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その日は登校日ではなく、私はいつも通りの朝を迎えていた。剣術の鍛錬をする殿下の姿を眺め、一緒に朝食をとり、食後は執務にあたる殿下を見送って、自分は控室にこもる。いつもは読書をするか、最近は卒業論文に取りかかっていたが、その論文も先週末、エンゲルス先生に提出していた。あとは合格か不合格かの審議を待つばかりだが、十分に練った卒業論文が落とされることはまずないため、実質卒業認定を受けたことになる。
隣から殿下とカイエン様が何やら会話しているらしい気配があった。内容までは聞き取れない。そんなわずかな息遣いも拾おうと、じっと耳を傾ける。
明日は殿下の誕生日のため、王宮でちょっとしたパーティが開かれる。国王・王妃陛下とご兄弟が揃い、招かれた上位貴族たちが殿下にお祝いを述べる機会が設けられる。貴族の当主夫妻のみの出席で、子女は参加を許されないから、華やかさはやや欠けるが、今年は王太子殿下の成人ということもあって、いつもの年より大掛かりだ。
明日は殿下のみならず、王宮中が忙しくなる。その流れに隠れるようにひっそりと退城するようにというのが、バルト伯爵からの指示だった。伯爵が用意してくれた馬車に乗って、私はマクレガー侯爵領を目指すことになる。
必要な荷物はすでにメラニア様に預かってもらっていた。とはいっても私物などほとんどない。王太子宮の私の部屋にあるものはすべて王家からの下賜品だ。持ち出しが許されるとは思えず、ただ道中の着替えなどは必要なため、悩んだ末、夜に来ていた詰襟デザインのワンピースを数着いただくことにした。私以外に着るものはいないだろうから、お許し願いたい。
私の退職後に与えられるいくつかの特権については、直接実家へ届けられるよう、バルト伯爵が手配してくれるそうだ。本来なら当事者である私も含めて話し合いの機会が設けられてしかるべきだが、なにぶん私の就職が早々と決まってしまい、王宮は殿下の誕生日の準備で忙しく、時間をとることが難しいと、カイエン様を通じて説明があった。王家にはすでに多大なものをいただいている。これ以上望むのは罰当たりとすら思える。だからたとえ身一つで放り出されたとしても何も言うつもりはなかった。それにバルト伯爵は、私が王宮に伺候して以降も何かと実家のことを気にかけてくださった。そんな伯爵が手配してくださるのだから、無能な私が口を挟むよりよっぽど有意義な結果になるだろう。
可能ならバルト伯爵に直接お礼を述べたかったが、このような状況だ。気にしすぎなくてよいと間に入ってくださったカイエン様もおっしゃっていたので、その言葉に甘えることにした。
本当は国王陛下と王妃様にもご挨拶申し上げたかった。お2人には本当によくしていただいたのだ。私は勝手に殿下の傍を離れることができないので、殿下がお2人に謁見されるときにわずかでも時間をいただけないか相談してみたが、殿下から「何を馬鹿なことを。忙しい両親がおまえのために割ける時間など持てるわけがなかろう」と却下された。それもそうだと自分の浅はかな提案を反省し、部屋に手紙を残すことにした。きっと侍女の誰かが気づいて、殿下かカイエン様につないでくれるだろう。お2人が必要と思えば両陛下に届くかもしれないし、不要と判断されればそれまでということで構わない。
長年私についてくれた侍女たちにもすでに私が去ることは通知済みだとカイエン様から聞かされていた。今朝の彼女たちも無駄口ひとつ叩かず、いつも通りに仕事してくれていた。途中で人員の入れ替わりなどはあったが、長い者だと6年に渡り私を支えてくれたわけで、せめてお礼をと思い、今日で契約満了となること、長い間世話になり感謝していることを述べると、笑顔で「とんでもございません」と答えてくれた。私が去ることも、彼女たちにとっては数ある業務のひとつが軽減するだけのことにすぎない。それでも、お礼が伝えられてよかった。
殿下とカイエン様は明日の準備もあってかなり多忙のようだった。昼食は執務をしながら済ませるそうで、私はひとりでテーブルにつくことになった。お茶の時間もスキップ。このままでは最後に殿下にご挨拶することも叶わないかもしれない。殿下には手紙を残していないのだけれど、と心配になっていると、夕食は一緒に過ごせると連絡があった。
私が明日マクレガー領に向かうことはすでにカイエン様から伝えられている。だからこれが最後の殿下との晩餐だ。夕食にはカイエン様も同席されると聞いた。明日も忙しい1日になるので、カイエン様は王太子宮に一泊されるそうだ。殿下と2人きりになれなかったことをとても残念に思ったが、高望みをしてはいけないと思い直す。
「私にとっては最後の晩餐でも、殿下にとってはこの先何千回と繰り返す夕食のひとつに過ぎないのだわね」
これがメラニア様との食事だったら、殿下はずっと記憶しておくのだろうか。初めて彼女と過ごした晩餐、記念日の晩餐、家族との晩餐、すべてがきらきらした思い出として、あの美しい人の中に積み上がっていく。その隙間に、落ちぶれた子爵家の無能な女の姿など、入り込む余地はない。
殿下の中に残れないなら、代わりに私の中を殿下との思い出でいっぱいにしよう。そう思いながら、晩餐の席に着いた。
夕食は恙なく進んだ。いつも殿下と私はほとんど会話しない。時折何かの拍子に殿下から質問があるくらいで、たいていはカトラリーのわずかな音や給仕の者たちのかすかな物音が響くのみだ。
だが今日はカイエン様がいらっしゃったことで、2人して執務のことや明日のことで話し合っていらした。最後に殿下の声をたっぷり聞くことができて至福のときでもあった。
夕食が終わると、殿下は執務室に再び戻るか、部屋に戻るかの2択だ。今日は昼食の時間も惜しんで仕事を片付けたおかげで、早めに部屋に上がれるとのこと。
ならばもうこれが最後のチャンスだ。私は勇気を出してダイニングルームを出る殿下の背中に声をかけた。
「殿下、少々お時間をよろしいでしょうか」
「……なんだ」
カイエン様と並んでいたその背中がこちらを向いた。その、最後の姿を目に焼き付けながら、私は口を開いた。
「恐れながら本日が、私のお役目の最終日にございます。殿下におかれましてはこのようなつまらぬ身を長きに渡り傍に置いていただき、誠にありがとうございました」
せっかく殿下の姿を見られる最後のチャンスだと言うのに、私は顔を上げ続けることができなかった。最後の最後に、彼の冷たい視線に晒されることが耐えられなかった。
「少し早くはございますが、無事成人を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます。殿下の未来とこの国の行く末が、晴れがましいものとなりますよう、今後ともお祈り申し上げます」
「……あぁ」
うろんな響きの声が頭上から降ってくる。そんな響きさえも今は愛おしい。
この6年間、一心に彼のことを思ってきた。けれどこの抱くことの許されぬ思いは、この胸の中だけに留めておかねばならない。そう思うと、余計なことを口走りそうになる唇を噛み締めていまい、せっかく私のために貴重な時間を割いてくださっている殿下に、これ以上言葉を告げることができなかった。
せめて別れの挨拶を。けじめだから。私の長い恋を終わらせるために。
そう決意し瞳をあげた瞬間、カイエン様に呼び止められた。
「ユーファミア嬢。それくらいにしておきませんか。殿下は明日も多忙な御身です」
その冷たい視線は、これ以上殿下を引き止めるのでないと強く私を戒めていた。はっと息を呑んだ私は再び顔を下げる。
「呼び止めてしまい申し訳ございませんでした」
絞り出すようにそう告げると、「別にかまわん」といつも通りの殿下の声がした。そのままカイエン様に促され、部屋へと向かい始めた殿下の後ろを私も無言でついていく。近衛の者たちやカイエン様とともに居室に入る殿下を見届け、そこでようやく私の長きに渡る仕事が完全に終わった。今夜のうちにまた魔力暴走が起きれば私の出番もあるだろうが、2週間ほど前に発作が起きたばかりだ。周期を考えるともう起きることはない。
呆気ない最後に、私はしばし放心していた。そのまま警護につく近衛の方たちに軽く会釈し、自室に引き上げようと扉に触れたとき、カイエン様に声をかけられた。
「ユーファミア嬢、もし殿下に伝えたいことがあるなら、手紙でよければ預かりますよ」
「え?」
「あなたも6年の任期をこなした中で、いろいろな思いがおありでしょう」
「よろしいのですか?」
「それくらいでしたら同級生のよしみで私がどうにかしましょう。ただし、余計なことは書かぬように。メラニア嬢に迷惑をかけぬようくれぐれも注意してください。書いて良いのはお礼のことばと、あなたが自分の意思で王宮を離れると決めたことのみです。あぁ念のため私の方で内容を精査させていただきますが、それでもよろしければ明日の行事が終わった後にでも殿下に私からお渡ししましょう」
「あ、ありがとうございます!」
思いもかけぬカイエン様の温情に心が踊った。言いたいことはたくさんあるがなかなか言葉にできなかった私にとって、手紙という手段は一番ありがたい。
できた手紙は伝令用の魔法陣で、客間に泊まるカイエン様へ届けることを約束し、私は部屋に駆け込んだ。
その後2時間ほどかけて手紙をしたためた。書きたいことはたくさんあるのに言葉がまとまらない。結局時間をかけたわりにつまらない文言が並ぶことになった。
王太子殿下様
一介の子爵家の娘にすぎぬ私に過ぎたお役目を与えてくださり、本当にありがとうございました。王宮で過ごさせていただいたこと、学院に通わせていただいたこと、感謝してもしきれません。
今後は殿下のお邪魔にならぬ場所から、殿下の幸福をお祈り申し上げます。どうかお幸せに。国王陛下・王妃陛下にもよろしくお伝えください。
ユーファミア・リブレ
カイエン様からも「確かに預かった」と返事があり、安堵した私はひとりで湯浴みを済ませた後、ベッドに潜り込んだ。
明日の早朝、バルト伯爵が手配くださった馬車で王宮を去ることになる。2度と殿下にお目にかかることはない。
窓から見える冴え冴えとした月が妙に眩しかった。まんじりとすることも叶わないまま、朝を迎えることになった。
早朝、メイドが起き出すよりも早く、私は身支度を整え、部屋を出た。殿下の部屋を守る近衛の方達と目があったので小さく会釈をする。そのまま王宮の廊下を抜け、馬車が待つ場所へと向かった。そこには驚くことにカイエン様がいて私を待っていた。
「カイエン様、こんな朝早くからご苦労様です」
「せめて私くらいは見送りをと思いましてね。用意した馬車はうちのものですが、王都の端でマクレガー家のものに乗り換えてもらいます。今日の殿下の生誕祭のためにすでに客人がぞくぞくと到着しているようですので、門のあたりは混み合うでしょうが、辛抱してください」
「もちろんです。最後の最後までお手数をおかけして申し訳ありません」
「マクレガー家の契約は3年ですね。温情に感謝し、しっかりと勤め上げるように」
「承知しております」
既にサインをして提出した契約書を思い出す。3年あれば殿下のことを忘れられるだろうか。忙しく立ち働いているうちに、懐かしい青春の1ページになってくれたら、今この瞬間の胸の痛みも微笑ましく思い出せるかもしれない。
カイエン様に最後の淑女の礼を見せ、私は馬車に乗り込んだ。