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カーティス殿下に初めて会った日のことはまるで昨日のことのように憶えている。そして一生忘れることはないだろう。
謁見用に用意された王妃宮の一室で、私たちは出会った。その日の殿下は調子が良かったようで、先に部屋で待っていた私の元に、ごく普通の足取りで近づいてきた。
「カーティス殿下、こちらがユーファミア・リブレ子爵令嬢です」
「顔を上げよ」
バルト伯爵が私の名を紹介し、殿下が私にそう命じたところで、私はようやく顔をあげた。
そして、初めて見る殿下のご尊顔に、息を止めるほどの驚きを覚えた。
こんなに美しい人が世の中にいるのかと思った。宗教画に出てくる天使よりもきらきらしく、深い藍色の瞳の艶やかさは宝石と見紛うほどの神々しさだった。同い年でありながら既に私より背が高く、ほっそりとした体つきと伸びやかな手足は、優美で気品溢れる線を描いている。
私の周りにいた美しい人の代表といえば母とクラウディオだ。だが2人の容姿は身近だからこそ感じる愛らしさに過ぎなかったのだと思い知った。美しいというのは、こういう人のことを指すのだと、ただただ恐れ入った。
上げることを許された目線を、すぐに落とす。こんなに美しい人の前で、私はなんてみじめなのだろうと、比べることすら烏滸がましいほど、私は、自分と違う存在の前に、なすすべもなかった。
「顔をあげよと言っている」
再度の声がかりに、私は慌てて再び顔をあげた。
「私がカーティス・ルクレール。この国の王太子だ」
「ゆっ、ユーファミア・リブレにございます。王太子殿下にはごきげん麗しゅう……」
王宮に来て突貫で仕込まれた淑女の礼を、いや、そのもどきを披露するのが精一杯。口がからからに乾いて、それ以上息をすることも苦しい。
気がつけばまた頭を下げていた私は、けれど三度上げる勇気が持てず、そのまま時間がすぎるのを待った。
「……バルト卿。事情は説明済みなのか」
「既に契約済みではありますが、具体的な内容はまだ」
「ふん」
苛立つような舌打ちに、びくりと肩を震わせる。そのまま殿下はソファに掛けることもなく、足早に部屋を出て行った。
残された私がおずおずと顔をあげると、ため息をつくバルト伯爵と目が合った。
「やれやれ。今日は調子がよろしいはずだったのだがね」
「……私のことがお気に召さなかったのでしょうか」
「お気に召そうが召さなかろうが関係ない。殿下の魔力を吸収できる人間は今のところそなたしかおらぬのだからな」
部屋の隅ではメイドたちがお茶の準備をしていた。本来ならここで殿下と伯爵、私はお茶をして過ごす予定だったようだ。
「せっかくだからお茶でも頂きながら、そなたの仕事内容について説明しよう」
こうして主ないままお茶が振る舞われ、私はようやく己の職務を知ることになった。
「殿下が魔力暴走を体内で起こしてしまったときの対処法は、魔力を持たぬ人間が暴走した魔力を吸収してさしあげることだ。これは前にも説明したであろう」
「はい」
「そのためには殿下に接触し、直接吸収する必要がある。具体的に言うと、そなたが殿下に口付けをし、そこから魔力を吸収するやり方だ」
「はっ?」
がちゃん、と異質な音が部屋に響いた。幸い人払いを命じたバルト伯爵のおかげで、部屋には私と彼しかいない。
「つまりって……えっと……殿下と私が……」
口付けって、口付けって……それってキスをすること!?
「まぁ、そういうことだ」
どうやら私の心の叫びは声に漏れていたらしい。聞いた端から顔に熱が集まるのがわかった。
「あ、あのっ、いや、でも、その……いったい、どこに?」
百歩譲って本当にキスをするのだとして、いったいどこにするというのか。父がよくしてくれていたような額へのキスか。母と交わしていたような頬へのそれか。
「もちろん、唇だ。そこから殿下の体内に溜まる魔力を吸収してもらわなければならない」
「で、できません!」
お茶を飲んでいる場合ではなかった。はくはくと息をするのが精一杯な中、それだけはなんとか絞り出した。
「できぬわけはないだろう。何も医術や魔法を繰り出せと言っているわけではない」
「でも……っ」
私が殿下にキスをする? あの、天使と見紛うほどの美しい人に口付けをするというのか。
先ほど見かけた、彼の表情を思い出す。けぶる金の髪、鋭い藍色の瞳。畏怖の念すら抱くその美貌に、ぞくりと背筋が凍る思いがした。
「あの、殿下は、このことについてご存知なのでしょうか」
私に名乗り、私を見下ろし、鼻を鳴らすように去っていった人。
「もちろんご存知だ。了承もされている」
わかっていての、あの態度だとすれば、殿下はあのとき何を思っていたのか。末端貴族の、さして美しくもない娘を見て、それ以上声をかける必要もないと判断されたのだとしたらーーー。
「……殿下ご自身が、拒否されるかもしれません」
自分の魔力を制御するために必要なことだとわかっていたとしても。相手が私のような娘で落胆し、なぜこんな娘と口付けを交わさなければならないのかと憤るのも仕方のないこと。
だがバルト伯爵はそんなもの関係ないというように整然と言ってのけた。
「そなたに拒否権がないように、殿下にも拒否権はないのだよ。殿下の命をつなぐには、魔力なしの人間と口付けを交わすことが不可欠だ。そして今の世において、そなた以外の魔力なしは見つかっておらぬ。先ほども言ったであろう。お気に召そうが召さなかろうが関係ないのだ。それにそなたと母君は既に、契約書にサインをしている。こういう言い方はしたくないが、今更契約不履行となれば、どうなるかわからぬ歳でもあるまい」
そうだ。私がここに来ることを条件に、実家にさまざまな援助がなされている。支度金だって既に一括で支払われていると聞く。それを返す宛は今のところない。
私には断る選択肢がない。そして殿下もーーー拒否することを許されない。
「後ほどそなたの部屋に魔道士を遣わせる。彼らからやり方を学ぶといい」
バルト伯爵はそう言い残し、先に部屋を出て行った。