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カイエン様に面会の約束をお願いした2日後。
学院は休暇に入ったため、殿下は王太子宮の執務室で王太子としての仕事を始めた。カイエン様も補佐として登城している。私は執務室の隣の控室で本を読みながら過ごしていた。水魔法のエンゲルス先生から貸していただいた、治癒魔法の波動に関する論文集だ。
試験の前に殿下から読まなくていいと取り上げられた本だったが、その後エンゲルス先生に返却に伺い事情をお話したところ、卒業論文として提出しないかと提案をいただいた。私の座学の選択は風魔法だったので、風魔法理論についてまとめようかとクレイ先生と相談していたのだが、その話にエンゲルス先生が割り込まれて、なんだかんだとあった結果、エンゲルス先生に卒業論文指導を頂くことで決着した。「あなたを取られてしまうなんて……無念です」とクレイ先生は声を震わせておられた。とても責任感の強い先生なので、落ちこぼれの私のような生徒でも卒業まできちんと面倒を見なければという使命を強く抱いていらしたのだと思う。
そうした事情で休み中に論文を精読し、後期課程では週に1回ほど登校してエンゲルス先生の論文指導を受けることになった。殿下とカイエン様が執務に当たられている間、私は暇なので、こうして近くで勉強をさせていただいている。
昼食は一緒にとるようにと殿下のお達しがあったので、私は彼らを待ちつつ時間を過ごしていた。お昼時になり、控室の扉がノックされ、カイエン様が現れた。
「そろそろ昼食の時間ですから準備するようにと殿下が仰せです」
「はい、わかりました。参ります」
「そうだ、養父への面会の申し出の件ですが、伝言を預かっています。養父は忙しいため時間をとることは難しいそうです。ですが、メラニア嬢の申し出は大変よい就職口なのでぜひ受けるべきだと言っていました」
「そうなのですか?」
「えぇ。あなたは既にメラニア嬢から契約書も預かっているそうですね? “マクレガー家の契約だから間違いはないと思うが、念の為空き時間にでも自分が目を通そう“とも言っていました。ですので私が一旦その契約書を預かって、養父に渡しておきますよ」
「……わかりました。お手数をおかけいたします。あとで部屋からとって参ります」
バルト伯爵の申し出はとてもありがたかったが、面会を断られてしまったことが少なからずショックだった。私の先行きについて、伯爵はそれほど気にしておられないということだろうか。
それを察したのか、カイエン様が眉を顰めた。
「養父は王妃宮の事務長官、いわば王妃様の筆頭秘書です。一使用人であるあなたのために割く時間がなかなかとれないのは当然でしょう。王家があなたの面倒を見るのは殿下が成人されるまでのこと。それ以降のことに関しては、本来なら気にする必要もないのです。それを、間接的ながら契約書のチェックまでしてくれるというのですから、感謝すべきでしょうに」
「い、いえ、その、バルト伯爵のお申し出は大変ありがたく……」
「王家の皆様と寝食を共にし、避暑の離宮にまでお供をさせていただいて、何か勘違いをしているようですが、あなたは所詮下級貴族の令嬢です。分を弁えるべきではありませんか?」
「……申し訳ありません」
カイエン様の冷たい瞳に射竦められ、肩を震わせていると、再び部屋にノックの音が響いた。こちらが返事する前に勢いよく扉が開かれる。
「おまえたち、遅いぞ。何をしている」
「殿下、いえ、なんでもありませんよ。ユーファミア嬢の読んでいる論文について意見をかわしていただけです」
「……あの耄碌ジジィの件か。本当に早くくたばればいいものを。まぁいい。時間だぞ」
「承知しました」
カイエン様に促され、私も殿下に続こうとする。殿下の背中が一瞬見えなくなった隙に、カイエン様が声を顰めた。
「言うまでもありませんが、殿下のお耳に余計なことは入れぬように。国王陛下は早々に殿下に王位を譲って引退したいというご意向ですから、今殿下はあらゆる執務を引き継ぐのにお忙しい御身です。あなたの将来など、あの方にとっては取るに足らない情報ですから、お手を煩わせることなどないよう」
そうして私の返事など待たず、カイエン様は先に部屋を出ていった。
その後カイエン様の言いつけ通り、メラニア様からいただいた契約書をバルト伯爵に提出した。1週間ほどでそれは手元に戻ってきた。
「養父はどこにも問題ないと言っていました。むしろ魔力なしのあなたにとっては破格の内容だと。おそらくメラニア嬢が手を回してよい待遇を用意してくれたのでしょう。安心してサインしてよいとのことです」
この契約書にサインしてメラニア様に提出すれば、私は殿下の誕生日を待って、すぐにマクレガー領に発つことになる。学院の卒業式には出られないのは寂しい気もするが、卒業式と安定した仕事は天秤にかけるまでもない。
「あなたは外出も難しいでしょうから、サインした契約書を私がメラニア嬢まで届けましょう」
「いえ、カイエン様のお手を煩わせるのは本意ではありません。それに、私、直接メラニア様にお渡ししたいのです。あと数日で後期課程も始まりますから、お会いする機会はあると思います」
「ふむ、そこまで言うのでしたら……。ですがなるべく早く契約を済ませた方がいいでしょう。メラニア嬢も、あなたのためだからこそお父上のマクレガー宰相を説得してまで待ってくださっているのです。そのご好意に甘えるのはよくありませんよ」
「承知しています」
そんなやりとりを交わした後、部屋に戻った私は契約書と向き合っていた。
マクレガー家との契約は3年。メラニア様は延長も解除も自由だと言ってくれた。お給金も十分だし、住み込みで制服も支給とのことだから衣食住にも困らない。子どもたちと接するのは弟の世話で慣れているし、読み書きの指導なら魔力なしの私でもできること。仕事の条件としては悪いところが何もない。マクレガー領が遠いというのが難点と言えば難点だが、そもそも女性は結婚したら家を出るもので、実家に帰れないという状況も珍しくはないから、ぐずぐず思うのは情けない話だ。それに家族と離れる寂しさはこの6年で乗り越えた。
だからそれは本当の意味での難点ではない。私に契約を渋らせているのはただひとつの理由―――。
「殿下……」
口をついた言葉の音量が思った以上に大きすぎて、びくりとする。だが一度こぼれた気持ちは堰を切ったように溢れ、止まることがなかった。
「殿下、殿下……カーティス殿下」
一使用人の私は決して呼ぶことを許されない御名を、誰もおらぬ部屋の窓辺で口にする。私は殿下が好きだ。あの金の髪も、深い藍色の瞳も、私の腰に回される逞しい手も、鼓動が感じられる胸も、冷たい唇も、シトラスの香りも、苛立たしげに呼ぶ私の名の響きさえーーすべてを愛している。抱くことの許されぬ思いで何年も燻り続けている心はすっかり焼き切れて、何も受け入れられぬほど荒廃してしまった。それでもなお求めてしまう自分の浅ましさに涙する。
あの人はメラニア様のもの。その髪も瞳も唇も、深い思いも、本当の意味で私に与えられることはない。
わかっていても思い切れない自分が本気で情けない。もしメラニア様のお誘いを断って、バルト伯爵に縋って王都で仕事をもらえたとしたら、殿下の傍にいられるだろうか。いや、仮にそれが叶ったとしても、殿下だけではなくメラニア様もご一緒だ。幸せな2人の姿を見つめながら生きていくのは辛い。それならいっそ、2人の姿がまったく見えず、2度と見えることのない場所で暮らした方がずっといい。
私は机に戻り、ペンを手にした。大きく深呼吸した後、マクレガー家の印が押されたその契約書に震える手でサインをした。最後の文字を綴った瞬間、頬から涙がこぼれ落ち、契約書の一部を濡らした。幸い文字にはかからなかったが、指先でその箇所をこするとますます染みが広がった。無駄にあがく自分の情けない姿そのもののようで、次から次へと溢れる涙を拭うことすら罪のように感じ、私はひとり、嗚咽を我慢した。