最後の嘘3
「取引をしませんこと?」
そう囁きながら優雅な笑みを浮かべるのは、メラニア・マクレガー侯爵令嬢。殿下の婚約者に最も近いとされる高貴な少女だった。王立学院入学後すぐのことだ。
「私はカーティス殿下の婚約者の座が欲しいのです。そしてカイエン様、あなたはユーファミア様が欲しい」
そうですわよね、と小首を傾げる、その角度までが計算づくであることは、貴族の世界に足を踏み入れてまだ数年の身であっても、十分に理解している。だからこそ私はカーティス殿下の側仕えとして養父であるバルト伯爵に見込まれた。
「何をおっしゃっているのかわかりませんね。メラニア嬢。私は別に……」
「あら、嘘はよくありませんわ。あなたがユーファミア様に熱い視線を向けていることなどお見通しですのよ」
息つく間もなくメラニア嬢は続けた。
「それとも気づいていないだけかしら? 口を開けば辛辣な物言いが出るのはユーファミア様に対してだけですけれど、そのどれもがカーティス殿下と彼女を引き離すものばかり。無意識でそうなさっているなら、カイエン様にも案外かわいらしいところがおありだったのですね」
「……っ」
初対面のあのときから、ユーファミア嬢には心を揺さぶられ、彼女を囲い込もうとするカーティス殿下の行動に瞠目し、それを止める行動すら起こせず、内に巻き起こる感情を制御するために、いたずらに彼女を口撃する――その無様な姿を鮮やかに言語化され、私は答えに窮した。その間にもメラニア嬢が呪文のように言葉を紡いでいく。
「気づかないフリをされている間に、ユーファミア様はどんどん手の届かない存在になってしまいますわよ? 彼女は子爵家令嬢、そして今のあなたは伯爵家の令息。釣り合いは取れていますわ。あなたが努力し、手を伸ばせば届く位置に彼女はいるのです。今ならまだ、十分間に合います」
ふと視線を外した先にいるのは、中庭のガゼボで向かい合う殿下とユーファミア嬢。開いた教科書を眺める彼女と、自身も本を開きながら、その視線の先は彼女にあるカーティス殿下。
今視線を上げれば殿下と見つめあうことになるその位置で、どうか顔をあげないで欲しいと願う自分にはっと気づく。
「カイエン様」
低まったメラニア嬢の声に引き戻されると、彼女と視線が絡んだ。
「儘ならぬ出自から努力して今の地位を得られたのですよね? 持たざる者から持つべき者へと変化を遂げたあなたには、欲しいものを手に入れられるだけの力があります。あなたにはその権利がおありなのですよ」
悪魔と天使は表裏一体。その囁きは悪意に満ちたものであったとしても、聞く者にとっては天の啓示。
(私が、ユーファミア嬢を手にいれる? カーティス殿下でなく、この私が……)
その願いを宿した瞬間、自分の中で渦巻いていたあらゆる思考がひとつに凝縮された。
(あぁ、そうか。私は彼女が――)
けれどそれを口にすることは憚られた。彼女は現時点で、自分の主君の想い人だ。
「あなたにはユーファミア様、カーティス殿下にはわたくし。誰もが納得のいく結末ですわ」
そうだ。もしも、メラニア嬢の言う通り、その結末が変わったとしたら。
カーティス殿下が想いを違え、メラニア嬢を好きになる、そんな未来がないとは言い切れない。何もかも超越した次元の殿下に相応しいのは、無名の子爵令嬢よりも華やかな侯爵令嬢。何もかもを持って生まれた殿下が、何も子爵令嬢など望まなくとも良いはず――。
メラニア嬢との会話を切り上げ、私はガゼボに近づいた。ユーファミア嬢がその視線を上げる前にと足を早める。声をかけた私に向けられる淡い、憂いを帯びた視線。
あぁ今、彼女は私を見ている。殿下ではなく私を。その瞳が美しいと告げられぬこの口が恨めしい。
数多の嘘を重ねてきた私の口は、真実を告げることには向いていない。だから私はこのとき気づいた想いを一旦は封じることにした。
それからの私は、殿下とユーファミア嬢の間を飛び交う蝙蝠となった。
ユーファミア嬢に思いを寄せる殿下には、「子爵令嬢である彼女に対して寵愛を表明するのは得策ではない」と説得し、学院の中のみならず王宮でも過度な接触を控えるよう提言した。殿下に近い立場の者たちは彼の人の思いなどお見通しだったが、職務柄口が硬く、情報が広まる恐れはない。
対してユーファミア嬢には絶対に殿下に思いを寄せないようにと強く釘を刺し続けた。メラニア嬢の存在と、彼女の取り巻き令嬢たちの協力も効果的だった。取り巻き令嬢たちに至っては、本気で殿下とメラニア嬢が両思いだと信じていたくらいだ。
それほどまでに我々の情報操作は完璧だった。メラニア嬢は必要な努力はするし策謀をめぐらす悪意もあるが、根本的に頭のいい人ではない。昼食の際に殿下とユーファミア嬢が極力絡まないような席順に誘導したり、ユーファミア嬢と殿下の2人の時間を減らそうと、ユーファミア嬢に無茶な課題を押し付けたりといった小細工程度しか思いつけぬ人物だ。私の役割は、ユーファミア嬢をエスコートしたがる殿下より先に彼女を迎えに行ったり、空き教室で彼女と2人きりになれるよう証拠を残したりと、メラニア嬢の小細工をより効果的に仕上げつつ、その口でユーファミア嬢に嘘をつき続けることだった。
殿下がユーファミア嬢に持たせた魔法陣による伝令魔法が、彼女から殿下へと送られたそのとき。想いをかける少女から届いた、ただの伝達事項にすぎないその書簡を開いて、花が綻ぶような笑みを殿下が浮かべた瞬間。
避暑の離宮で殿下とどう過ごしたのか気になって、問い正したそのやりとりの中、ユーファミア嬢がわずかに頬を赤らめた刹那。
何より、殿下の魔力暴走が起きたそのとき。教室に、私室に、寝室に、ユーファミア嬢が馳せ参じ、中で何が為されているのか知る立場のまま、部屋の外で待つよりほかない状況で。
胸の内で暴れる思いを必死に抑えつつ、その矛先を向けるのはいつだって彼女。
私が嘘しかつけぬ相手こそが、私が真実追い求める、その人だった。