15
その夜。
まんじりともできぬまま、ベッドに身を横たえて過ごしていた私の部屋にノックの音が響いた。
「ユーファミア様、失礼いたします!」
いつもなら私が起きるか返事するまでメイドたちは入ってこない。飛び起きた私もすぐに状況を理解した。
殿下の魔力暴走発作だ。
立ちあがろうにも、足を怪我している私は誰かの助けを得なければ歩けない。メイドが2人、ベッドに駆け寄ってきた。
「ユーファミア様、お急ぎください。殿下が……」
「わかっています。手伝っていただけますか?」
幸い片足は無事だ。女性でも支えてもらえればどうにかなる。立ち上がったところで、私ははた、と気がついた。昼間、意識のない間にここに運ばれた私は、夜着に着替えさせられていた。以前殿下の前にこのような姿で出向いてしまったときの状況を思い出すけれど。
「着替えている時間はないわよね」
私の呟きが聞こえたのか、メイドのひとりが「上着をお持ちしましょう」とクローゼットに走った。私の肩に大判のショールがかけられたが、仕方ない。これで許してもらうしかない。
ここ2週間ほど発作がない状態が続いていたこともあり、完全に油断していた。なぜ意識が戻った段階で着替えなかったのだろう。ここにも、あの詰襟のワンピースは持ってきているというのに。
片足を引きずりながら部屋を出ると、近衛や侍従たちの姿があった。女性としてこのような姿を見られることも大問題だが、それどころではない。
ゆっくり歩きながら殿下の居室に入る。どうやら寝室にいるようだ。それにしてもーーー私は殿下付きの侍従に歩きながらひとつの疑問を投げかける。
「あの、私は気をつけていたつもりなのですが、殿下のベルが聞こえなかったようです。申し訳ありません」
「いえ、おそらく殿下はベルを鳴らされてはいません。寝室から異音が聞こえ、私が声をおかけしても返事がなかったので気がつけたのです」
「まぁ、なぜそんなことに……」
「わかりません。ベルを鳴らす暇もないほど急激に発作が始まったのかもしれませんが……」
侍従はそれ以上、口を噤んだ。その言外の意味をとれぬほど私も愚かではない。
(私が怪我をしているのを気遣って、呼ぶのを遠慮したのだわーーー)
それは寝室に入って、ベッドに埋もれる殿下の姿を見ても明らかだった。魔力のコントロール力が身に付いてきたこともあって、発作自体の回数も減り、内容も軽度になってきていたはずだ。それが今夜は、意識が朦朧として返事も返ってこないほどひどく憔悴していた。
「すぐに治療を」
「あの、私どもはどういたしましょうか」
いつもなら夜の治療は私と殿下の2人だけだ。それが殿下の要望でもあった。だが今は私が怪我をしていることで、皆が気を遣ったようだ。
ベッド脇に座る私。膝を立てる分には足首は使わなくてすむし、なんなら片足で自身を支えるくらいは問題ない。
「たぶん大丈夫です。外していただけますか」
「かしこまりました。何かあれば及びください」
そうして寝室に2人きりになった。
何かの感慨を抱く暇も惜しんで、私は殿下に口付けた。いつものように立ち登るシトラス系の香り。唇を割り開いて、さらに奥へと侵入していく。感じる温度も感触も、いつもと変わりない。すぐさま熱いものがぽわん、と唇を通して伝ってきた。暴走している魔力を、私という器に取り込んでいく。殿下の浅い息を気遣うために、何度か唇を離しては、また口付けていく。
この時間は誰にも邪魔できない。そう、メラニア様にだって。そう考える自分の浅ましさに仄暗くなりながら、それでも私は、この人の唇を求めることをやめられない。
何度かキスをしているうちに、殿下の意識に変化があった。呼吸の乱れが治まり、舌がまとわりついてくる。
「ユーファ……」
一瞬離れた隙に耳元に届いた声に、不覚にも目を開いてしまった。すぐ近くに眇められた藍色の瞳がある。その瞳を愛おしいほどに求めながら、私はまた彼にキスをした。ベッドに沈んでいたはずの殿下の腕が、不意に私の背中に回された。
「あ……っ」
強い力で抱き寄せられた反動で、私の身体がベッドに引き上げられた。自分が殿下を組み敷くような体制に、胸がぎゅっとしめつけられる。
早く、助けなければ。私はまた殿下の唇をまさぐった。それよりも早く、彼の唇が私のそれを捉えた。
どれくらいの時間が過ぎたのか。おそらく数分も経っていないはず。だがその間に私たちは何度も唇を重ねた。唇に、身体に、お互いの体温を感じながら。その背に強い安心感を抱きながら。
「ユーファミア……もう、いい」
殿下の瞳が見開かれ、私は強く推し離された。息はだいぶ整ってきたが、離されたときの唇はまだ冷たかった。
「殿下、でも……」
「もういいと言っている」
そしてサイドにあったベルを乱暴に鳴らした。音を聞いた侍従たちが入ってくる。
「殿下、ユーファミア様」
「治療は終わった。ユーファミアを部屋へ」
「かしこまりました」
「殿下っ、あの……」
一見なんでもないように見えるが、まだ治療は終わっていないはず。長くこの仕事を務めてきた私にはわかった。けれど彼は私を追い返そうとしている。
「いつも言っているだろう。最後まで傍にいるんじゃない……迷惑だ」
「……っ」
そうだった。私はメイドの手を借り、立ち上がる。まるで引きずられる罪人のような気持ちで寝室を後にする。
「ユーファミア様、大丈夫でございますか」
「……えぇ」
力なく頷きながら、私もまた寝室に戻る。おやすみなさいませというメイドの声に返事も返せぬまま、また空を見上げた。
いつの頃からか、殿下は意識が完全に戻りきる前に治療を切り上げて、部屋を出ていくようにとおっしゃるようになった。私は最後まで彼の様子を見ることは許されず、殿下が出ていけとおっしゃる前に察して部屋を出るようにしている。たいていはすぐ近くに侍従かカイエン様がおられるから、報告をして交代するのだ。
だから今日も、それで追い出されたのだろう。意識が完全に戻ったときに見るのが私の姿であることが、お気に召さないがために。
わかっていること。殿下が愛するのはメラニア様。傍にいてほしいのも。そこに私が入り込む隙はない。
いつの間にか涙が込み上げてきた。次から次へと溢れ出るそれは、私の意思でコントロールすることができない。
泣くほど辛くても、私は自分に魔力がなかったことを喜んでいる。魔力なしだったからこそ、殿下の治癒係に選ばれ、そして彼の傍にいることを許された。元の私の身分からすれば夢に描くことすら恐れ多い状況だ。
だから私は幸せだ。今日も愛する人とキスをしたーーー。
夏の空にも月が見える。これがここで見る最後の満月。この光を、私は永遠に忘れない。