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最後の嘘6

 卒業式から半年後、私はバルト伯爵領にいた。


 表向きは、義理の妹となったユーファミア嬢が未来の王太子妃に内定したことで、権力の集中を避ける王国の慣例に則り、カーティス殿下の傍を辞したためだ。養父であるバルト伯爵もまた王妃宮の筆頭事務官を既に辞しているが、殿下とユーファミア嬢の治世が安定するまでは王都の邸に残って見守ることになっている。王太子妃選定会議で宰相、内務長官、近衛総長の票が得られなかった2人の治世は、安泰とは言い難い。


 とはいえ宰相は私が入手していた例の契約書に絡む密約で、既にその態度を翻し、若き2人を盛り立てていくことを表明している。身内にしっぺ返しをくらったかのようなドリス近衛総長だが、年齢的に引退も近い。文官を取り仕切るマーズ内務長官の配下には魔道士部があり、こちらはユーファミア嬢への熱烈な支持を表明している。日和見な貴族たちはすぐに従属するであろうし、王立学院と学閥はもとより好意的だ。そして巷では、王太子とその命を救った令嬢との恋物語が大流行中とのこと。何より優秀な2人がその実力を発揮すれば、瞬く間に政敵などいなくなるだろう。


 義理の妹のために自身の栄達を諦め自領に戻ったというと聞こえはいいが、実質は領内に蟄居させられている身だ。バルト領から出ることは許されず、邸に軟禁されるものと思っていたが、現在の私の身分は伯爵子息の補佐である。


「カイエン、今年の小麦の収穫についてだが、余剰分の7割は例年通り輸出に回すように。隣国の関税が来年度は改悪となりそうだから早いうちに捌いてしまおう」

「お言葉ですが義兄上、今年は配分を見直し、備蓄に当てる割合を増やしてはいかがかと。こちら、ここ20年分の天候記録ですが、夏の間の快晴の割合が多い年は大雪に見舞われる可能性があります」


 伯爵邸の執務室。机で各地から上がってくる報告に耳を傾けているのは現バルト伯爵唯一の子息である私の義理の兄だ。未来のバルト伯爵である彼は、学院卒業後に自領に戻り、それまで領地経営を助けてくれていた叔父夫婦から業務を引き継いだ。妻と2人の息子を愛してやまない彼は生まれつき弱視があり、分厚い眼鏡がなければ生活が困難な状態だ。人柄も清廉で、権謀渦巻く王宮での栄達は向かないと、周囲も本人も認めている。とはいえさすがはバルト家の血筋、領地経営の才は十分であるものの、書類仕事や視察など、視力に頼る仕事が多い状況で、王宮を辞した自分が補佐につくことを思いの外喜んでくれた。


 義兄夫婦は私が王宮を去らねばならなくなった本当の事情を知っている。それでもなお私を立ててくれる。監視がしやすいよう手元に置いておくのかと始めは思ったが、帰郷当初から本当の家族のように扱ってもらっている。今も私の進言を聞き入れ、小麦の余剰分の配分について新たな勅令を出す方向に舵を切った。


 広大なバルト領の管理はとてつもなく忙しい。毎日の業務に紛れて、王宮での出来事が少しずつ遠くなっていく。


 けれどふとひとりになった瞬間に浮かんでくる、思い出の残渣。彼女の憂いを帯びた瞳の色だったり、筆記具を操る小さな手だったり。こぼれ落ちる砂のように掬っては消えていく記憶の数々。同時に流れる、いっときは主君と仰いだ偉大な人の面影。


 最後の最後でユーファミア嬢を救ったのは、彼の人だった。彼女が誘拐され救出されたその地と、そこから舞い戻った事実を秘密裏に聞かされ、そのあり得ない距離に畏怖の念を抱いたことは、思い出さないようにしている。どんな(ことわり)があったとしても、自分に関わる権利はもうない。


「そうだ、カイエン、頼みがあるんだが」

「なんでしょう、義兄上」

「午後に呼ばれていたこの会議だが、君、代わりに出席してくれないか。朝から妻の調子が悪くて様子を見ていたんだが、やはり医者を呼ぼうと思うんだ。できればついていてやりたい」

「承知しました」


 愛妻家の彼は、代理が務まるような小さな仕事であれば家族を優先することも多い。特に不思議にも思わず私は書類を受け取る。


 そして小さく息を呑んだ。





 十歳だった自分が、バルト伯爵の目に留まることになったあの場所で、今年も神職会議は開かれていた。3年に1度開催されるこの会議には、領内の各教区の神父や修道女をはじめ、関係者が一堂に会する。


 あの日も最終日にバルト伯爵が挨拶に訪れたのだった。今回その役目は領主代行補佐の私が担うことになる。一度でも会ったことのある人間の顔と名前は忘れない私だが、当時ただの小姓に過ぎなかった私のことを憶えている者はほとんどいなかった。


 見知った者もちらほらいる景色の中で、思いがけず懐かしい顔を見つけることになった。


「カイエン、久しぶりだね」

「……神父様!」


 かつてこの場所に私を伴ってくれた、生まれ故郷の教区の神父の姿がそこにはあった。当時から高齢で、さらに9年の月日が流れたというのに、彼はまだ現役の神父だった。


「田舎の教区に赴任してもいいという者がなかなかいなくてね。これも神の思し召しだろうと思って、日々勤めさせていただいているのだよ」


 好々爺の笑みを浮かべる神父は、裏表のない態度で私に接していたが、はっと気づいたように目を細めた。


「申し訳ない。あまりの懐かしさについ気軽にお名前を呼んでしまいました。今はバルト家の若様でいらっしゃいましたね。大変失礼を」

「神父様、どうか以前の通りにお呼びください。あなたは私の恩人です。あなたのおかげで、私はバルト本家に迎え入れられました」

「私の手柄などではありませんよ。すべては神の思し召しと、あなたの弛まぬ努力の賜物です」


 そうして深く頭を下げる彼の背後に、小さな影が見えた。


「神父様、若様とお知り合いなのですか?」


 目を爛々と輝かせるのは、かつての自分より少し年上であろうくらいの少年だった。


「これ、大人の会話に割り込むのは礼儀に反するぞ」

「でも、若様は同じ教区の出身ですよね! 王太子殿下のお傍にお仕えして、王太子妃様のお義兄様でもいらっしゃるのでしょう! そんな方にお会いできるなんて……僕、教区に帰ったらみんなに自慢できます!」

「傲慢な態度は神がお許しにはならない。そなたの口は軽薄すぎる。これでは神学校の候補生に推薦しかねてしまうよ」

「……すみません」


 謝罪を口にはするものの、その視線はちらちらとこちらを伺っており、好奇心を殺すことはできない様子だ。神父は少年に何か言付けを頼み、(てい)よく追い払った。


「やれやれ、足を悪くしているもので、一人旅はきついものがありまして。教区の中でも優秀な子を付き添いとして連れてはきたのですが、どうにも軽々しいところがあって……かつてのカイエン様の半分でも思慮深さがあればと思うところですよ。本人は奨学金制度を利用して神学校に進みたいようですが、果たして候補生になれるかどうか」

「奨学金制度、ですか?」

「えぇ。あぁ、カイエン様が子どもの頃にはなかった制度ですね。確か、カイエン様がバルト家の養子になられた翌年ですかな。バルト伯爵の援助で神学校への進学を希望する子どもたちの奨学金が設立されたのです。身分の貴賤に関係なく優秀な子どもを推薦するよう、お達しが出ています。カイエン様の時代にこの制度があれば、真っ先に貴方様を推薦したいところでしたな」


 奨学金や孤児院支援などの分野は義兄嫁と家令が主に担当している事業だ。そのため自分の耳に入ってこなかったのだろうか。


「さて、会議が始まりますな。お目に書かれて光栄でした。カイエン様」


 神父は礼をし、杖をつきながら自席へと向かった。






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