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 何が起きたのかわからないまま、心臓だけがどくどくと強く脈打っていた。ただいつも感じるシトラスの香りが、私の気持ちを落ち着かせていく。これは殿下の匂い。長年親しみ続けて、もう空気のように馴染んでしまった。それを深く吸い込みながら、はたと我に返る。


「殿下……!」


 私は彼を押しのけるかのように手を伸ばした。いけない、ここは私の場所ではない。親愛の情を彼がもし抱いてくれているとするなら、それは長年の私の献身に対する温情だ。


 決して愛情などと勘違いしてはならない。


「ユーファミア、どこか悪いのか?」

「いえ、そうではなくて。私は……ただの罪人ですから」


 殿下に情けをかけていただけるほどの人間ではないと伝えようとしたが、すぐに「馬鹿な」と彼が言葉を被せた。


「おまえが罪を犯すなど、ありえんだろう。いったい何をしたというんだ」


 再び殿下の手が私の頬に伸びてくるのを、後ずさって避けた。


「いけません、殿下。これでは……これではメラニア様にもご迷惑です」


 今いる自分の位置を思い出す。私が慣れ親しんだこの部屋も、いずれはメラニア様のために改装されるはずだ。それがまだ手づかずで残っていたのは、殿下の生誕祭や卒業など、忙しい行事が続くから先延ばしになっていただけのことだろう。どういうわけかまた私がここに舞い戻ってしまっては、殿下にもメラニア様にも迷惑な話だ。


 だが殿下は苦虫を噛んだような顔を見せた。


「マクレガー侯爵令嬢のことは金輪際口に出すな」

「殿下?」


 いつもメラニア嬢、と親しみと礼儀を持って接していたカーティス殿下が、吐き捨てるようにそう告げたのが違和感だった。


「殿下? どうかなさったのですか? メラニア様と何か……」


 そこまで口にしてようやく気づく。私はマクレガー家との契約を反故にして逃げ出したのだった。それがもしや殿下にご迷惑をおかけすることになったのだとしたらーーー。


「殿下、申し訳ありません! 私が……っ、メラニア様に、マクレガー家にご迷惑をおかけしたせいで……!」

「違う。そうではない」


 己の仕出かしたことに青ざめる私を支えるように、もう一度殿下が私の腕をとった。


「ユーファミア、答えてくれ。まずは、本当に体調は大丈夫なのか?」

「え……はい。大丈夫です」


 たっぷり睡眠をとって食事もいただいた後だ。多少身体のあちこちに痛みがあるが、以前落馬したときのような大事でもない。


 私の頷きにほっとした表情を見せた殿下は、「とりあえず場所を移ろう」と、今いる寝室から居室へと私を誘導した。





 ソファに案内された私が再び謝罪を口にすると、殿下はもう一度首を振った。


「まず、そこから訂正だ。おまえは何も悪いことはしていない。おまえは……騙されていたんだ。マクレガー侯爵令嬢とカイエンに」

「メラニア様と……カイエン様?」


 思わぬ名前に目を見開くと、殿下は言葉を続けた。


「ユーファミア、そもそもマクレガー侯爵令嬢との間にどんなやりとりがあったのか、カイエンがどんなふうに仲介をしていたのか、まずは話してくれないか」


 そう問われ、私は今までの流れを思いだ出しながら報告した。メラニア様からマクレガー領での孤児院の管理人の職を紹介してもらったこと、カイエン様を通じてバルト伯爵に相談したところ賛成され、契約書にサインしたこと。王家との契約が終わった翌日から有効とのことだったので、マクレガー家が準備してくれた馬車に乗って王宮を後にしたこと、カイエン様が見送りにきてくれたこと、そのままマクレガー家の魔道士とともに別邸へと向かい、そこで一晩を過ごしたこと。翌日の深夜近くになり、ひとり屋敷を出たことーーー。話しながら、とくに前半は殿下もよくご存知のことのはずで、語る必要もなかったかと思ったが、殿下が熱心な瞳で聞いておられるため、そこそこ長い話になってしまった。


 語り終え殿下を見つめると、「なるほど」と深いため息を吐いた。


「概ねカイエンの話と合ってはいるな。……クソっ」


 強く己の膝を叩きつける殿下に、私は条件反射で「申し訳ありません」と口にした。


「違う。これは……自分のすぐ側でそんな奸計が張り巡らされていたくせにまったく気づけなかった己への怒りだ。本当におまえが……ユーファミアが悪いんじゃないんだ」


 苦り切った表情のカーティス殿下など滅多に見るものではない。以前似た表情をよく向けられてはいたが、ここまで声を荒げられたことなどなかった。


 いったい私がいない間に何が起きてしまったのかーーーそれを自ら問いかけることはできない。私はいったいどうすべきなのか悩んでいると、殿下が衝撃的な一言を放った。


「まず私は、おまえがマクレガー家と契約をして王宮を出て行く話をまったく知らなかった。正確に言えば今は知っているが、それを知らされたのは昨日だ」

「え? 昨日、ですか?」

「そうだ。カイエンがその話を打ち明けるまで、まったく知らなかった」

「そんなはずは……。カイエン様は殿下にも話を通してくださったと。殿下も賛成していらしたと聞いています」

「それがカイエンとマクレガー侯爵令嬢の策略だったんだ。今から説明する」


 用意された紅茶に口をつけた後、殿下は長い話を始めた。









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