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どこへ向かうのか。そんなことを考える余裕もなく進む私の耳に、遠くから物音が聞こえてきた。振り向けば木々の隙間から漏れてくる明かり。
追っ手だとわかった。こんな夜更けの森の、道から外れた場所を普通の人間が通るはずもない。その現実から私は顔を逸らし、またしても前を進む。もうどちらが前か後ろかもわからない。足元を照らす明かりは、リーゼさんからもらったフードの裏にあった魔法陣を使って興したものだが、咄嗟にそれを消した。
(進むより身を隠した方がいい。歩けば物音が響いてしまう)
木を隠すなら森というが、この暗がりでは向こうだって歩きにくいはず。道なき道を進んでいた私は周辺を見渡し、目に飛び込んだ大きな茂みに身を隠した。やがてすぐ近くで男声の声がした。
「おい、本当に森の中に逃げたのか? 相手は貴族の令嬢だろ? こんな暗闇にひとりで森に入るはずないんじゃないか? さっき馬も見つけたし、どこかで落馬してるんじゃ……」
「俺もそう思うけど、こっちを探してこいって言われたんだから仕方ねぇだろ。落馬の可能性の方は別の奴らが対応してるさ」
「やれやれ……ほんとに手をかけてくれるよな。逃げた女もお嬢様も」
「しっ、でかい声で悪口言ってると誰かに聞かれるぞ」
「誰もいやしないさ、こんなところ。まったく、貴族ってのは怖いね。逃げてるお嬢さんはお嬢様の友達だったんだろ? それがなんでまたこんなむごい命令だすんだか」
「追求したらこっちの身もヤバくなるから、それ以上しゃべるなよ」
「はいはい。それにしても、逃げたやつを見つける魔法ってのはないもんかね」
「そんな便利なものがあればあの魔道士を痛めつけてでも探させたに決まってるさ」
男たちが思いのほか近くにいることに気づき、私は身を固くした。それでも否応なしにその声は耳に入ってくる。逃げている令嬢、命令をだしたお嬢様、魔道士―――それらのピースがぐるぐると頭を回って現実をさらに突きつけてくる。
(落ち着くのよ、私! 身動きしなければバレることはない。私の場所を探すことは魔道士様にだってできないのだから)
魔法は便利ではあるが、一般的に使われるのは生活魔法がほとんどだ。貴族であれば父のように多少強度の高い魔法が使える。けれど見えないものを見つけたり、何もないところから何かを生み出したり、命をとったりといった、この世の摂理に反することはできないようになっている。おそらく現代一の魔力を誇るカーティス殿下でも原理的にできないはずだ。
(このまま、このまま……)
辺りをうろついている騎士と思しき者たちにやる気はそれほど感じられない。このまま途方もない森を当てもなく探し続けるとも思えない。
あと少しの辛抱―――そう思ったとき、剥き出しの手に何かが絡みつく感覚がした。咄嗟に見ると蛇が長い舌を見せながら私の腕を登ろうとしていた。
「―――!!」
声にならぬ悲鳴をあげながら手を振り払う。声だけは出してはならないと強く念じたが、ひゅっと息を飲む音が暗がりに思いのほか響いた。それに反応する男たち。やる気がないといっても訓練された兵士たちだ。ぴたりとおしゃべりをやめ足早にこちらに向かってくる。
(もうダメだ)
これ以上隠れていることは無理と感じて、私は暗がりの中を腰を低くして抜け出そうとした。けれどそれを見逃してくれる男たちではなかった。
「いたぞ!」
「捕まえろ!」
2人の男の気配から逃れるように立ち上がりさらに奥へと走る。だが道ですらない足元。焦るあまり意識も回らなかった私は簡単に転んだ。地面に正面から叩きつけられたのも束の間、すぐに背中から伸びた手にひっくり返された。
「間違いない、指示のあった女だ」
両腕を拘束するように押さえつけられ、フードを無理矢理脱がされる。あらわになった顔を男たちの明かりが煌々と照らす。大の男に羽交い締めにされ、それ以上の抵抗は無謀とわかっていても、私は争わずにいられなかった。
「離して!」
「おとなしくしろよっ」
暴れる私の頬にぴしゃりと痛みが走った。男に殴られたのだとわかった。あまりの衝撃に動きが止まり、生理的な涙がどっと溢れた。
そのまま明かりに吸い寄せられるように空を見上げた。頬を赤く腫らし涙目の自分が相手にどれだけの嗜虐心を抱かせるかも知らずに。
こちらを見下ろす2人の男たちがごくりと唾を飲む音が聞こえた。私の身体を拘束する腕がゆるんだかと思うと、フードが一気に引きずられた。
「おいっ」
「なんだよ、別にいいだろ。どうせ殺せって命令なんだから、その前にお楽しみといこうぜ」
「だけど……」
「おまえも見ろよ、かなりの上玉だぜ」
引き摺り下ろされたフードが取り払われ、私の詰襟姿のワンピースがあらわになった。首元は詰まっているが元来ゆったりめに作られている。だが初夏の季節、フードを来たまま森を足早に彷徨っていたおかげで汗にまみれ、ワンピースは肌に貼りついていた。
「貴族の女なんざ一生縁がないと思っていたが、こればかりはお嬢様に感謝だな」
男の手が胸元に伸び、さすがに何がこの後起きるのか察した私は大きく身体をよじった。
「やめて!」
「暴れても無駄だよ! こんな森の中に誰がくるっていうんだ。おいおまえっ、ぼーっとしてないで足抑えとけよ」
「わ、わかった」
もうひとりの男も生唾を飲みながら私の暴れる足を押さえつけた。自由になるのは首だけ。そしてその首元を覆っていた襟元に手がかけられ、ボタンごと一気に引き下ろされた。
「やめてーーーっ!」
夜の帷に包まれた森に、私の必死の叫びだけが響き渡った。
手足を拘束され、自由が効かない私の胸元が夜気に晒された。首を振れば勢いよく引き摺り下ろされた衣服の切れ端が目に入る。グレイの簡素なワンピースの胸元のポケットまでがくたりと地面に落ちていた。
男たちは私の下着に手をかけ、それすらも引き裂こうと手をかける。だが袖が抜けず、今度は私の腕をつかみ乱暴に引き抜こうとした。その瞬間、右手がふと自由になる。地面を掴もうと丸くなる指先がかさりと何かに触れた。唯一拘束されていなかった首を動かしそれを見つめる。
指先に触れた、覚えのある紙切れ。恐怖で止まっていた涙がぶわりと湧き上がった。
「……んか! カーティス殿下!!」
気づけば大切なその御名を叫んでいた。一使用人の私はかの人の名を呼ぶことが許されずにいた。だからいつも殿下と、そうお呼びしていた。恋人であるメラニア様や腹心のカイエン様が彼の名を呼ぶのを、ときに羨ましく、妬ましく思いながら。
殿下がいないところでは何度も口にしたその御名を、私は力の限り叫び続けた。私はただの使用人、助けてほしいという願いすらおこがましい。私は助けて欲しいのだろうか。否、もう一度かの人に会いたいのだ。
「カーティス殿下―――!!!」
「ユーファミア!!」
幻の声が頭上から響いて、私は思わず笑ってしまった。男たちに組み敷かれ襲われている最中であるのに、私は愛する人の声を聞いた気がして、幸せな気持ちで満たされた。
(こうして終わるのも悪くない。最後に聞けたのが、たとえ幻でも、大好きな人の声だった……)
「うわぁ!」
野太い声が響いたかと思うと、拘束されていた私の身体がふと軽くなった。押さえつけられていた圧迫感が抜けて、気づけばふわりと浮いていた。
「え……」
「ユーファミア、大丈夫か!」
うっすらとした意識を呼び覚ますかのように響く、懐かしい声。幻にしてはクリアで、熱くて、温かで。
「でん……か?」
まさかと思いつつ目を開けると、そこには見慣れた金の髪と藍色の瞳があった。
「ユーファミア! よくぞ無事でいた……!」
「殿、下……そんな、なぜ……」
この人は王宮にいるはずの人だ。昨晩は彼の生誕祭で、私はそのパーティが始まるよりもずっと早く、夜も開けやらぬ頃に王宮を出発した。丸1日かけて馬車を飛ばし、ここにいる。カーティス殿下がここにいるはずない。
声だけでなく姿形の幻まで見たのかーーーそれならいよいよ最期だろうと再び目を閉じかけた。あぁでももう少しだけ、殿下のお顔を見ていたい。そう思ったときーーー。
「なんだ! おまえどこから現れた!」
「このまま女を連れ戻されたら俺たちがヤバいぞ! やっちまえ!」
いつの間にか私から離れていた男たちが剣をとり、こちらに向けて襲いかかるのを見て、私は思わずかっと目を見開いた。
「殿下、危ない!」
「……ふんっ」
私を抱えていた殿下が右手をひと払いする。すると突如として火柱が立ち上がった。
「うわああああぁぁぁぁ!!」
男たちの絶叫が響き渡る。火柱が彼らを襲い周囲に広がって辺りが瞬く間に火の海になった。焼け焦げる匂いが立ち上る中、殿下は私をその胸に強く掻き抱いた。
「見なくていい。そのままじっとしていろ」
そして殿下はマントを翻し、そのまま私をすっぽり包んだ。刹那、身体がふわりと軽くなる。先ほど抱き上げられたときとは違う、手足が重さを無くしたかのような浮遊感。
(なに、これ……)
殿下の胸に顔を押し付けられ、何も見えず聞こえないまま、じっとしていると、耳元で「着いたぞ」と声がした。
「つい、た……?」
殿下の力がゆるみ、ふと顔をあげると、そこは見慣れた空間。落ち着いた淡いグリーンの壁紙、クロシェ柄のレースカーテン。続き部屋のドアのすぐ側に不自然に置かれたひとり寝のベッド。
「ここは……」
「なんだ、もう忘れたのか。薄情だな」
愛しい殿下の声もすり抜けるほど私は驚いていた。そこは私が6年の歳月を過ごした、懐かしさもまだわかぬほど記憶に新しい、王宮の部屋だった。
「なん、で……」
私は今しがた森にいた。それがなぜここにいるのかーーー。混乱する頭に、またしても声が降ってきた。
「ユーファ、大丈夫か。怪我は?」
「殿、下? どうして……」
「説明はあとだ。おまえはーーーひどい格好をしている」
その一言で混乱する私の頭が一瞬にして現実に戻った。そうだ、私は男たちに襲われ服を裂かれたところだった。転んであちこち傷ついてもいるみたいだが、何より羞恥心が痛くて思わず目を伏せた。
(こんな姿を殿下に見られるなんて……)
ただでさえ厄介者で、ようやく縁が切れたと思った娘が、こんな格好で戻ってくるなど、彼にとってはどれだけ舌打ちしたくなる出来事だろう。
「申し訳ありません! 本当に申し訳なく……」
「おまえが謝る必要はない」
「ですが……っ」
「本当だ。おまえのせいではない、すべて私が……私が悪かった」
「でん……か?」
「おまえをこんな目に合わせるつもりじゃなかった。ただ、おまえはいつまでも俺の傍にいてくれるものだと、そう思って、その事実にあぐらをかいて、周りが何を思っているか見抜けなかった、間抜けな私のせいだ。ユーファ……すまない」
すまない、と重ねて私の耳元で呟く殿下の悲痛な叫びに、またしても私の頭が混乱した。けれど求めていたぬくもりが私をたくましく包んでくれている安心感から、いつの間にか私は目を閉じていた。




