自分がいる。
(殿下は今日も、私を求めてくださった……)
それが恐れ多い思い上がりだとわかっていても。そう思う自分を止められない。
殿下は私のことを疎ましく思っている。いつも邪険に扱われ、治療が済めば早く帰れと追い出される。もう5年も一緒にいて、誰よりも彼に尽くしている私に、心を開いてはくださらない。
それもそのはず。彼には立派な思い人がいるのだ。私など足元にも及ばない、高貴で美しく、誰からも慕われる淑女の鑑のような御令嬢が。愛する人がいながら、こんなつまらない女に唇を許さなければならない状況など、不快以外の何物でもないだろう。
(早く殿下を、あのお方の元に返してさしあげなくてはならない……)
この広すぎる豪奢な部屋も、私ではなく、本来は彼女のもの。
そう思うと、今夜も眠れそうになかった。
窓辺に近づき外を見上げると、折れてしまいそうなほどの細い三日月があった。ぼんやりと烟る月の光が、曖昧な私の心を包んでいく。
殿下が成人を迎えるまであと1年。私はあと何回、彼とキスできるのだろうーーー。
閉じることのない王宮の夜が、今夜もまた静かに更けていく。