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6年間の総決算となる中間試験前日。1日の授業が終わり、生徒たちが帰宅の途に着くために三々五々に散りかけた時間帯。
突然殿下の魔力暴走発作が起こった。
「カーティス殿下!?」
真っ先に気づいたのはメラニア様だった。崩れ落ちる殿下に手を伸ばすも、細身の彼女に支えられるはずもなく、殿下はそのまま床に尻餅をついた。
「殿下!」
すぐさまカイエン様が駆けつけ、御身を椅子に引き上げる。その段階で私も近くに駆けつけたが、メラニア様が立ち塞がって近づくことができない。
「あの、メラニア様……」
「殿下! カーティス殿下、大丈夫ですか!?」
「……大丈夫、だ」
殿下の返事を待たずカイエン様が居残っていた生徒たちに声をかけた。
「皆、殿下の魔力暴走だ。急ぎ教室を出てくれ!」
その声を待たずにすでに教室の外へと飛び出していく者もいた。皆殿下とともに13歳からこの学院で学んできた同級生たちだ。王太子殿下の身に何が起きているのかを知っていたし、それを治めるために特別な治療が必要なことも知っている。緊急時の行動として過去に何度も経験してきたことだ。
「メラニア嬢、あなたも外へ!」
カイエン様は己より身分の高いメラニア様には強くは出られない。声でなんとか行動を促そうとする。
「……わかりました」
唇を噛み締めながら殿下から離れるメラニア様が私の方を振り返った。いつも柔らかな表情で私にも慈しみの目を向けられるメラニア様の琥珀の瞳が、そのときは私を強く睨みつけてきた。見たことのない色に一瞬ぞくりと背筋が凍る。
そのままさっと瞳を伏せ、彼女は外へと出ていく。
「カイエン……おまえも、出ていけ」
「……わかりました」
殿下は治療中の姿を誰にも見せたがらない。学院も本人のプライバシーを考慮してそれを了承し、たとえ授業中であっても教師を含め全員が外へ出る配慮を取り入れていた。
カイエン様が教室の扉を閉じるのを待って、私は急ぎ殿下にキスをした。口付けながら、殿下の濃紺の制服の燕脂のネクタイをゆるめていく。初めは拙かったその行為も、何度もするうちに慣れてきた。キスを何度も重ねながらも手元に狂いがない程度にはスムーズにほどいていく。そのままシャツのボタンのいくつかを外すと、殿下の粗い呼吸が一瞬和らいだ。
椅子に強制的に座らされた殿下にキスするためには、私は中腰の姿勢にならなければならない。なかなかきつい姿勢だがそれも初めのうちだけ。キスを始めて少したてば、いつも殿下の腕が私を引き寄せて、膝の上に身体ごと誘ってくれた。そうすれば彼の膝に座っていられるので姿勢はずっと楽になる。
放課後の教室で。彼の冷たい唇を喰むように啄みながら、舌を絡ませる。殿下の口元から立ち上る温かい気を嚥下し、また求めるように口付ける。
視界の隅で、曇りガラスの先の人の気配を感じた。学友たちが教室の外で、治療が終わるのを待っている。治療内容は王家の秘事ということになっているが、こうも毎回学校の壁一枚隔てた場所で治療に当たっていたらーーー私たちが何をしているか、すでに皆の知りうるところとなっていた。
私たちがキスをしているのを、皆が見ている。否、見てはいないけれど、曇りガラスの向こうで想像している。
頬がかっと熱くなるのを感じ、一瞬、殿下から逃げたくなった。だが殿下の力強い腕が私を縫い止め、そのままきつく抱き寄せた。殿下のシャツ越しにもわかる厚い胸板から直接熱を感じ、全身から彼のぬくもりを吸い取っているような気持ちになって、気恥ずかしさに手をぎゅっと握りしめる。殿下の制服の上着が皺になることにも気づけないほど、私はその熱に溺れていた。
「ユーファ……」
ユーファミアでなくユーファと、家族しか呼ばぬ愛称が殿下の口から溢れたとき、思わず泣きそうになった。殿下が私の一番近くにいてくれる親しみの嬉しさと、2人だけの治療時間が終わりを告げた悲しさと。
昔は殿下が完全に意識を取り戻すまでキスをしていた。けれど今は、最後まで私がいることを嫌がられるようになってしまった。
だから、魔力暴走が収まりかけ、私の名前を呼ぶのが合図。私は引き剥がすように殿下の腕をとき、膝から降りた。
殿下は呆然としたように藍色の瞳をすがめてこちらを見ている。呼吸はもう大丈夫だ。私は手早く殿下のボタンとネクタイを元通りにし、上着の皺を伸ばした。そのまま自分の制服の乱れも直して、教室の入り口へと向かう。
「殿下!」
扉を開けてすぐに飛び込んできたのはメラニア様。わき目も降らず殿下に駆け寄る。続くカイエン様は私にちらりと視線を向けた後、殿下の元へと近づく。カイエン様が症状を確認し、殿下が完全に立ち上がれるようになれば、ようやくほかの生徒たちも教室に戻ることを許される。
私はその間、教室から立ち去るようにしている。教室に戻ってくる生徒たちにちらちらと興味関心や蔑みの視線を向けられるのが苦しかった。一度魔力暴走が起きればしばらくは安全だ。そのままカイエン様が探しにくるまで、所定の場所でひとり待つことにしていた。
学院で魔力暴走が起きるのはずいぶん久々だ。以前は3日に1度くらいの割合で起こしていた発作が年々減少し、今は1、2ヶ月に1回程度。中間試験が終われば2週間の短い休暇を挟んで後期課程となるが、すべての単位をとっくの昔に履修済みで、就職する必要もない殿下は、後期はほとんど学校に出席しなくてもよいスケジュールになると聞いている。となればこれが最後の学院での治療になる可能性もあった。
「長かったのか、短かったのか……」
私の6年の学院生活も終盤を迎える。卒業後はどうなるのかまだ決まっていない。王家との契約もあと半年だが、契約後の私の去就など王家には関係ない話だろうから相談するのも憚られた。できればどこかで職を得たいものだが、魔力なしの私を雇ってくれる場所は限られてくる。可能なら裕福な平民の家庭教師の枠なんかがあればいいなと夢を見ているが、王立学院卒の肩書きはあっても内実が伴っていなければ雇ってはもらえない。それに私は学院中の貴族や優秀な平民たちからも白い目で見られている立場だ。私の生徒となる子どもは将来肩身の狭い思いをすることになるかもしれない。
となれば実家に戻るしかない。契約満了時には謝礼金をいただけるという話だったので、お金を持って帰ればしばらくは肩身の狭い思いをすることもない。母に今後のことを相談したかったが、殿下の治癒係という秘匿すべき職務についている私の手紙はすべて検閲が入ることになっており、契約後の話を手紙ですることも禁じられていた。このままでは相談する暇もなく、突然帰郷することになりそうだ。母も弟も私を追い出すような人たちではないから、大きな問題にはならないのがありがたい。
王太子宮に移ってからは、王妃宮付きのバルト伯爵との面会機会も減ってしまった。何かあれば養子であるカイエン様を通じてやりとりすることになっている。そろそろバルト伯爵に今後のことを相談してもよいかもしれない。あとでカイエン様にお願いしてみよう。
そうつらつらと考えていた私は、治療の影響もあって、先ほどのメラニア様の睨みつけるような視線について、すっかり忘れてしまっていた。