6
その日の夕方、殿下の容体が急変した。
殿下の居室は王妃宮の中にある。私の部屋も王妃宮の中の離れた場所に用意されていた。その部屋の扉を叩いたのは、昼間、バルト伯爵と別れた後に、私の部屋を訪れた魔道士のひとりだった。
「殿下が魔力暴走を起こしておられます。急ぎお越しください」
初老の魔道士の要請で、私は取るものとりあえずの体で部屋を出された。近衛兵が警備する一角を通り過ぎ、殿下の部屋にたどり着くと、そこにはバルト伯爵や数名の魔道士のほか、ひとりの女性の姿があった。
「あぁ、カーティス……」
ベッドに横たわり、大きく息を荒げるのは、先ほどお会いした王太子殿下その人。そしてその枕元で彼の額に手を置き、彼の名を呼ぶその人が誰なのか、無学な私でもすぐに察した。
礼をとらなければと戸惑う私の手を、バルト伯爵がやや強引に引いた。
「王妃陛下、ユーファミア嬢が参りました。既に殿下をお助けする方法について魔道士が指導済みです。彼女に任せてみましょう」
「あなたが……」
見開かれた瞳の美しさが、横たわる殿下を思わせる。固まる私の背を、バルト伯爵はさらに押してベッドに近づけようとした。
すると王妃陛下が今度は私の肩に手を置いた。
「お願い。息子を助けてやってちょうだい。もう魔道士たちの治癒魔法も効かなくなってしまったの」
今にも溢れそうな涙を押し留める王妃陛下の先には、蒼白な顔色で胸を上下させる美しい天使がいた。そのまま背中を押され、私は彼と対峙した。
魔道士から教わった方法。王家に伝わる秘伝のカルテに記された、魔力暴走の治癒方法はとても簡単なもの、“ただ、唇を合わせるのみ“であると。
私は思わず振り返った。目の前に王妃陛下、その後ろにバルト伯爵。数名の魔道士。さらに彼らの側仕えと思われる使用人たち。警護の騎士の姿まである。
(ここで、こんな人前で、殿下にキスをしないといけないのーーー!?)
あまりの羞恥に顔が赤くなる。その私の耳に、苦しげな呻き声が聞こえてきた。はっと振り返ると、ベッドに横たわった殿下の瞳が、うっすらと開かれた。吹き出す汗で貼り付いた額髪の間から、虚ながらもまっすぐに私を捉えた視線。
「殿下……」
「……てくれ」
すぐ近くで耳を側立てていた私にだけ聞こえた掠れ声。
(助けてくれ……)
動かすのも億劫な唇が、そう紡いだのかと確信したとき。
私は決意とともに自らの瞳を強く閉じた。
「今すぐ、お楽にしてさしあげます」
これは治療だ。やましい気持ちなど何もない。キスという行為が持つ、あらゆる意味は、この治療行為の前で無意味だ。
そう心の中で言い聞かせながら、私は殿下の唇に、自らのそれを重ねた。
初めて感じた他人の唇の温度は、まるで氷に口付けしているような冷たさだった。ぶるりと震える身体が反射的にそこから離れようとする。それを、意志の力でねじ伏せた。
冷たい温度の皮膚を感じながら、魔道士に教わったことを思い出す。舌先を軽く割り入れると、口呼吸をしていた殿下の口内にあっさりと侵入できた。唇の温度と対照的にそこは焼けつくほどの熱を帯びていて、あまりの落差に今度は目眩を起こしそうになる。
そのときだった。じわりとしびれる感覚が舌先を伝ったかと思うと、熱の塊がほわん、と私の口の中に移った。飴玉が口移しされたかのような感触に目を見開くも、その熱はゆったりと私の中へ流れてくる。
「殿下の息切れが治まってきましたぞ!」
魔道士のひとりが叫ぶ声がした。強ばり震えていたはずのカーティス殿下の身体が、ベッドへゆったりと沈み込んでいく。唇からは温かな熱がじんわり流れてくる感触。そのままじっとしていると、冷たかったはずの殿下の唇にも熱が戻ってきた。
「……んっ」
身じろぎする気配を感じ、私は唇を這わせたまま目線だけをあげた。すると見開かれた藍色の瞳にぶつかった。
(なんて綺麗な色なんだろう。さっきも思ったけど、近くで見たらもっと……)
そんな感想をふんわり抱いていると、突然私の身体が押しやられた。
「おいっ、いつまでそうしているんだ!」
虚だった瞳が鋭さを纏って、私を射抜いていた。いったい何が起きたのかわからぬままぽかんとする私の前に、王妃陛下が割り込んだ。
「カーティス! 意識が戻ったのね? 気分はどう?」
「母上、なぜここに……!」
起きあがろうとしたカーティス殿下は、部屋の様子にぎょっとしたように顔を顰めた。
「いったいなんだ! なんで皆いるんだ!」
「あなたが魔力暴走を起こしたから、治療のために集まってくれたのですよ。いつものことでしょう」
ほっとしながらもまだ息子を気遣う王妃陛下の側で、バルト伯爵が驚いたように唸った。
「信じられん……以前は魔道士3人がかりで治癒魔法をかけ続けても、回復するまでに1時間近くかかっていたというのに。ほんの2分足らずでこの結果とは!」
その台詞に、皆の視線が私に集まった。王妃陛下がはっとした様子で私の手をとった。
「そうだわ。これもすべてあなたのおかげよ。ユーファミア嬢と言ったわね? カーティスがこんなに早く回復するのは奇跡的なこと。どうかこれからも息子の側にいてあげてね」
貴族の頂点に立つ麗しい女性にそう乞われれば、末端貴族の自分はただただ言葉なく頷くしかない。言葉を返そうにもなんと返したらよいのかもわからない。
おろおろと大人たちにされるがままの私の前で、ベッドから起き上がった殿下はまたしても「ふんっ」と顔を顰めた。
「頭痛がする。皆出ていってくれないか」
「まぁ大変! 後遺症かしら」
「母上もです! 私は大丈夫ですから、ひとりにしてください」
「いや、殿下。このまま魔道士と医師の診察を受けていただきますぞ。新しい治療を受けられたのですからな。御身に異常がないか確認せねば……」
「だから! 私は大丈夫だと言っている! 出ていってくれ……おまえもだ」
唸るような最後の一言は、王妃陛下とバルト伯爵の背後で立ちすくむ私に向かって投げられたことに、愚鈍な私でも気付かぬはずはなかった。
その後私も魔術師と医師の診察を受け、異常なしだと確認された。驚異的な回復を見せた殿下も、問題なく過ごされているとのことだった。
殿下の唇を通じて感じた感触について魔道士に応えを求められたが、いくら王家の命令とはいえ、事細かに話すことが恥ずかしくて仕方なかった。せめて女性の魔道士をという私の懇願はなんとか叶えられ、母親より年上と思われる女性魔道士2人が私の証言を書き留めた。これはカーティス殿下のカルテとして後世に語り継がれるそうだ。私の名とともに。王家と一部の高位魔道士のみが閲覧可能な管理がされるとはいえ、遠い未来にまでそんな辱めが伝わるのかと思うとなんとも居た堪れない。
こうして私の初仕事は無事に終わった。私のファーストキスも終わってしまったことについては、敢えて考えないようにした。